いい子だからね
雨藤フラシ
第1話
「いい子だから、二人ともいい子だからねえ」
祖母はよくそう言って、わたしたち双子を育てた。わたしが
「うーいそろにー、そゆ、なだーえるー」
「うつーろにーたけー、まごうーせづたとー」
声を合わせ、節を合わせ、手をつないで。意味の分からない言葉だったけれど、うたっていると妙に楽しくなってくる。
「お~やえ~こな~ぶにん♪」
「いうち~うて~だゆ~る♪」
祖母はこれを唄う時は「右回りで唄っちゃいけないよ」と言ったものだ。右回りと言っても、歌詞を逆から読むのとは違うらしい。
「えまこげ~えまこげ~!」
「まこごな~なこ!」
「ななこ~にろ~たふ!」
唄を二周もすれば、祖母とわたしたちが暮らす平屋につく。帰った時、わたしたちはまず鼻をきかせて、うちからお菓子の匂いがしないか確かめた。
オーブンでさっくり焼き上げたカップケーキにクッキー、ホットケーキミックスを丸めて揚げたお団子みたいなドーナツ、あんこを塗って重ねたパンケーキ。
祖母に教えられた唄をうたったり、絵を描いたりすると、ご褒美にたくさんお菓子をくれる。「いい子だねえ、いい子だねえ」と笑って、頭をなでて。
わたしたちはそれが大好きだった。お菓子は素朴だったけれど、ふっくらと甘くて、噛むと口の中でほわほわと温かい味がする。
けれど、今日は美味しそうな匂いはしなかった。こういう時は、家の前に車が止まっていないか確かめて、足早に玄関へ向かう。
「おばあちゃん、ただいま!」
「ただいま! お唄たくさんうたったよ!」
「おや、朱音ちゃん、真朱ちゃん、お帰り。いい子だねえ」
玄関でわたしたち姉妹を迎えに現れる祖母は、いつも背筋をしゃんと伸ばして、すっきりと清潔な身なりをしていた。
「おばあちゃん、今日はお客さん、来る?」
「今日は来ないよ。でも、明日は朝から〝晴らし〟のお客さんだから、早めに休もうね。いい子だからね」
「はーい」
「はぁーい」
祖母のところには、色んなお客さんが来る。
様子のおかしい人が治療に来る〝晴らし〟。
失ったものを探してもらう〝透かし〟。
来ても必ず断るのが〝なわし〟。
なわしを追い返した時は、祖母の機嫌が悪くなるのでわたしたちはとても困った。家の前に塩をたくさん撒いて、神棚にお酒や新しいさかきをお供えする。
孫のわたしたちに八つ当たりなんてしないけれど、いつもニコニコしている祖母が、むすっとした顔で黙っているのは居心地が悪い。
(晴らしで良かったね)
(透かしなら、もっと良かったね)
朱音と目でそう通じ合いながら、家に上がる。双子の姉とは黙っていても、ちょっとした話はできるものだ。
祖母の仕事では透かしが一番多い。その時は、わたしたちは祖母の隣で座っているだけだから楽だけど、晴らしだと時々たいへんなことになる。
晴らしの前はお肉やお魚が食べられないし、冬でも水だけのお風呂に服を着たまま入らなくちゃいけない。
そして白い着物に着替えて、祖母と一緒にお客さんの相手をするのだ。
正座にはもう慣れたけれど、わたしたちはいつも「今日の晴らしは無事に終わりますように」と祈っている。
(なにに祈るの?)
(おばあちゃんに祈ってる)
(うん。わたしも祈ってる)
朱音は時々、こうしてわたしの心を読んだ。それは嫌なことじゃない。双子だから当然だと思ったし、朱音と心が通じなくなることなんて想像できない。
翌日、犬みたいにへぁへぁと息を荒くした若い男が、父親らしき中年に連れてこられた。あの男にくっついたものを、晴らしてやるのが祖母の役目だ。
普通の家なら仏間に当たるであろう部屋、壁を白い布で覆い、盛り塩や清めの水を置く。奥には大きな神棚と祭壇をしつらえ、神さまの姿はすだれの向こうに隠されている。ここはお客さんが来た時と、新しい唄と絵を教わる時だけの特別な部屋だ。
わたしたちは祖母と声を合わせて唄をうたった。同じ唄でも、祖母が唱えると高く澄んだ声になって、うちの天井を抜けて、青くて綺麗な高いどこかへ届くみたいだ。
「
「アアアア! ア――ッ! ア――ッ!」
唄の間じゅう、様子のおかしい男はバタバタと畳の上でもだえて、上に乗った父親に押さえつけられていた。何十回めかの唄、わたしたちがもう声が涸れてへとへとになったころ、ガクリと男が動かなくなる。祖母がおごそかに告げた。
「晴れました」
父親がはっと顔を上げる。その下で、様子がおかしかった男がうめいた。さっきまでむいていた白目がくるんと戻って、何の影もない黒目が戻る。
「……とうさん?」
「ああ、健太郎!? おれが分かるのか?」
父子はそれからやんややんやと言い合って、わたしたちは祖母の許しを得て奥に引っこんだ。台所に行ってがぶがぶハーブティーを飲んで、ひっくり返って寝る。
祖母は、つまりは魔女なのだ。この広い日本のどこかで、ちょこちょこといる力のある人。あるいは、目や耳を人より鍛えて、誰もが持っている力を磨いたり、使い方をずっと伝えてきている人。わたしたち姉妹は、その後継者だった。
◆
姉が死んだのは、中学に上がって間もないころだ。
「……なわしをやったんだね」
まじないは、呪いたる「まじ」を「なう」操作すること。なわしとは、祖母の流派における呪詛のことだった。
「どうして?」
姉の棺の前で、わたしはぽつりとこぼすのが精いっぱいだ。
お葬式には誰も来ないのに、なぜかたくさんの花や香典だけ届けらている。おそらく、祖母の常連客か何かからの心遣いだろう。
「わたしと朱音の心が、通じなくなったから?」
中学に入ってから、わたしたちは「変なやつら」「オカルト女」とからかわれ、聞こえよがしに悪口を立てられたり、物を隠されたりするようになった。
それは、信心を試されている場面だったのだと思う。
わたしは祖母と、祖母が信じる神さまを信じている。新興宗教だか民間信仰だか知らないが、わたしたちの教えも、神さまも、唄も、絵も、それは我が家の歴史そのものなのだ。そのことを、恥ずかしいとか人と違うからと言って捨てられない。
「朱音の声が聞こえなくなった時、もっと気づいていれば……!」
泣き崩れる私の背中を、祖母がそっとさすった。
「いい子だから、泣かないでおくれ」
「でも、おばあちゃん」
「朱音ちゃんはなわしに手を出した。悪い子になったんだよ。でも、真朱ちゃん。お前だけはいい子でいてね。悪い子にはならないでおくれ……」
ふと、心に冷たい風が吹き込む。わたしは思わず祖母に訊ねた。
「なわしをする悪い子は、どうなるの?」
「決まってるだろう。地獄行きさ」
優しい祖母の口から、そんな言葉が出るなんて。
でも、そうだ、祖母は必ずなわしの仕事は断ってきた。人を呪わば穴二つ、世間の常識にうといわたしでも知っている。
けれど、それじゃあ。一方的にいじめられて、じっと耐えていた朱音はどこで報われればいいのだろう。大した理由もなく人をいじめる奴らより、なわしに手を出すことの方が、ずっとずっと罪が重いなんて。
「そんなの……納得できない」
「だいじょうぶ。二人で朱音ちゃんを祀り上げてあげよう。地獄から〝上がり〟になれるよう、これから四十八日ぶっ通しの祈祷だ。ついてこれるかね?」
否があるはずもない。
「やる。ぜったい朱音を助ける」
「ああ。やっぱり、真朱ちゃんはいい子だねえ」
頭をなでる祖母の手の温かさに、涙が溢れながらわたしは拳を握った。
地獄なんて、ばくぜんとしたイメージしかないけれど。地獄絵図なんてものを見れば、ろくでもない場所なのは確かだ。
朱音が今この瞬間も、恐ろしい責め苦に遭っているなんて耐えられない。
◆
「
いつもの特別な部屋で、わたしは祖母の唄を聞きながら大きな和紙に絵を描いた。幼いころ、地面に枝で、道路に白墨で描いた絵は、祖母が教えてくれた呪符の文様だ。どれもこれも、もう目をつぶっても描けるし、寝言で唄もそらんじられる。
それが、魔女の孫の基本的な技能というものだ。わたしたちはずっと、祖母によって跡継ぎとして教育されてきた。
自らの知識と伝統を守るためであっても、祖母のやり方はわたしたち自身のやる気を促して学ばせる形だ。そのやり方に、わたしは愛情を感じている。
(なのに、そうして教えられたことを、なわしなんかに使うなんて)
そのことが酷く悲しかった。
(なわしをやるなら、わたしに言ってくれれば良かったのに! 二人でいっしょなら、地獄行きも怖くなかったじゃない、朱音!)
儀式が始まっても、わたしの心は姉への哀切にはち切れんばかりだ。だって、彼女が死んで一日だって経っていない。部屋に置かれた棺桶の気配から、これが安らかに亡くなった死者ではないとひしひし感じられる。
無残に殺された人間、追い詰められて自殺した人間、苦しんで死んだ人間。そうした遺体の怨念を晴らす出張仕事に、わたしたちも同行したから分かる。
朱音は、今も苦しんでいる。この世に生きているわたしには想像を絶するような責め苦を受けて、魂が粉々になっても許されず、ずっとそれが続こうとしている。
(朱音! 朱音! 朱音!)
姉妹の情があだとなった。目の前に雷が落ちたような衝撃が走り、一瞬何も見えなくなる。真っ白になった視界が戻ると、祭壇が真っ二つに大きく裂けていて、その真ん中だけ視界が戻らないのか、真っ黒になっている。
いや、違う。
「奈落の穴だ……!」
今まで聞いたことがないほど焦った祖母の声だった。
ふーっと生暖かい風が吹いて、巫女服の袖が穴の向こうへ引かれる。生暖かい? いや、これは焼けた灼熱の風、亡者のうめきが溶けた地獄からの風だ!
「お、おばあちゃん……」
「真朱ちゃん、しっかりするんだよ! そこを動かないで、二十八番をお唄い!」
「
教わった唄を唱えながら、わたしは穴の向こうから来るものを見た。ガリガリに痩せこけた、真っ黒な腕。いや。焼け焦げた、焼死体の腕だ。
焼けながら沸騰する血をこぼし、ぶすぶすと煙を出す亡者の腕。ここから出してくれとすがるように、二本三本とわたしにとりすがる。
「
離せとか嫌だとか言いたかったが、わたしは唄をくり返して堪えた。きっと、唄を止めたら引きずり込まれる。けれど、ああ、腕の力が強い。
それもそうだろう。焼かれて裂かれて斬られて潰される、無限に続く責め苦から逃げたいと思うのは当然だ。それとも、あるいは……せめて道連れに、気晴らしに、ともに苦しむ仲間を欲しているだけ?
焦げた腕は、ぱらぱらと爛れた皮膚をこぼしながら、もう私の二の腕に、肩に、背中にまで届いていた。その中に、なぜだろう。
(朱音がいる)
腕ばかりで、そこにつながる肩も胴も顔も見えない亡者たち。なのに、姉の気配がするのは、やはりわたしたちが双子だからだろうか?
「真朱ちゃん! うたって、うたって!」
「おばあちゃん。わたしが代わりになれば、朱音は上がれる?」
儀式はすでにご破算だ。これを立て直すには、一人か二人の犠牲はいるだろう。
でも、今なら。わたしが自分から奈落の穴に飛びこめば、朱音の魂はわたしと入れ替われる。わたしの肉体を依り代にして、朱音はこの世に呼び戻せる。
「悪い子は、わたし一人でいいから」
ごめんね、おばあちゃん。
「わたしのことは、おばあちゃんと朱音が後で上がりにしてね」
自分から走り出そうとすれば、後は一瞬だった。
無限に続く落下感。そういえば、無間地獄はたどりつくまでに、一千年も暗闇を落ち続けるって聞いたっけ。
(わたしが信じていたのは、おばあちゃんの神さまだったのかな。ほんとうは、おばあちゃんと、朱音だけだったんじゃないかな?)
この後にどんな責め苦が待つかは怖いけれど。
朱音は、わたしのお姉ちゃんだから。
あなただけ地獄なんて、やっぱり不公平じゃない。
◆
「いい子だから、いい子だから……戻ってきておくれ」
嗚咽は短かった。老いたこの身で孫たちを上がらせなくてはならない。一人は肉体を持ったままあちらへ逝き、一人は片割れの犠牲でもってこの世に戻ってきた。
「朱音ちゃん。早速で悪いけれど、お手伝い、できるね?」
「もちろん、おばあちゃん」
色々とこの馬鹿孫に言いたいことはあるが、それは後の話だ。
あの愚かで可愛い孫を、救わなくてはならないから。
いい子だからね 雨藤フラシ @Ankhlore
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます