ひさしぶり

長谷川ルイ

第1話 ひさしぶり

 海岸沿いの国道は空いていた。前を走る車のテールランプが赤い帯を引いて遠ざかっていく。すれ違う車はまばらだった。そういう時間帯なのか、それとも車離れが深刻なのか、啓介は思考を巡らせる。道は海岸に沿って緩やかに蛇行していて、車線の軌跡を自動的に検知した車が、カーブのたびに車体を左右に傾ける。

 黄昏時と言っていい時間帯だった。太陽は海に突き出した岬の向こう側へ沈降を続け、左側に見える海を眩いオレンジ色に染めていた。九月も中旬に差し掛かり、少しずつだが暑さが和らいでいた。それでも砂浜には数人のグループが輪になって花火に興じている姿があった。彼らはきっと、夏の残り香を求めてここまでやってきたのだろう。待ちきれずに火をつけてしまって、それが可笑しくてまた笑う。そういう自由さが彼らにはあった。

 先の信号が赤に変わった。ダッシュボードのコンソールに警告を示すエクスクラメーションマークが点滅し、ブレーキが作動する。コンソール上の仮想モニターに車のグラフィック画像が浮かび、タイヤの回転が止まる様子が表現される。啓介はモニターをタップし、エネルギーゲージを呼び出す。充電はまだある。スマートフォンと同じく、小まめに充電を気にしてしまうのはどうしてなのか、と出し抜けに顕現した疑問にひとまず蓋をして、コンソール画面から音声通話を呼び出す。こうしてこの道をあてもなく走るたび、啓介は連絡先からその名前を探す。

 遥との邂逅、それは事故と形容しても差し支えないくらいの衝撃だった。しかも追突だ。

「——あっ」

 後ろから女性の声が聞こえ、遅れて液体の零れる音がした。咄嗟に振り返った。啓介の足元にはカフェの紙コップが転がっていて、弾みでそれを踏みつけてしまった。うろたえた様子で立ち尽くす彼女の姿を見て、何が起こったのかを悟った。そっと自分の背中に手を回すと、シャツがぐっしょりと濡れていた。

「すいません」狼狽した目をこちらに向ける顔に、図らずも心を奪われてしまった。それがきっかけだった。その時は大学のキャンパスをうろうろしていて、サークルにでも行こうかと思っていたところだった。話を聞けば、遥も同じ学年で同じサークルに入っているという。新入生勧誘の只中で、まだ誰が誰なのかはっきりしていない時期だった。

 そのあとのやり取りは、あまり覚えていない。細かい記憶は全てが曖昧で、霞のかかった風景に溶け込んで、いつしか心を構成する要素に還元されていた。ひとつだけはっきりしているのは、遥とは大学一年の時に付き合い始め、そして社会人一年目で別れたということだ。

 出会いと別れを繰り返すうち、そうした過去と決別するために記憶を消したり、上書きしたり、改ざんしたりする。そして都合の良い時だけ、その記憶に縋ったりするのだ。

 浜辺で見た若者たちの姿を思い浮かべる。

 自分にもあのような時代があった。時間と金を浪費するだけの漫然とした日々——。こうして車で走りながら遥のことを思い出すのは、自分がそれを過去のことにしたくないからなのかもしれない。

 いや、逆だ。怖いのだ。どれだけ好きだ愛だと言っていても、別れてしまえば、最も遠い他人になってしまう。その現実を受け入れるのが怖かった。過去を保留にするために、こうして走っているのだ、と啓介は遅ればせながら気づいた。

 仮想モニターに浮かび上がった名前の脇にある録音ボタンを押した。信号が青に変わる。音もなく車が発進し、するするとスピードを上げていく。

「ひさしぶり」録音中であることを確認し、思い付いたことを話し始めた。今更勝手だと、自分でも思う。遥と別れる原因を作ったのが自分なら、後ろめたさを感じているのも自分なのだ。

 別れてから一年、二人の距離が離れるには十分過ぎる時間が過ぎた。どこにいるかもわからない遥に向かって、無性に声を届けたくなった。それはきっと、今日が別れた日だったからなのかもしれない。

 録音はまだ続いていた。それは自分が捨てた女性に対する、せめてもの償いであり、懺悔だった。赦してほしいとは思わない。身勝手な悔恨は、啓介の心を今でも締め付けている。それでもいいと思った。どうか、幸せに生きていてほしい。どうか、笑顔でいてほしい。

 対向車のライトが眩しい。霞む目の中に、遥の姿を見た気がした。君は今、幸せですか?



  **



 午後の瀟洒な日差しが降り注ぐテラス席は、私たちのお気に入りの場所だった。紗代子さんはいつものようにアイスコーヒーを頼み、私はいつものように気まぐれでソイ・ラテを注文した。

「メニュー制覇できたんじゃない?」紗代子さんは笑うと左の頬にえくぼが覗く。そんな綺麗で可憐な姿を見ていると、若い時は本当に美人だったのだな、と思う。

「そうかもしれないです」私はといえば、引っ詰めた髪をヘアクリップで止め、どうにか眉を描きました、程度の化粧しかしていない。紗代子さんは「遥ちゃんはそのくらいが一番綺麗よ」と言ってくれるが、そんなはずはないだろうと唇を尖らせる。拗ねる私を見る目はまるで娘を励ます母のそれで、私は内心どぎまぎしながら、二回りも歳の違う紗代子さんと向き合っていた。

「それにしても、今日はいい天気になってよかった」

 秋のしつこい長雨が珍しく途切れ、今日は朝から快晴だった。テラスから臨む空は抑揚がなく、ただそこに浮かんでいるように見える。木の陰から覗く太陽がテラスを暖かく照らしていた。そうして梢を眺めていた私の視界の端を、不意に何かが横切った。車だと認めた意識が、記憶を呼び起こそうとする。その気配を、運ばれてきたばかりのソイ・ラテで流し込んだ。

「遥ちゃんにずっと聞きたかったことがあったんだけど」

「なんですか?」

「どうして別れたの?」

「それは——。仕方がなかったんです」仕方がない。その一言で終わらせてしまうのは簡単だった。友達から聞かれたら、それで済ませてしまったかもしれない。もしくは、泣き言を言っていたかもしれない。でも紗代子さんには、それだけで終わらせるわけにもいかないし、弱い自分を見せたくなかった。「好きになる理由はたくさんあるのに、嫌いになる理由はひとつで十分だなんて」

「振ったのはあの人でしょ?」紗代子さんの目が少しだけ潤んで見えて、私は紗代子さんを見ていられなくなった。

「それは……」原因を作ったのも向こうなら、別れを切り出したのも向こうなのだから、私としては身勝手だという気持ちの方が大きかった。勝手に浮気をして勝手に別れを告げて、私は置いてきぼりを食らったのだ。でも紗代子さんにそのことを言うことはできなかった。

「もったいないって、今でも思うわ。あなたが……」

「いいんです。もう」紗代子の前で、これ以上このことを話すのは憚られた。「もう時効ですよ」

「時効か……。やり直す気があるんだ」

「どうでしょう」私は笑みを作り、ソイ・ラテを口に含んだ。柔らかい甘味が喉を通り抜け、お腹にゆっくりと収まっていく。冷たいのに温かく感じるのは、それが彼の、啓介の好物だったからなのかもしれない。

「一年、あっという間だった」紗代子さんはコーヒーのストローを弄び、視線を上に向けていた。紗代子さんが何を見ているのか、振り返らなくてもわかる。カーテンのかかった病室の向こう、白いベッドの上で、彼が今も眠っている。私が四年間も愛し、大切に想っていた人は、運転中に対向車線から飛び出したトラックと正面衝突をし、弾みでガードレールに突っ込んで、意識不明の重体に陥った。別れたちょうど一年後に事故が起こり、そしてそれからぴったり一年が過ぎた。

 この一年、私は週末の度に病院に通った。すでに別れた元恋人のところに見舞とはいえ行くことにはためらいもあった。付き合っていた時から啓介の両親とは面識があって、特に母親の紗代子さんとは気もあったし打ち解けていたが、それは啓介という人間が間にいたからだ。すでに他人になってしまった自分を紗代子さんがどう思うのか、最初にあの部屋の扉を開けた時はすごく怖かった。

 それ自体は杞憂であっても、やはり長い時間あの場所にいるのは気が引けて、私はこのカフェのテラスで過ごすことが多かった。啓介についている紗代子さんは、たまにこうして私に付き合ってくれる。今日のように私をからかうこともあれば、静かに話を聞いてくれることもある。他人になったはずなのに、あの時よりも紗代子さんとの距離は近づいた気がしていた。

 私は、「あっという間でした」と言う以外なかった。紗代子さんが立ち上がる気配がした。私が顔を上げると、そこには晴れやかな顔をした紗代子さんがいて、私を、本当の娘を見るような目で見つめていた。

「そろそろ、啓介のところに戻るね。遥ちゃんはまだいる?」

「はい。いつもすいません」

「いいの。啓介のこと、これからもよろしくね」

 紗代子さんが伝票を持って店に入っていった。私が紗代子さんに会っているのは、その瞳が啓介に似ているからだ、と遅ればせながら気づいた。私は一人苦笑する。無性に啓介の距離が聞きたくなって、スマートフォンから過去のボイスメールを呼び出した。あの日、啓介が事故に遭う直前に送ってきたメッセージだった。「ひさしぶり」と始まるそれは、ほとんどが啓介自身を断罪する言葉だった。それでも、私の身を案じているのがわかった。今から思えば、啓介は何かを予感していたのかもしれない。

 彼の言葉は、毎日欠かさず聴いた。いつ聴いても、身勝手で、くだらない、けれど愛らしい。早く目を開いてほしい。そうしたら、ボイスメールの返信を聞いてもらうのだ。二年分の空白を埋めるほどの長文だけど、容赦しないから。

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ひさしぶり 長谷川ルイ @ruihasegawa

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