後編
「奏斗くん、ちょっと良い?」
あれから一週間ちょっと経過した、月曜日の放課後。
教室では滅多に会話をしないはずの璃々が、さりげなく声をかけてきた。多分、学校で「奏斗くん」なんて呼ばれるのも初めてな気がする。
「ど、どうしたの。……曲、何か変なところあった?」
周りの目を気にしながら、奏斗は小声で訊ねた。
璃々に頼まれたラブソングは一週間で完成して、先週の金曜日に音源を渡している。あとは璃々が歌詞を付けて、璃々の言う『贈りたい人』に贈るだけだ。
つまりはもう、自分にはもう関係のない話。
そう、思っていたのに。
「違うよ。完成したんだ。だからちょっと、試しに聴いてみて欲しいの」
「……へ?」
「音楽室、借りてるんだ。早く行こうっ」
驚く間もなく、璃々に手を引かれる。
ただただ、鼓動が速まっていくのを感じた。良い意味でも悪い意味でも、何か大きなことが起こるような予感がする。
どちらかと言うと、怖い気持ちの方が大きかった。
「あ、いつものギター……」
誰もいない音楽室の隅には、璃々のギターケースが立てかけられてあった。璃々はふふんと鼻を鳴らし、得意げにケースの中からアコースティックギターを取り出す。
「奏斗くん、準備は良い?」
「え……じ、準備って」
ストラップを肩にかけながら訊ねてくる璃々に、奏斗は思わず声を震わせる。自然とグランドピアノを見つめてしまい、すぐさま俯いた。今まで、決められた曲しか弾いたことがないのだ。自分で作った曲を誰かとセッションなんてできる訳がない。
「あー、違う違う。心の準備ってことだよ」
奏斗の気持ちを察するように、璃々が優しく微笑む。
小さく「見ていてくれれば良いから」と囁き、璃々と奏斗は向き合う形になった。
――だいたい、十秒くらいだっただろうか。
璃々はゆっくり深呼吸をしていた。いったい、今から何が起こるというのか。何かが終わり、始まるのか。まったくもってわからなくて、胸が苦しくなる。
でも、胸が苦しいのは最初の十秒だけだった。
やがて、璃々の演奏が始まる。
路上ライブの時とは違う、夕日に照らされた璃々の姿。流れるメロディは紛れもなく奏斗が作ったラブソングで、璃々のギターが優しく包み込んでいた。
夢を叶えるにはどうしたら良いんだろう。
わからないまま突き進んだ、四月下旬の午後六時。
味方なんて一人もいない。私の声は誰にも届かない。
マイナス思考が渦巻いて、もう駄目だって思ったよ。
君が救ってくれたんだ。制服姿の君の顔。キラキラ輝く君の顔。
見つけた途端に心が躍って、どこまでも歌えるって思った。
きっと一人じゃ駄目だった。君がいたから私はここにいる。
――いつからだろう。
そのストレートすぎる歌詞を聴いていたら、身体が勝手に動き出した。溢れ出す感情を止めることなどできなくて、奏斗は彼女の歌に応えるようにグランドピアノを演奏し始める。
こんなにも自由な気持ちでピアノを弾くのは初めてのことだった。
奏斗はこの時、ようやく知ったのだ。自分は逃げてばかりで何も知ろうとしていなかったのだと。
璃々のラブソングを頼まれた時も、贈りたい相手が自分であるはずがないと思った。だって、自分はただの臆病者だ。ピアニストの親がいるから中途半端にピアノをやって、そんな自分に納得できないまま日々を過ごしてきた。今の今までだって、奏斗は自分に自信が持てなくて、馬鹿みたいに苦しんでいたのだから笑えてしまう。
奏斗の作った四分五十秒のラブソングは、自分にとってのプロローグだった。
奏斗の璃々に対する憧れ以上の感情と、璃々の奏斗に対する正直な気持ち。
その二つを重ね合わせるように、歌とギターとピアノが混ざり合う。
この時間があまりにも楽しくて、嬉しくて、いつまでも続いて欲しいと思った。でも、これはまだプロローグだ。終わりじゃなくて、始まり。そうするためにも、奏斗は動き出す。
「ねぇ」
曲が終わると同時に、二人の声が重なった。
璃々に先を越されてはいけないと意気込んでいたのに、まさか被ってしまうなんて。驚き以上の何かをひしひしと感じながら、二人は顔を見合わせる。璃々の瞳は眩しい程にキラキラとしていた。
その瞳の輝きは、夕日のせいなのだろうか。
――それとも。
これから始まるわくわくのせいなのかも知れない。
了
4分50秒のプロローグ 傘木咲華 @kasakki_
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