第2話
時間ばかりが過ぎていく。何一つ変わらずに、毎日だけが流れていく。
いつもと変わらないはずの時間なのに、どうして今はこんなにも冷たく映るのだろう。
英司は街中を歩いていた。初めは意味もなく走っていたが、そのうち疲れて走れなくもなった。
焦りが英司の中を支配していく。だけど他に何も思いつかなくて、英司はただそらを探し求める事しかできなかった。
だけど日が落ちて、消えていく頃。誰がそこにいるのかもわからなくなる時間になっても見つけられなかった。
しかし家に戻る気もしなくて、夜の街を一人歩いていた。
それほど大きな街ではないだけに若者の姿はさほど多くはない。いてもせいぜいが大学生で、恐らくは中学生だろうそらの姿など見つけられるはずもなかった。
公園のベンチに座り込んで、溜息をついた。どうしてこんな事に必死になっているのか、自分でもわからなかった。ただ何も見えない闇の中をまさぐっているようで、このままではいられなかった。
あと三日で本当に自分が死ぬかなんて事はわからない。初めは質の悪い冗談以外には思えなかったのに、いつのまにか引き込まれていた。
異常なまでに震えていたそらを見てしまったからだろうか、それともあの時、鏡に映った幻のせいだろうか。
いくら考えても答なんて出る筈もなかったし、そんな事は些細な事に過ぎなかった。
だから立ち上がり、再びそらを探そうと振り返った瞬間。
そこに彼女は見えた。黒いショールに身を包んだ彼女の姿が。
「探していたよ」
英司の口から零れたのは、そんな言葉だった。他に何を言えばいいのかもわからなかったから。
しかし少女は何も告げずに、顔を上げて英司を片目でじっと見つめていた。
どこまでも闇を見通しているような黒い瞳が英司を捉えている。しかし包帯を巻いて塞いだ左目から、より深く見通されているようなそんな気すらしていた。
そらと全く同じ顔。だけどその目に宿る意志の色がまるで異なっていた。大人しくどこか怯えるような、だけど自らの意志を感じさせるそらの色に対して、彼女のそれは心すら感じさせなかった。
同一人物なのか、それとも似ているだけなのか、それすらもわからない。
「俺はもうすぐ死ぬのか? あんたが俺を殺すから?」
デュラハンは死を連れてくるという。もしも彼女がそれと同じだとすれば、彼女は死を連れて訪れるのだろうか。
しかし少女は何も答えずに、あの時と同じように手をゆっくりと伸ばした。
「手を取れって事か? どこかに連れていくというのか?」
英司は一歩だけ彼女に歩み寄って、ぎゅっと目をつぶり、首を大きく振った。
何が正しいのか、何が起きているのか。いまこの時間が現実なのか、夢の中なのか。目の前にいる少女は本物なのか、自らの心が産んだ幻覚なのか。
何一つ分からなかった。
少女の髪が風で揺れる。ショールも風に舞っていた。
真っ白な手に巻かれた包帯が痛々しく思える。本当に傷を負っているのかはわからなかったけれど。
と、ふと気が付くと少女の右の足首と、左足のふくらはぎにも包帯が巻かれていた。もしも本当に傷があるとすれば、日に日に傷が増しているのだろうか。
「怪我、してるのか?」
英司は呟く。
その瞬間、少女はびくっと身を震わせた。
「……もうすぐ貴方は死にます」
静かに感情の含まれない声で彼女は告げる。しかしその声もどこか震えているように思えたのは英司の気のせいだったのだろうか。
「助かる方法はないのか?」
英司の声に少女はあるともないとも言わず、差し出した右腕を胸に当てた。
意味があるのかないのかはわからない。しかし彼女はそれ以上、何も言わず振り返り歩き出す。
「待てよっ。まだ聞きたい事があるんだ」
駆け足で少女を追いかける。しかし歩いているようにしか見えない少女には、なかなか追いつく事が出来なくて彼女は角を曲がっていく。
すぐにその角までたどり着いて、彼女の行った方向へと向かった。だからすぐそこにいるはずなのに。
そこにあったのは秀一の姿だった。それも向こうからこちら側にやってきていた。
「英司? 君、ひさしぶりに会うね。学校は毎日あったのに」
いつもの嫌味も今は聞こえていない。
「秀一っ。いま、あの子がこっちにきただろう。見なかったか」
「……誰もこなかったけど」
秀一は眉を寄せて呟く。それから小さく溜息をついて、英司の瞳をのぞき込んでいた。
「君、まさか一週間後に死ぬなんて事を信じている訳じゃないだろうね。あれはたぶん君を怖がらせようとしているだけだよ」
秀一は溜息をこぼして、両手を肩を隣まで上げてみせる。
しかしそんな秀一の言葉に、英司は思わず声を荒げていた。
「違うっ、そんなのじゃねぇ。俺は見たんだ。幾重にも包帯に巻かれたあの子を。そしてもうすぐ俺は死ぬって、今も告げて」
言い募る英司に秀一はもういちど息を吐き出した。呆れているのか、それとも違う感情からなのか、英司にはわからなかったが秀一は次の瞬間、こう呟いていた。
「ま、もしも彼女が言い伝えのデュラハンと同じだとしたら防ぐ方法は二つあるよ」
秀一は手にした通学鞄を肩ごしに背にして、じっと英司を見つめていた。
「マジかよ!?」
あまりにあっさりと言われた台詞に釣られるように英司の声もどこか明るく変わる。
「まぁね。一つはデュラハンは流れる川を渡れないから川向こうに引っ越す事さ」
「……んなこた、できねぇよ」
軽い口調で告げる秀一に、英司は冷たい声で答える。この辺りでまともな川といえば隣町までいかないとない。小さなドブ川のようなものならあるが、あれで事足りるとも思えないし、そもそも引っ越す事なんて出来る訳もない。
「ならもう一つ。デュラハンは死を連れてやってくる。その時、デュラハンを追い払えばいい」
事も無げに言う秀一の言葉に、英司は今度はごくりと息を飲み込んでいた。
追い払う。口で言えば簡単な事だと思う。そして普通であれば女の子の一人くらいならどうって事はないだろう。
しかしそれは普通の女の子だとすればだ。もしも本当に彼女が化け物の類だとすれば、そう簡単に行くだろうか。
「単純な事だろ。まぁ、もしその子の言う通りあと三日後に死ぬというなら、追い払えれば君は生き残るし、そうでなければ死ぬってそれだけの事さ。僕は、ま、そんな話信じてないけどね」
小さく笑みすら浮かべながら秀一は淡々と告げていた。もともと秀一は現実主義者であり化け物の類はいっさい信じていない。デュラハンの事も知識として覚えていたに過ぎないのだろう。
「……そうだな、それだけの事だ」
しかし英司は強く頷いていた。他に出来る事が有る訳でもない。ただあと三日待って、追い返すだけの事だ。
英司は空を見上げ、じっと星を追う。黄昏もすでに過ぎて、宵闇の中。彷徨いだしていた心は、今はもう行く道が定まっていた。
次の日は何事も無かったように英司は学校に向かい一日を過ごした。
太陽が紅く染まる時間。少女と、あるいはそらと出会ったのはこれくらいの時間だったなとふと思い返していた。
少女とそらが同一人物なのか、それとも違うのか。それもまだはっきりとはわからなかったが、とにかくあと二日すればはっきりする事だ。
もしも何も起きなければ、やはりそらのいたずらだったのだろうし、何か起きるとすれば、その時に少しはわかるだろう。
空をじっと見上げる。真っ赤に染まった色は急速に姿を変えようとしていた。
ついさっきまで澄んだ水色と白だったのに、いまは紅く、そして黒へと移り変わり、そしてまた蒼と白へと戻っていく。
もう日が暮れる。
そしてまた一日が過ぎていた。
夕暮れ。黄昏時。
逢魔ヶ時というが、少女と出会ったのもこんな時間だったなと英司は思う。
あれから六日が過ぎて、残る時間も少なくなっていたが、英司はもう慌てる事も焦る事も無かった。
いや正直に言えば、全く気にならないというのは嘘になるだろう。しかし以前のように訳もない焦燥感に囚われることは無くなっていた。
あと一日。それは死ぬまでなのか、それともそらのいたずらだと判明するまでか、それは分からなかったけども、あの日から一週間という時間は過ぎて終わる。
トントン。その時不意に玄関のドアをノックする音が響いた。
心臓が揺れる。強く鼓動を初めていた。あの時と同じように叩かれたドアの音が頭の中を陰らせていく。
まだ一日、あるはずだ。ベルを鳴らさずドアを叩く人も他にもいる。
トトトトン。再びドアが叩かれていた。
出るか出まいか、一瞬迷う。しかしまだ一日の余裕があり居留守を使うほどでもないはずだった。
「へいへいっ、いますっ。いますって」
大きな声で返事をして英司は玄関へと向かう。そして、ガチャと音を立ててドアを開く。
そこにたっていたのは郵便局員でも新聞の集金でも、あるいは包帯に包まれた黒ショールの少女の姿でもなかった。
風に髪が揺れていた。白いスカートが夕日を吸い込んで、紅く紅く染まっている。
優しげな、そしてどこか切なげな瞳を浮かべて、そらはじっと英司を見つめていた。
不意に時間が止まったような気すらしていた。しかしそれは時間にすればほんのわずかの瞬間だったのだろう、そらはすぐに言葉を紡いでいた。
「はやく、はやくいきましょう」
手を差し出して、妙に焦った声で告げると、きょろきょろと辺りを気にしては、英司へと向き直っていた。
「行くって、どこにだよ」
英字は思わず聞き返すが、そらは何も答えはしない。いやそれどころか有無を言わさずに英司の手をとって告げていた。
「はやく。もう約束の時間になりました。はやくしないと彼女が来てしまう」
そらはそのまま英司の手を引いて走り出す。英司は突然の事に、思わずスニーカーを潰すように履いて一緒に駆け出していた。
「いけない、もう来てる。いそがなきゃ」
そらは後ろに振り返って、やや荒げた声で呟く。
その様子に英司も首だけで背中へと視線を向ける。
遠目に彼女は見えた。黒いショールをまとって頭に包帯を巻いた少女が。いまはあの時みた左腕に右の足首、左のふくらはぎに加えて右の手首と首筋をも真っ白い包帯が包んでいた。
傷だらけの少女は確かにそこにいる。そしてゆっくりとこちらへと足を向けている。
「まだ一日あるはずだろ!?」
思わず声に出して叫ぶと、そらへと向き直った。そらはどこか焦りすらある声で、走りながら答える。
「あの日を一日目として一週間。だから今日は七日目ですよ。貴方は今日死ぬんです」
そらは何度も振り返りながら、それでも足を止めようとはしなかった。少女にしてはかなりの速さで走るそらに、英司の足ですら遅れそうになる。その度に「はやくっ」とそらは英司を急かしていた。
もうすぐそこに来ている。黒ショールの少女もいつのまにか駆け出していた。一生懸命に走っているのだが、距離はなかなか離れようとはしない。
このまま追いつかれたら死ぬのか。あの子に殺されるのか。英司の背がぞくと震えて、そのまま止まる事は無かった。肌が逆立って夏だというのに寒気すら感じていた。
現実。これは現実なんだ。心のどこかで英司もやはりそらのいたずらじゃないかと言う考えもあった。しかしいまこうして手をひくそらと、背から追う包帯の少女とが現れるともう疑う余地はなかった。
死ぬのだ。このままだと自分は死んでしまうのだ。くそっ、殺されてたまるものか。英司は声には出さずに呟く。
「いけない、このままじゃ追いつかれちゃう。はやくいかなくちゃ。いきましょう、捕まったら手遅れになっちゃいます」
そらは女の子とは思えない力で手を強く引いてくる。英司は無言のままで、そらが走る方向へと一緒に向かった。いまの英司には他に選択肢など一つも無かったから。
ただ走り続けていた。どれくらい駆けていたかは、もう覚えていない。ずいぶんと長い時間、逃げ回っているような気がしていたが、実際には十分も経過していなかった。
それでもふと気がつくと背中には黒ショールの少女の姿はもう見えなかった。
「振り切ったか……」
英司はほっと一息ついて立ち止まる。さすがに全力に近い速度で走っていただけに息も切れようというものだ。
「駄目です。立ち止まったら、追いつかれます。はやく、はやく行きましょう。あと少しなんです。だから、はやく。ね、一緒にいきましょう」
しかしそらはまくし立てるように言い放つと、つないだままの手をぎゅっと引き寄せる。
一瞬、どきりと胸が弾んだ。成り行きとは言え、いつのまにか可愛らしい少女と手を取り合っていたことに気がついて、英司は微かに顔を赤らめた。
さっきまでは全く気にならなかった。いやあるいは普段であれば、手をつないだくらいの事で、ここまで心が揺れたりもしなかったかもしれない。
ただ今はまるで運命の共同体のように一緒に走り続けて、それが類い希なる美少女だというのだから多少動悸を強めても仕方の無い事だ。
しかしまだどこか寒気が残っているのか、あまりそらのぬくもりは感じ取れないでいた。恐らくはまだ目の前の少女よりも、見えないでいる背中の少女の方が強く気になっているからなのだろうが。
「わかったよ。俺もまだ死にたくねーしな」
英司は頷くと、そらへと視線を合わせる。
そらは微かに笑みを浮かべると、再び手を取っていた。
「ええ、いきましょう」
軽やかな口調で呟くと、ふわと再び笑顔を浮かべた。しかしその微笑がどこかそらには似つかわしくないように感じて、英司は眉を寄せる。
同じ顔の見えない包帯の少女と重ね合わせているのかもしれない。英司の背がぞっと震える。
まだ死にたくない。まだ死ねない。それなのに刻々と迫ってきている恐怖は確かに英司を蝕もうとしていた。少しずつ少しずつ英司は侵されていく。
怖い、と言う感情を知らないわけではない。しかしそれはテレビや映画、本などによって擬似的に感じるか、あるいは車にひかれそうになるといった一瞬のものが殆どだ。実際に死を近しいものとして感じている訳ではない。
だけどいま英司は本当にすぐそこまで来ているものとして喪失を感じ取らずにはいられなかった。
もしも永遠なんてものがあるなら、それはこの世界から存在が消えて無くなった時だけだろう。
そうだ、いま後ろから迫ってきているものは永遠の喪失なんだ。英司は心の中で呟く。
自分というものを失いたくない。俺はまだなにもしていないのに。俺はまだ何も知らない。
頭を巡るのは、ただ恐れだけで自分がいま何をしているのかもわかってはいなかった。
消えろ。消えてなくなれよ。みんな消えてしまえ。英司は近づいてくる何もかもが、疎ましく感じて心の中で強く叫んだ。
ただそらは笑っていた。にこやかに嬉しそうに。しかし次の瞬間、露骨に顔を歪めて手をひいて走り出していた。
「っ! まだ消えない」
そらの声に英司は振り返る。そこにはある包帯に包まれた黒ショールの少女が迫ってきていた。
しかしさすが疲れが見えたのか、その歩みはどこかたどたどしくて、傷だらけのように見える彼女はどこか痛々しい。
いや、彼女は俺に死を連れてこようとしているのだ。見かけに騙されてはいけない。そもそも見かけというのなら、黒いショールに包帯はそれこそ死の象徴のようではないか。
「いきましょう。ほら、はやく」
そらは手を引いて走り出す。英司もつられるように駆け出していた。
そんな事を何度も繰り替えているような錯覚。いや、実際にもう何度か走り出しているのだが、そんな短い事ではなくて、もうずっと永遠に繰り返しているかのような感覚に囚われていた。
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