4分50秒のプロローグ
傘木咲華
前編
金曜日の夜。
まるで休息の始まりを告げるかのように、行き交う人々の足取りは軽やかで、どこか眩しく感じた。
ただ一人、ピアノから逃げてきた高校生、
今思えば、彼女との出会いは本当にただの偶然だったのだと思う。
高校一年の春。奏斗は部活には入らず、いつも家に直帰していた。奏斗にはピアニストの母親がいて、一人息子の奏斗は幼い頃からピアノのレッスンを受けている。……いや、受けていた、と言った方が良いだろうか。正直、自分にはピアノの才能があるとは思えない。母親のレッスンが辛いという訳ではないが、このままピアノの道を進んでも良いのかという不安が高校生になってから爆発した。
だから奏斗は逃げたのだ。
家とは逆方向の電車に乗って、まったく知らない駅で降りて、中途半端な時間なのにハンバーガーを食べて、あてもなく歩いて、歩いて、軽く迷子になって、やがて茜色の空が薄らいでいく。
多分、焦っていたのだろう。知らない場所で道に迷って、辺りも暗くなっていく。レッスンをさぼって、いったい自分は何をやっているのだろう。そんな思考にもなりかけていたような気がする
でも、奏斗の足は自然と駅前に戻ることができた。
ただの勘ではない。聴こえてきたのだ。アコースティックギターの優しい音色に、小さな身体から発せられているとは思えない程に力強い歌声。都会の喧騒に紛れる訳でもなく、その音はしっかりと奏斗を導いていた。
彼女がクラスメイトの
教室での璃々は三つ編みのおさげに赤縁眼鏡という、コテコテの優等生なイメージだ。なのに今はコンタクトなのか眼鏡を外し、髪も下ろしている。服装もTシャツにジーンズというラフな感じで、むしろ璃々だと気付けた自分を褒めたいくらいだ。
「君、もしかして同じクラスの……」
声をかけてくれたのは璃々の方だった。奏斗は制服姿のままなのだから、気付くのは当然といえば当然なのかも知れない。でも、気が付いてくれて良かったと、奏斗は内心ほっとしていた。きっと自分では話しかける勇気すらなくて、たった一瞬の思い出として胸にしまうだけで終わってしまっていたことだろう。
でも、もう道は変わった。
「私、シンガーソングライターを目指してるの」
ただのクラスメイトではない彼女の一面を知って、
「僕は…………ピアノから逃げてるんだ」
奏斗も、友人にすら話したことのない真実を告白する。
この時、奏斗はようやく知った。胸に秘めている思いを誰かに吐露するだけで、こんなにも心が軽くなるのだということに。
夢に向かってまっすぐな璃々の姿は眩しいけれど、決して心が苦しくなる訳ではない。むしろ、前向きな力が奏斗にも流れ込んでくるのだ。自分なりに作曲に挑戦してみたりして、ワンフレーズだけ璃々が採用してくれたこともあった。厳しいと思っていた母親も実はそれ程でもなくて、毎週金曜日は目を瞑ってくれている。
──こうして、もう一つの璃々の姿を知ってから半年の月日が流れた。
もう自分の足取りは重くなくて、金曜日だけはむしろ軽く感じる。教室では会話すらまともにしないのに、自分にとって比良坂璃々という少女はあまりにも特別な存在になっていた。
言葉にするなら『憧れ』、だろうか。友人と言うのもおこがましいくらい、彼女は自分よりもずっと前を歩いている。
きっと自分は、憧れ以上には進めないのだろう。そう思い込んでいた。
「ねぇ、奏斗くん。お願いしたいことがあるの」
しかし、その時は唐突にやってきた。
路上ライブが終わると、いつも他愛のない会話をする。でも、今日は声のトーンが低く感じた。
「私に曲を作って欲しい」
「……曲? それって、ワンフレーズっていうこと……」
「じゃなくて、フルコーラス」
至って真面目な表情で、璃々は透き通った琥珀色の瞳を向けてくる。どうやら冗談ではないらしい。奏斗は息を呑み、璃々に訊ねる。
「行き詰まってるとか、そういうこと?」
「そうじゃないの。ただ、その……個人的に、曲を贈りたい人がいて」
「そう、なんだ」
本当は、その相手は誰? と訊きたかった。でも上手く口が動かないまま、奏斗は俯いてしまう。
「ラブソング」
「…………え?」
「ラブソング、なんだけどね。なかなか上手く書けなくて……だから、その……」
珍しく、璃々の声が小さくなっていく。
いつも自信満々な彼女とは思えない程に、今の璃々は不安定だと思った。それくらい悩んでいるということなのだろう。
「わかった」
気付けば、奏斗は頷いていた。
半年前、確かに救われたのだ。璃々の歌声によって、奏斗は前を向けている。もしかしたら、人生の恩人といっても過言ではないかも知れないのだ。
「比良坂さんのために、頑張ってみる」
なるべく、しっかり、はっきりと返事をしたつもりだった。でも、声は震えてしまっているのだろう。
ふと、奏斗は思った。
憧れ以上の感情なんてない、なんて――そんな訳、あるはずがないのだと。
自分はとっくに、なんなら初めて彼女の歌声を聴いたその日から、彼女のことが好きなのだと。
今更、気付いてしまったのだった。
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