生存ノ闘争

『まもなく、二番線に、十七時二分発、――行の電車が参ります。危ないですから、黄色い線より下がって、お待ちください――』


 人気のないホームで、聴き慣れたアナウンスが繰り返される。

 杏は竹刀を正眼に構え、相手を見据えながら、ふぅ、と息を吐いた。気にするべきは、あの水晶玉。さっきあれを使って魔法を使っていたようだから、きっと魔法道具のようなものなのだろう。きっとあれがないとあの少女は魔法が使えない。逆に言うと、あれを警戒していれば魔法の出るタイミングが判る……はず。変則的な動きをされたらどうしようもないけれど。

 いつの間にか、アンの世迷言を受け入れている自分がいて、そのことを自分でも少し不思議に思った。だが、虚妄にしろ真実にしろ、彼女に命を狙われていることには違いはない。だから、抵抗するのは間違いじゃない。


 アンがすっと左腕を伸ばす。その動きに伴って水晶玉が動いた。魔法が来る。そう感じた杏は、相手の右側へと回る。さっきから左手ばかり使っているところを見ると、恐らく左利き――杏と同じ。なら右からの攻撃には弱いはず、と杏は判断した。

 杏もまた、右からの攻めに弱いから。


 摺り足に近い動きで素早く相手に接近する。途中、水晶玉からあのレーザーのようなものが発射されるのを身体を右に捻って躱すと、大きく一歩を踏み出した。身体が前に行く勢いを乗せて、相手の腹を突かんと竹刀を前に出す。

 はっとした表情のアンは、床を一蹴りして自身の左へと宙へと浮かび上がった。およそ三十センチほどの空中浮遊。ひらひらと黒い服の裾が揺れる。

 宙に浮く相手と戦うなんてゲームみたいだ、と杏は思う。そういう相手はだいたい動きが早く、戦場フィールドの隅から隅まであっという間に移動して追いかけるのに苦労する。

 そんな面倒臭い相手じゃなければいいけれど、と思いながら、杏は相手の胴に向けて竹刀を振った。掠めたのか、相手の口から空気が漏れる。


 逃げられる前に潰してしまえ。杏は強気に竹刀を振るった。振りかぶる。横に薙ぐ。袈裟がけ、逆袈裟、切り上げ、突き――剣道で習った型も、そうでない振り方もとにかく試す。異次元の自分は滑らかな動きでことごとく杏の攻撃を躱した。少し苛立つ。

 が、回数を重ねていくと気付くこともある。

 例えば、それらは全て紙一重のところで躱されていること。余裕を持って見切っているにしては、表情に焦りの色がある。反撃もたまにしてくるが、杏が避けなくても当たらないときがある。照準を合わせる余裕がないのだろうか。

 例えば、宙に浮いている相手の動き。はじめはスケートのように足元を滑るように移動しているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。例えるなら、遊園地の空中ブランコのように腰の辺りから宙に吊り下げられ、足元がぶらついた状態。だから、動くときわずかに足のほうが遅れて流れる。急発進した電車のつり革が傾くように。

 ――足を狙えば当たるだろうか。

 袈裟懸けに振り下ろした竹刀を、アンが背筋を逸らして躱す。そのまま後方に身体が引っ張られていく。杏は振り下ろして左側に来た竹刀を真一文字に右に振るった。


「っ……!」


 目論見は当たった。やはり移動するとき、足が遅れる。

 もう一度同じように攻撃する。まずは上半身を狙う。相手が身体を移動させようとしたところで、足を攻撃する。また当たった。

 宙に浮く人間の足を攻撃したところで、どれほどの影響があるかは杏にはわからない。だが、今は当たったということが重要だ。これを足掛かりに、攻める。


「平和ボケしている割に……っ!」


 アンが忌々しそうに榛色の瞳で杏を睨めつける。

 確かに、自分でも驚くくらい戦うことに躊躇いがない。いくら剣道で試合を経験しているからといっても、命のやり取りは初体験。アンの言うとおり平和ボケしていてもいいはずなのに。

 彼女を叩きのめしてやろうと思う。必要ならその命を奪うことになっても構わない。命を狙われているからというだけではない。胸の底からこれまで抱いたことのない酷薄な闘争心が湧き上がってくる。

 ぶっ潰す。杏の今の心情を一言で表すなら、この言葉に尽きる。

 その感情を不思議には思いながらも、杏は攻めるのを止めることはしなかった。


「この……っ! 鬱陶しいのよ!」


 アンが苛立たしげに杏に指先を向ける。指し示したのは竹刀。その刀身が炎に包まれた。


「ちっ」


 熱を感じる前に竹刀を投げ捨てる。左のホームドアにぶつかった音がする。

 右から衝撃が来て、身体が大きく吹っ飛ばされる。背中の左側と左肩がホームドアにぶつかって、痛みと衝撃に息が止まった。そのままずるずると床の上に倒れ込み、痛みに呻く。


『まもなく、一番線に――』


 瞑った瞼の向こうからアナウンスの無機質な声が耳に入る。けれど、火災報知器が鳴る様子はない。アナウンスも聴こえるし電車も来ているのに、周囲に人はいないし、こちらの動きに機械も無反応。世界から自分たちだけ隔離されたような感じ。

 どうにか目をこじ開けると、女の黒い足が見えた。しまった、と思う暇もなく、胸倉を掴まれ身体が持ち上げられる。色違いの自分の顔が怒りに満ちている様子が目に入った瞬間、強く右の頬を打たれた。


「舐めた真似をしてくれたわね」


 長い前髪の隙間から異世界の自分の顔を見ると、屈辱に満ちた表情をしていた。へえ、こんな顔になるんだ。その顔の醜さを他人事のように評価する。試合で負けたとき、クラスメイトに揶揄われたとき、自分はこんな顔をしていたのかな。


 そんなことを考えている間に、もう一度ホームドアに押し付けられた。杏の胸の高さまであるはずの安全装置の上辺が、持ち上げられていることによって背中の中ほどの位置に来ていた。背中が反れて、頭が闇の向こうへとはみ出す。


「でももう、いい加減に観念しなさいよ」


 線路の振動する音がする。遠くに見える二つの光。電車がやってくる、このままでは杏の頭は鉄の箱にぶつかって吹っ飛んでしまうことだろう。


「……それはこっちのセリフ」


 死の瀬戸際だというのに、杏の唇からは冷たい声がぽつりと漏れた。


「自分勝手なことばっかり言いやがって。そっちこそいい加減にしなさいよ」


 足を上げて、アンの胸を強く蹴る。胸ぐらが解放されたのと女を踏み台にしたことで、杏の身体は線路のほうへ大きく傾き――落ちた。


 電車の運転手は杏を視認していないのか。慌てた様子もなく冷静にブレーキを掛けながらホームに滑り込む。いつも通りに停車して、客を吐き出し、飲み込み、次の駅へと向けて発車する。

 ホームと反対側にある、ライトアップされた看板が埋め込まれた壁に身体を押し付けた杏の目と鼻の先で。


 蛇のように連なった鉄の箱が再びトンネルの向こうへと消えていくと、安全圏に居たアンの眼と、紙一重のところで生き延びた杏の眼が合った。電車のことを知らないなりに、死んだと思っていたのだろう。アンの榛色の眼が大きく見開かれる。

 杏は皮肉気に薄く笑って見せた。


「舐めるな」


 身体中が憎悪に満たされていくような、そんな感覚を覚える。心臓の辺りが熱い、と思っていると、胸の辺りに緑白色の光が浮かんでいることに気が付いた。見覚えのある光に本能的に悟る。あの女の水晶がここからでてきたというのなら、きっと――。

 杏は左手で光を掴んだ。球体のように見えたその光だったが、掴んでみると棒のような感触を得た。本能のままにそれを引き抜く。杏の心臓の上から現れたのは――


「……剣?」


 アンの目がますます大きく見開かれた。

 心臓の上の光から杏が引き抜いたのは、剣だった。長さ百二十センチほどの片刃の剣。刀のような白い柄。鍔は丸い五弁の花のよう。刀身は幅広で、杏の掌の横幅ほどある。断面はおそらく二等辺三角形。硝子のような透明な部材でできていて、中は緑色の液体で満たされていた。そう、まるでアンの水晶のように。


「まさか……マナの器だというの?」


 困惑したアンの声。なるほど、と杏は理解した。形は違うが、あれはあの水晶と同じ魔法の道具か。それならば――。


 杏は壁から離れると、第三軌条サードレールに触れないよう線路の上に降り立った。膝を大きく曲げ、足裏にぐっと力を込めて、立ち幅跳びの要領で跳躍する。左手の剣から力が流れ込んでくる感覚と同時に、身体が羽のように軽くなった。ジャンプは常人にできる高さを越え、地下鉄のホーム、そしてその上に設置されたホームドアをいとも簡単に飛び越える。

 そしてまたホームに戻った杏は、着地するや否や一歩踏み出し、立ちすくんだアンへと剣を振り下ろした。

 反射的に仰け反ったアンの、胸元の黒衣が斬り裂かれる。杏の黄色の肌とは違った、真っ白な胸元が断面から覗いた。


「くぅ……っ!」


 呻いたアンに畳み掛けるようにして、今度は剣を真一文字に大きく振った。剣先は大きく後退したアンの身体に触れることはなかったが、代わりにピシリ、と何処かに罅が入る音がした。

 先程まで静寂に包まれていた世界の外から、喧騒が漏れ聞こえてくる。人の声。足音。アナウンス。エスカレーターの稼働音。


「結界が……っ!?」


 驚きに思わずといった様子で背後を振り返るアン。その彼女の身体の向こう側で、空間に裂け目ができているのを杏も見た。動いているエスカレーターと乗り降りする人々の影が見える。

 アンはしばらくその光景を凝視し、それから動かずに立っていた杏を振り返った。


「……いいわ。騒ぎになるのはこちらも面倒だし。今日のところは引き下がってあげる」


 杏は特に言葉を返さなかったが、内心失笑した。引き下がってあげる? 追い詰められていたのはそっちのほうだったろうに。


「次は殺してやる」


 囁くように静かに言い残して、アンの姿がふっと煙のように消えた。

 くらり、と目眩がして、視界の端から暗くなる。よろける身体を足を踏ん張って支え、右手で頭を抱えた。そのままじっと耐えていると、水の中から出てきたときのように、周囲の音が直接杏の耳に飛込んでくる。


「――っと、ちょっとお嬢さん!」


 近くで明瞭に聴こえた女の声に、杏は顔を上げた。瞬間的に戻ってきた視界に、如何にも〝おばちゃん〟といった風の中年女性が心配そうに立っている。


「さっきからぼうっとしているようだけど、大丈夫? 具合悪いんじゃない?」

「大丈夫です。ちょっと、目眩が」


 当たり障りない返事をお礼とセットで言えば、気をつけてね、とその女性はエスカレーターを上っていった。

 ふぅ、と溜め息を吐き、杏は腰を折った。足下には何事もなかったように杏のスクールバッグと竹刀の袋が鎮座している。それらを拾い上げてから、電光掲示板を見上げると、次の電車がまもなく到着するとアナウンスされていた。

 一番近い列に並び、到着した電車に乗り込む。


 さっきの死闘がまるで夢だったかのように、杏の周囲は変わりない。スマートフォンを弄る人。居眠りする人。周囲に迷惑をかけない程度にはしゃぐ学生と、疲れた顔の母親に電車の外が気になる子どもとが、狭い筐体に押し込められている。

 ――でも。


 揺れる車内の隅でそっと竹刀の袋を開く。少しだけ引っ張り出してみると、真っ黒に焦げた刀身が現れた。

 ホームの床に投げ捨てた竹刀が何故元通りに袋に入って足元にあったのかは解らないが。

 異次元の自分も、命を狙われたことも、死闘を繰り広げたことも、心臓から剣を創り出したことも、全部現実に起こったことなのだと悟った。


 真っ暗な窓に映る自分を見つめる。黒髪黒目、短めのボブカットの自分。手を置いてみれば、鏡像の自分もまた杏の手に手を合わせてきた。

 この自分は無害な自分。私を殺しに来ることはない。

 でも、金髪に榛の目の自分は違う。

 

「――きっとまた来る」


 手を重ね合わせた鏡像に異次元の自分を透かし見ながら、杏は確信を口にする。

 魂が同じというのは本当なのだろう。相手のことが自分のことのようによく分かる。ここで諦めるような人間ではない。むしろ今度こそ全力で杏を殺しに来るはず。

 だったら。


「戦う、だけ」


 窓に付いた手をぐっと握り、杏は自分の鏡像を睨み付けた。

 覚悟と闘争心に満ちた瞳は既に平凡な女子高生のものを逸脱し、少女を戦士へと変貌させていた。

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アン・テキシン=サバイバル 森陰五十鈴 @morisuzu

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