珈琲は月の下で

野森ちえこ

家出と月と珈琲無糖

「コーヒーといえば、なんだと思う?」


 同僚の青山あおやま麻衣まいに問われ、桐真きりま輝雪てるゆきはカップ式自販機で購入したばかりの黒い飲料に視線を落とした。

 食べものなら甘いもの、しょっぱいもの、どちらにもあうし、洋菓子系だけでなくあんこ系も意外といける。

 それからタバコ。といっても、桐真自身は吸ったことがない。以前の上司が、コーヒーとタバコは悪魔的組みあわせだといっていたのである。コーヒーも同時にやめないと禁煙は不可能だとかなんとか。

 そういえば、コーヒーとタバコをお供に会話しているだけのオムニバス映画があったっけ。


「あたしはね、月なの。コーヒーといえば月」


 桐真がもうひと押しすれば恋人になれそうな、だけど急ぎすぎたら壊れてしまいそうな、少々微妙な関係にある彼女は、カップコーヒーを片手にほほ笑んだ。


 コーヒーと月。

 桐真のなかにはない発想だった。


 残業の夜。休憩室の窓から見える秋の空はすでに深い紺色だ。満月にはすこし足りない、ふっくらとした月が明るく存在を主張している。


 しかしなぜコーヒーで月なのか。桐真が先をうながすと、麻衣はどこか懐かしげに目を細め、ポツポツと語りだした。


「小学生のとき家出したことがあってさ。ちょうど今ごろの季節で、四年生くらいだったかな。きっかけとか、もうぜんぜん覚えてないんだけど。ちょっと怒られたとか、たぶんそんなこと」


 計画もなにもない、いきおいだけの家出だったという。

 やみくもに歩いていると、いつのまにかあたりは真っ暗になっていて、我に返った彼女は急に心細くなった。

 自分がどこにいるのかもわからず、頬をなでていく風もつめたい。

 そうして、恐怖と不安で泣きそうになっていたとき、とおりかかった若いカップルが彼女に声をかけた。

 すぐそばにあった自動販売機でコーヒーを買ってくれたのだという。


「大人ぶりたかったのかな。いや、泣きべそかいてるとこ見られて恥ずかしかったのかも。自分でもよくわからないんだけどさ、とにかく、『なに飲む?』って聞かれて、コーヒーって答えたんだよ。それもブラックがいいって」


 カップルはちょっと顔を見あわせて、だけどなにもいわずに、彼女のリクエストどおりブラックコーヒーのボタンを押した。ガコンと落ちてきたホットのショート缶には、デカデカと『珈琲無糖』の文字。


 それを口に含んで数秒。麻衣は、この黒い液体を最初に飲もうと思ったやつはいったいなにを考えていたんだバカヤロウと心のなかで悪態をついていた。だが、おかげで涙はこぼれるまえにひっこんだらしい。


「珈琲って漢字をおぼえたのもこのときよ」


 そして幼かった麻衣は、こうなったら苦みのわかる女になってやろうと決心した。彼女にとって、一本飲みほすのに必要な決意であった。

 ミルクティーとココアをそれぞれ購入したカップルの、こっちの甘いのと交換しようという申し出を丁重にお断りし、麻衣はほとんどヤケクソで『珈琲無糖』をのどに流しこんだ。そのとき、ふと見た空には、まるくてきれいな月が出ていた。それはすこし不気味に感じるほどに、とてもうつくしい月だった。



 ○



 いきおいまかせの家出騒動は、親切なカップルとの出会いによって幕を閉じることになった。しかし家出ではなく、迷子事件として決着したという。なぜなら、麻衣を保護したそのカップルが『なにかの拍子に知らない道にはいりこんで迷ってしまったらしい』と説明してくれたからだ。家を出た動機を横に置いておけば、事実そのとおりだった。

 だからなのか、思っていたより怒られなかったものの、両親――特に母親には大泣きされてしまったのだとか。


「あたしもわんわん泣いちゃったんだけどさあ。なんか、怒られるより泣かれるほうがこたえてねえ。これなら、こっぴどく叱られたほうがマシだったかもーとか思ったりしたよ」


 現在は夫婦になっているというそのときのカップルとは、年賀状のやりとり程度ではあるが、現在もつきあいがあるらしい。

 そして、この家出(迷子)騒動以来、コーヒーといえば月。月といえばコーヒーというくらい、ふたつのイメージが結びついて離れなくなったのだという。


「季節的になおさらだったのかな。その日はちょうど十五夜、いわゆる中秋の名月ってやつだったのよ」


 だから麻衣は、大人になった今でも十五夜にはコーヒーなのだという。月見だんごでも、月見酒でもなく、月見コーヒー。それも、本格的なものではなく、お手軽で安っぽいもののほうがいい。ベストはやっぱり珈琲無糖のショート缶だと、彼女はからりと笑った。


「さて、もうひと頑張りしますか」


 からになったカップをごみ箱にほうりこんだ麻衣は、おおきく伸びをして休憩室をあとにした。


 これは、もしかしてチャンスなのだろうか。

 たしか今年の十五夜はあした――いや、あさってだったか。

 なかなかつぎの一歩を踏みだすタイミングをつかめずにいたのだが、デートに誘う口実としては渡りに船ではなかろうか。

 正直なところ、桐真としては月見コーヒーだけでなく、寝起きの朝コーヒーも一緒に飲みたいところなのだが――あせりは禁物だ。

 まずは月見デートの約束をとりつけないと。


 なんということもなく窓の外に目をやる。明るい月は、やはりふっくらと空に浮かんでいる。


 桐真はひと口残っていたコーヒーを飲みほして、麻衣のあとを追った。



     (おしまい)


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

珈琲は月の下で 野森ちえこ @nono_chie

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ