アン・テキシン=サバイバル

森陰五十鈴

二人ノ自分

『本日未明、○×橋で見つかりました亜舘丈二さん三十五歳は、これまでC県やY県などの三県で発見された被害者と同じく心臓を失っており――』


 大通り交差点に設置された、大きな街頭モニター。何十という人間が一度に行き交うこの場所で流される血なまぐさいニュースは、多くの人に聞き流されている。この手の事件は既に五件目。当初恐ろしくあったが、数を重ねると人間は慣れる。あくまでテレビ画面の向こうの出来事として受け取っている者がほとんどだろう。

 紺色のブレザー姿でスクールバッグと竹刀を入れた袋を背負ったショートボブの女子高生、弐籐にとうあんもまた、その一人。彼女は駅前広場でつまらなそうにモニターを見上げて立っていた。


「ねえ、知ってる?」


 タピオカミルクティーの紙ストローを咥えながら、隣にいた友人の梨加が杏の顔を覗き込んだ。明るく茶色に染めたストレートの前髪の下の瞳は、爛々と輝いている。


「この事件ってさぁ、すっごくアヤシイ噂があるの!」

「ああ、知ってる」


 ポケットでスマートフォンが振動する。身振りで友人に謝りつつ携帯を取り出しポチポチと弄りながら、杏は返事した。専業主婦の母親から、早く帰ってきなさい、とメッセージ。今流れているような報道番組でも見て、不安になったのだろう。なにせ今話題の男性が発見されたのは都内。近いっちゃあ近い。ここから電車を三本乗り継がなければ行けないようなところだが。

 了解、と敬礼するウサギのスタンプだけを送り、ネットの記事を開いて梨加に見せる。


「ドッペルゲンガーに殺されたってやつでしょ?」


 それそれ、と梨加は嬉しそうに画面を指差した。巷を騒がす猟奇的殺人事件も、都市伝説のような怪奇話が加わると、若者の娯楽に成り下がる。

 くだらないなーと思いつつ、記事を眺めていた杏も杏なわけで。


「〝第一発見者であるN氏は、こう語った。『確かに心臓を刳り抜かれた死体を見つけたことには驚きました。でも、頭の何処かで違和感のようなものを覚えていたんです。それがなんなのか、警察の取り調べを受けて落ち着いた後に思い出しました。被害者の死体を発見する直前、自分が被害者とよく似た人物とすれ違っていることに気がついたんです』〟」

「ホントかなぁ〜?」

「んなわけないでしょ。服とか髪型とか、たまたま犯人と似てただけじゃないの?」


 冷めた杏の返事を、だよねー、と笑い飛ばし、梨加は中身を空にしたプラカップをごみ箱に放り込んだ。腕時計を見て、そろそろ時間だ、と言う。彼女はこの後、塾があるのだ。


「んじゃねー」


 駅ビルの前で梨加は手を振る。杏はそれに応えて、駅ビルの中に入った。

 パスケースを翳すと、ピピ、と心地良い音を立てて改札が開く。人混みを掻き分けて地下鉄へ。二階分はありそうな長いエスカレーターの上で、またスマートフォンを弄りはじめた。


 さっきの事件、ドッペルゲンガー説の他に、未成年の犯行説が出てきたらしい。さっき流していた男性被害者の遺体発見現場のそばで金髪の少女を見た、と。記事が面白おかしく挙げていた〝有力な動機〟は、パパ活でのトラブル。〝未成年の金髪=不良〟の安易で差別的な符号で成り立たせた、しょうもない説だ。殺人の連続性はどうした。そもそも、パパ活のトラブルで何故心臓を抜き取るというのか。穴だらけにも程がある暴論。マスコミの質の悪さに失笑する。案の定、コメント欄は荒れていた。


 やっぱり馬鹿馬鹿しいな、と噂を一蹴して携帯の画面を切り、通い慣れたホームに下りる。二、三歩進んだところで、違和感。なんだろう、と眉を顰めてあたりを見回すと、周囲に人が一人も居ない。放課後の時間帯の、副都心の地下鉄で、だ。マイナーな線でも利用者ゼロなんてあり得ない。

 ホームを間違えたか、と思って電光掲示板を見上げるが、アナウンスされているのは杏が乗る予定の電車の到着時刻。あと十分ほどで電車は到着するはず。

 それなのに、誰もいない。


 エスカレーターの先、両サイドをホームドアに阻まれて、延びていく灰色のタイル床。蛍光灯の下、奥へと広がる空間の視界を阻むコンクリートの柱。その両脇から見える地下トンネルの向こう側は、異質な闇を湛えている……ような気がした。


 寒い。

 なにかがおかしい。


 霊界にでも迷い込んだような感覚に陥った杏は、とにかく一度この場所を離れようと踵を返した。


「え……?」


 振り向いたところで、足が止まる。エスカレーターは止まっていた。さっきまで杏を乗せて運んでいたというのに、ぴたりと停止している。


「なん、で……」


 不思議……というか、もはや心霊現象に遭遇したかのように不気味であったが、幸いエスカレーターは止まっているだけで封鎖されてはいない。面倒だが階段代わりに登っていこう、と決意して足を踏み出しかけたところで。


「逃げられないわよ」


 ホームには誰も居なかったはずなのに、背後から声を掛けられた。聴き慣れているようでありながら、こそばゆくなるような違和感のある声。

 振り返ってみると、そこに居たのは――


「こんにちは。はじめまして、私」


 一人の少女だった。アラビアンな占い師を連想させる、薄く光沢のある布で作られた黒い服。金色で縁取られ、所々、紋章のような刺繍が施されている。首元から踝の辺りまで垂れた布からはみ出た脚には、黒いストッキングと黒いヒール。背中には服と同じようなデザインの黒いマントを羽織り、フードを被っている。胸元まで長さのある髪は、月の色を連想させる金。眼は榛色というやつか。

 コスプレかと思うほど、明らかに現代日本にそぐわない格好をした同じくらいの歳の少女。だが、その格好以上に杏を驚かせたのは、彼女の顔が自分とだということだ。鏡を覗き込んだかのように、全く同じ顔がそこにある。

 杏の前に現れた金髪の自分は、不敵な表情を浮かべて杏を見つめていた。


「……誰?」


 たじろぎながら、杏は尋ねる。


「私はあなた」


 紅を施された唇から出たのは、先程杏を呼び止めたのと同じ声――動画を再生したときに聴く自分の声と同じものだった。


「ただし、他の世界から来たあなた。魂を同じくした別世界のアン。……これで通じる?」

「別……世界? パラレルワールドのこと? なに、言ってんの? 漫画じゃあるまいし」


 呆気にとられてうわ言のような返しをする杏を見て、期待外れだと言わんばかりに金髪のアンは溜め息を吐いた。


「ふーん、これがこの世界の私、か。聴いてはいたけれど、がっかりね。こんなにも無知だなんて」


 がっかり、という割にはさほど残念な風もなく、別世界のアンは朱唇を拭うように親指を当て、口元を歪めた。眼が、獲物を見つけたときのように爛々と輝いている。


「まあ、でもそのほうが都合が良い、か。大して気に病むことなく殺せるものね」


 そうして、アンは胸の前で左右の手の指先を合わせ、三角形を作った。三角の中に緑白色の光が灯って、妙なオブジェの形に変わる。三日月形の白い台座。欠けた部分には紐が回された水晶玉のようなものが浮かび、三日月の両端に拘束されている。玉の中には半分ほど液体が入っていて、ほんのり緑色に光っていた。

 なんだ、これ。

 まじまじと見ていると、玉全体が白く光り、そこからなにかが放たれた。弾丸のような、レーザーのような。反射的に身を捩った杏は、動かないエスカレーターの上に倒れ込んだ。


「なに……っ!?」


 右腕を付いて身を起こし、驚愕の表情で相対する人物を見上げた杏を、アンがせせら笑った。


「魔法よ」


 本当に無知なのね、と杏を嘲る。


「だったら、大人しくしていたほうが身のためよ? そしたら、できるだけ苦しまないように殺してあげるから」


 甚振る鼠を見つけた猫のような表情で杏に迫る、同じ顔の少女。杏をまるで虫けらのように見下ろす彼女に殺されるのか、と思ったら、恐怖よりも怒りのほうが先に膨れ上がった。


「貴女が、本当によその世界から来たのだとして」


 杏はゆっくりと立ち上がった。


「なんでわたしを殺すの?」

「へえ。思ったよりも、受け入れるのが早いのね」

「……」


 正直、本気で信じちゃいないし、魔法とやらの仕掛けが分かったわけでもない。が、目の前のサイコ野郎がどんな厨二設定を持ち出してきたのか分からないことには、時間稼ぎも状況の打開もできるはずもない。話が通じない相手に「なんで」とか言っている間に殺されるのがフィクションでの定番だ。

 なら、一度話を合わせる。

 怯えるでもなく、不審な目を向けるわけでもなく、冷静な眼差しで見上げる杏になにを思ったのか。アンは歩みを止めて肩を竦めた。


「いいわ、教えてあげる。私があなたを狙うのは、この私が生き延びるため」


 アンは金髪を払うと、踵を揃えて背筋を伸ばし、両肘を支えるように腕を組んだ。


「私たち人間は、〈神苑ガーデン〉に植えられた一株一株の苗である」

「……は?」


 ある程度覚悟していたが、いきなり飛び出してきた訳のわからない用語にやはり戸惑う。


「一つの苗は複数の花を付ける。花の一つは私であり、別の花はあなた。他にもまだいくつもあるわ。苗は魂。花は人格。位置の違いは次元の違い。私たち人間は、一つの魂を共有し、異なる次元にいくつもの人格と身体を持つ存在なの」


 杏は眉間に皺を寄せた。複数の花を付ける苗、と言うから鈴蘭やグラジオラスのような花は想像したが、その先が全く解らない。

 だが、杏の理解などどうでもいいのか、アンはつらつらと話を進める。


「あなたの世界ではどうかは知らないけれど、園芸において、一つの花に栄養を行き渡らせるには、他の花を摘むことが必要だと言われているわ」


 知っていた。りんごだったかトマトだったか、夕方のニュースの特集でそんな話を見たことがある。確か、摘心、といっただろうか。

 つまりね、とアンは組んだ腕を解いて人差し指を立てた。


「あなたが死ぬと、これまであなたが受けていた分の栄養が私のところに来るようになるの」


 分かるような、分からないような。杏の眉間の皺は深まるばかりだった。とにかく彼女が杏を死なせたいことだけは伝わってくる。


「なんで、そんなこと」

「はじめに言ったでしょう? 私が生き延びるため」


 アンは左手を前に出し、その掌の上に浮いているオブジェを杏に見せつけた。玉の中に半分だけ入った緑光の液体。それを苦々しい様子で一瞥する。


「私の器の養分マナはこんなにも枯渇している。もうずっと、何年も満たされたことがないのよ。だけど、あなたのマナは十二分に満たされている。その癖、マナを利用することはせず、それどころかただ腐らせて、自分たちの世界をめちゃくちゃにしているんだわ」


 仁王立ちになったアンの表情が冷えていく。榛色の目には憎悪と侮蔑の色が浮かび、杏を睨めつけた。


「だったらそのマナ、私が私の世界のために使ったっていいでしょう?」

「……知らないよ。そんなの」


 杏は腰を折り、エスカレーターに倒れ込む際に放り出してしまった竹刀の袋を拾い上げた。


「わたしには関係ない。あんたのために死ぬなんて、冗談じゃない」


 口を縛る紐に指をかけて、中の竹刀の柄を掴む。

 獲物の反抗の意志を悟ったアンは鼻を鳴らした。


「どんなに足掻いたところで、マナを操れないあなたが助かる術はないわよ。私が張った結界からは出られないし、私の魔法からは逃れられない」


 腕を組み直した彼女は、苛立たしげに自分の肘を指先で叩いた。


「解ったら、大人しくあなたの心ノ臓を差し出して」

「心臓……」


 先程街頭モニターで見たニュースや、娯楽気分で読んでいたネット記事が頭を過ぎる。


「まさか、最近の連続殺人事件、犯人はあなたなの……?」


 そういえば、さっき読んだ胡散臭い記事。犯人は金髪の少女だという。目の前のアンは金髪だ。そして顔は杏と同じ顔。杏のドッペルゲンガーともいえる存在だ。


「連続……?」


 とアンは一瞬眉を顰めたが、


「……ああ、そう。そうね。私ではないけれど、私の世界の人間かも。マナを必要としているのは、私だけではないし。そもそも、この世界の人間はなを摘み取ることに決めたのも、他の人たちだしね」

「つまり、あんたたちは侵略者ってわけ。……ほんと、冗談じゃない」


 重力に従って、袋が杏の足元に落ちる。


「今すぐ帰って」


 袋をローファーの爪先で蹴り飛ばし、軽く脚を開くと、杏は竹刀を目の前の少女に突きつけた。

 闘志を宿した杏の目を見て、アンは少し満足そうに微笑んだ。


「さっきから思ってたけど、あなた、結構強靭な精神の持ち主よね。もの分かりもいいし」


 す、と左掌を肩の辺りまで上げる。その指先に浮かぶ水晶玉が怪しく光った。


「そうこなくっちゃ。同じ魂を持った別の自分があまりにも腑抜けじゃあ、私のプライドも廃るってものだわ」

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