第3話

 しかし時間は確かに黒く過ぎ去っていく。もうそらからは青空は消え、夕暮れの誰彼も終わり、見えるのは夜空だけ。

 暗闇の中、それでも走り続けていた。いつのまにか黒ショールの少女は完全に姿が見えなくなっていた。


 それでも。それでも走り続けていた。繰り返し繰り返し、終わりがいつにあるのかわからずに、もう全身から汗と疲労がにじみでているというのに、だけどそらは止まろうとはしなかった。


 はぁ、はぁ、と荒い息だけがこぼれる。なのにそらはその細くて小さな身体にどれだけの体力があるのか、汗もかかずに平然とした顔で微笑んでいた。

 いや、違う。浮かんでいたのは微かな笑みなどではなくて、はっきりと見える歓喜。何か求めていたものを得たかのような彩りをその表情に覗かせている。


「そら、もういいだろ。俺はもう駄目だ。少し休ませてくれ」


 英司は全身から疲れを滲ませて、息も絶え絶えに呟いていた。

 しかしそらはそのままで、くすくすっとこぼれるような笑みを漏らしていた。


「駄目ですよ。まだ永遠は訪れていないから。ほら、はやくいきましょう」


 そらの笑顔に、ぞく、と背が揺れた。

 そうだ。恐怖から何か見間違えたかのように感じていたが、それは恐れから逃れようとしていたゆえの思い込みだった。

 英司はもうすでに感じていたのに、気付かないようにしていた。

 目の前の少女が、どこか冷たい空気をまとっていた事を。


「永遠なんて、どこにもないだろ」


 なぜか英司はそう答えていた。


「いいえ、ありますよ。永遠に終わらない世界に連れていってあげますから。

 もう何も失う事もない、何も感じる事もない、何も得る事もない、全てが何もない。永遠の喪失の世界へ。

 だって。だって、貴方は頷いたでしょう」


 そらは、その目をすぅと細めて。握っていた手をもういちど強くつなぐ。

 つないだ手からは、温もりは感じられない。

 冷たい、つなぎ止められた鎖のように。

 英司は手を離そうとして、強くふりほどく。しかしそらは思いも寄らない力で、手を離そうとしない。それどころか自らのほうに力尽くで引き寄せていた。

 英司はたたらを踏んで、足を崩して片膝をついていた。斜め上にそらの顔が見える。その笑顔は悦びに震えているのに、冷たくて痛くて現実を感じさせない。


「なん、なんだよ……」


 英司は絞り出すように言葉を紡ぐ。しかし言いたい事の殆どが台詞にならなくて、ただそう呟くだけが精一杯だった。


「私は永遠を、あの子は刹那を。私を選んだのは貴方」


 そらは胸を震わせながら、くすくすっと小さく笑みを漏らしていた。

 そらの顔がゆっくりと近づいてくる。拒もうとするのに、もう身体が満足に動かなかった。疲労が重なっていたのもある。しかしそれ以上に、まるで金縛りにあったかのように身体が言う事を聞かなかった。

 その唇が英司へと触れようとした瞬間、英司はぎゅっと目を瞑る。

 それは決して甘いものでなくて、傍寄ろうとしている恐怖から逃れようとして。

 吐息が顔に掛かり、そして重なろうとした瞬間、その声は伝う。


「……やめて」


 静かに響いた消えそうな声。何とか聞こえるか聞こえないか、ぎりぎりのか細い台詞。だけど英司と、そしてそらにははっきりと伝わっていた。

 目を開けて声のした方向へと視線を向ける。

 痛々しく包帯に包まれた少女。黒ショールの少女が、じっとこちらを見つめていた。


「まだ消えていないの」


 そらは英司の手を離して黒ショールの少女へと振り返り、髪をかき上げ不適な笑みを浮かべていた。


「でも、もう遅いわ。黄昏は誰が彼かわからなくするけど、いまは私が私。貴女はもう私の影に過ぎないから」


 そらの射るような視線に、黒ショールの少女が僅かに顔を落とす。しかしすぐに首を振って、もういちど向き直った。


「まだ、私は消えていないから」


 包帯に包まれた少女は、消え入りそうな声で静かに呟く。

 手首に巻かれた包帯にじわと血が滲んでいた。やはりそこには傷があるのだろうか、とても痛々しく思えた。


「貴女はもうただの夜空に過ぎないの。彼は私のもの、私が永遠をあげるの。私が彼を照らしてあげるから」


 そらはどこか勝ち誇った声で告げると、口元にはっきりと。はっきりと歪んだ笑みを漏らして、胸の前に手を合わせる。

 そしてその両の手を差し出して、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「死という、永遠で」


 そらの声に英司は背を振るわせていた。

 死から逃れたくて、恐怖に囚われて、呼び寄せていた。永遠なんて英司は求めてもいなかったのに。

 黒ショールの少女は寂しそうな顔をして、英司へと振り返る。

 そして少女はただ悲しみしか含まれていない声で英司をみつめていた。


「英司さん。どうして、どうして頷いてしまったんですか? 私は……あんなに頷かないでって言ったのに」


「……なん、だって」


 英司は思わず声を漏らしていた。

 頷かないで、といったのは、そらのはず。そらはしかし今、こうして英司へ死を連れてこようとしているのに。

 目の前のそらと同じ顔の少女は、少しずつ包帯に血を滲ませていく。


「あの時のそらは私だったから」


 手首の、腕の、ふくらはぎの、足首の、首筋の。それぞれに巻かれた包帯に血が滲んでいた。まるでそのまま全てを吹き出してしまいそうなほどに。


「黄昏時は、誰が彼かをわからなくするから。私と彼女とが境目で同じように見える。私はそらで、彼女もそらで。

 私と彼女は表と裏だから。永遠か刹那かを与える、一つだから」


 黒いショールの少女は、いや、そら、は顔を伏せて手を伸ばす。


「まだ間に合うのなら、私のもとに来てください。私は刹那をあげられますから」


 黒ショールのそらは、白スカートのそらと同じように英司を迎え入れようと両の手を差し出していた。


「駄目よ。もう彼は頷いてしまったのだから」


 白スカートのそらは身動き一つ出来ずにいる英司の頬に手を置いて、微笑みかけていた。勝ち誇った優越感を含んだその笑みは何よりも嫌らしく見るものを凍えさせるようで、英司はぐっと喉に息を詰まらせていた。


「……あんたと一緒にいけばまだ俺は生きられるのか?」


 何とか吐き出すように訊ねた言葉。その声に黒ショールのそらは、ぱぁっと顔を明るく変えた。


「はい。私と来てくれれば」

「そんなことは許さない!」


 優しい声で告げた黒そらの言葉を遮るように、白そらは叫ぶ。


「彼は私を選んだ。もうその決定は揺るがせないはずよね?」


 白そらは急激に焦りを含んだ声で、英司の頬に置いた手に力を入れる。

 強い痛みが走り、英司は思わず呻きを漏らす。

 しかしその瞬間、今まで縛り付けられたかのように身動き出来なかった身体が動き出していた。


「俺はどっちも選んじゃねぇっ!」


 英司は強く叫んで白そらの手をふりほどく。そして間髪入れずに駆け出していた。

 永遠だの、刹那だの、英司にはまるで理解出来ない。彼女達が何をしようとしているのかも全くわからなかった。

 しかしとにかくまだ死にたいとは思えない。白そらが与えようとしている死だけはごめんこうむりたかった。


「黒いのっ、お前を選べば生き残れるっていうなら選んでやるよ。とにかく俺はまだ死なねぇっ」


 英司の言葉に、白そらの顔が一気にひきつり。そして、歪んだ。


「だめ。そんなの許されない。絶対に、絶対に……死なせてあげるから!」


 白そらの身体が震えたように見えた。

 それは怒りなのかあるいは歓喜なのか。不自然なまでに感情を剥き出しにして、白そらは英司の背中から追いかけだしていた。

 同時に黒ショールのそらの包帯が首筋から、ぱら、と落ちた。だのに滲んでいたはずの血は、もうどこにもない。

 変わりに白そらの顔が苦痛に歪む。首筋をしきりに抑えて、時折声を漏らしていた。二人は確かに繋がっているのかもしれない。

 どちらかが光となれば、どちらかが影となるように。


「永遠を」


 白そらは強く叫ぶ。少女の冷たい声は英司を凍え上げていく。


「誰がっ」


 とにかく走る。英司にはそれ以外には残されていなかった。しかし全力で駆けているというのに徐々にその距離は詰まっていく。


「化け物がっ」


 英司は大きく叫んだ。

 その瞬間、寂しそうな顔を浮かべて白そらは呟く。


「永遠を」


 何故彼女は頑なに英司に死を与えようとしているのかはわからない。首無しの騎士デュラハンはただ死を連れてくる精霊だと言う。あるいは彼女も運命を与えようとしているに過ぎないのだろうか。

 もしもそうだとしても英司はまだ死ぬ覚悟なんてなく、逃げ去る以外の方法なんて有るはずもなかったが。

 しかし背中から確かに追いかけてくる永遠はもうあと僅かな時間を残しているだけだ。


 くそっ、追いつかれる。俺は死ぬのか。死ぬしか道は残されてないのか。死んでたまるものか。何か、何か方法はないのか。


 英司の頭の中でぐるぐると螺旋のように回る。だけど答は出なくて、追いつかれそうになりながら走り続けるだけ。

 伸ばしたら手が届いてしまうんじゃないか。そんな距離まで近付いていた。


 背中から吐息が聞こえる。


 しかし英司の荒い吐息とは正反対に、一つも乱れない呼吸で白そらは少しずつ迫っていた。

 もう少しで触れる。

 もしももういちど近付いたなら、そのまま全てを失ってしまいそうな不安に、英司の背が揺れる。


 冷たい。

 怖い。

 嫌だ。

 どうして俺だけが。

 何か、誰かどうにかしてくれ。


 英司は言葉にはせずに、だけど大きく吠えていた。

 心の中の叫びは、誰にも伝わる事はない。

 いや。


「刹那を、私を選ぶなら。永遠から逃れられます」


 その声は静かに告げた。

 いや本当は音にはなってはいなかったのかもしれない。ただ頭の中に伝う台詞。

 ふと顔を上げると、いつの間にかあの黒ショールの少女が道行く先に立ち尽くしていた。

 初めて会った時と同じようにその目だけに包帯を巻いて、路地の先で英司を待っていた。


「なんでもいいっ。俺は、まだやる事が残っているんだっ」


 英司はそらに向けて走り出す。

 どこか無表情なそらの顔に、ほんの僅かに優しい笑みが浮かんだ。

 同時に見えないけども白そらの顔が強く崩れていくのがなぜかわかった。


「なら」


 そらは両手を大きく差し出して、英司を迎え入れる。

 まるでそこが終着点だといわんばかりに。

 黒ショールの少女の腕の中に、もうがむしゃらに飛び込んでいた。ふわっと優しく包み込むようにそらは英司を抱きしめる。


「いやっ、もうすぐそこまであったのに。私が、彼にあげるはずなのに。どうしてっ」


 白スカートの少女は泣き叫ぶような声を張り上げると、その腕を英司に向けて伸ばす。

 なのにその腕は英司に触れる事もない。すぅとすり抜けて二人の向こう側まで行ってしまう。


「私、消えたくない。まだ消えたくない。彼の心を得て、もっと有るはずだったのに」


 白いスカートのそらは先程までの余裕も何もなくわめき続けるだけだった。

 そして次の瞬間、黒ショールのそらは静かに呟く。


「ばいばい、夜空」


 そらの台詞と共に、白スカートのそらは消えていく。

 まるで夜が明けて、そらが照らされていくかのように。

 そして、そらと言う名の少女は一人になる。

 さっきまでの緊張感なんてどこにも無くなっていた。あまりにもあっさりと、消し去っていた。

 呆然として英司はそらの腕の中に包まれている。時間が過ぎているのすらも気がつかずに、ただその場でじっと動けずにいた。


「終わった……のか」


 英司はやっとの思いで声を絞り出して、そらの顔を見つめる。

 そらはゆっくりとゆっくりと静かな笑みを浮かべて、その腕で優しく英司を包み込んで、英司へと語り始める。


「いいえ、今から始まったんです。英司さんはどこかでずっと私を信じていてくれた。だから私はこうして消えずに済んだんです。

 私と彼女はたった一つのもの。でも大空にも昼と夜があるように、私達にも光と影がある。昼はいつも輝いていられるのに夜は真っ暗闇の中にあるから、私達は互いに昼で有ろうとした」


 そらの語りは、どこか遠く聞こえていた。

 死という永遠から逃れられた事に、気が抜けたのか話もろくに耳に入っていなかった。

 それでも、そらは話し続けた。まるで自分自身に言い聞かせるかのように。


「初めに貴方にあったのはあの子。次にあったのが私。でも、その次にあったのは黒いショールの少女は私なんです。

 あの時、私は胸に手を合わせました。多くを語る事は出来ないから。全てが終わる瞬間まで、何も話す事は許されていないから。

 だから無言で語りました。

 私達は人の想いで動いている。だから人の心が欲しい。

 だから。

 貴方の心をください、と」


 そらは英司の頬にそっと両手を合わせる。優しく優しく包み込むように、そらの手が触れる。


「約束でしたよね。私は英司さんに刹那をあげます」


 そらの顔がそっと近づく。

 だけど英司は身動き一つ出来ずに、ただそらの顔をみつめていた。

 綺麗だな、と思う。何か今まで起きた悪い記憶は全て消え去りそうな気すらしていた。

 そしてその唇が、吐息がかかるほどに近付いた時。

 英司の喉元にそらの唇が触れていた。微かな吐息と声を漏らして、英司は喘ぎを上げる。

 そらの顔がそっと離れる。英司はそのままぼぅとした瞳でそらを見つめていた。


「さようなら、英司さん」


 そらはにこりと微笑んで、その唇から紅い液体を一滴こぼす。

 そして指先でそっと拭って、その指を口の中で舌先に触れさせていた。







「英司。そろそろ目が覚めたかい?」


 秀一は英司に向かって静かに声をかける。


「いいかげん、起きたらどう。寝過ぎなんだよ、君は」


 ベッドの脇に腰掛けて、秀一はじっと英司の顔をみつめていた。そしてそのまま軽く首を振るう。

 英司はただぼぅっとした顔でまっすぐに秀一をみていた。


「なぁ、英司。目を覚ましなよ。どうして、どうして目を覚まさないんだ。なんでこんな事になったのか、僕にはわからないよ」


 秀一はぎゅっと目をつむって呟く。


 それでも英司はただ一点をみつめるように、何かを探し続けていた。


 英司はそれから再びまぶたを閉じて、ゆっくりと眠りに入る。

 秀一の声も聞こえる事もなく。

 白いカーテンが揺れていた。

 白いシーツに包まれたベッドの上。白一色の部屋の中で、英司は夢を見ていた。

 楽しかった時の夢。与えられた一瞬の幻想の中で、英司はいつまでも留まり続けていた。

 英司はもう何も感じてはいない。

 生きてはいる。だけど刹那に囚われて、もう時間が流れ過ぎようとはしていなかった。


「……貴方が望んだ刹那を、あげます」


 突如聞こえたその声に、秀一は顔をあげる。

 しかしそこには誰もいなくて、聞こえるはずもないその声に秀一は首を振るう。

 英司はそれでもただ一点だけを見つめ続けていた。

 静かな時間に留まり続けているだけで。

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死告の少女は黄昏に 香澄 翔 @syoukasumi

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