後編

 朝からみんなと言葉を交わせて素晴らしい日だが、遅刻しないよう急がなければ。フラウは慌てて郵便局の手前の細木を曲がる。よく見ると、そばには紫色の老眼鏡をかけたマダムが立ちすくんでいた。地図だろうか、紙を見ながらあたりを見回している。そのまま前を通り過ぎて郵便局へ向かおうか……。魔が差しそうになったフラウだったが、マダムに声をかけることにした。このあたりは細木が多くて初めて来た人には道がわかりにくい。このままマダムを助けずに仕事へ行っても、仕事が手につかないだろう。何か困っているかを尋ねると、マダムの強ばっていた肩がすっと柔らかく丸まった。


「ああ、親切にありがとう。最近こちらに越してきた娘夫婦と孫に会いに来たんだけど、場所がわからなくなってしまって」


 ずっと握りしめていたのか、地図の端がしわくちゃになって湿っている。森を飛び回る鳥バスの背中に乗ってここまで来たのだと、マダムは堰を切ったように話し出した。フラウは相づちを打ちつつ、マダムが持っていた別の紙――マダムの家族の住所が書かれた紙を見て、地図の道に印をつけていった。幼い頃から森の配達人に憧れていたフラウにとって、向こうの谷から反対側の河までは庭のようなものだ。急いでいること、地図でなぞってある道を行くとその住所に着くことをマダム告げた。


「まあ、悪いことをしちゃったわね。私はもう大丈夫よ、本当にありがとう。お仕事頑張ってね」


 フラウは手短に挨拶を済ませ、郵便局の方へ走った。西の大木まではもうすぐだ。でも、マダムは……。走っていた足を止め、もう一度細木のほうを振り返った。マダムはあたりを見回し、どちらの方向に進もうか迷っているようだ。孫へのプレゼントが入っていると行っていた風呂敷を抱え、意を決して太陽の方向へ歩みを進めた。違う、そっちの道じゃない……。

 一緒に行きますよ。フラウはマダムのところまで急ぎ戻り、風呂敷を預かりながら「こちらです」と案内する。マダムのほっとした顔を見て、フラウも安心した。



 「初日から遅刻なんて。前代未聞です」


 グスマン局長は大きなしっぽを上へ下へ動かしながら、狭い局長室を行ったり来たりしている。フラウは頭を上げることができず、ドアを入ったところで身体を小さく丸めている。

 今日フラウと同じく入局したもう一人は、すでに配達に出てしまった後だった。マダムを東の端の森に送り届けてから、汗をかきかき西の大木をのぼってきたのだが、他の先輩も森中に配達に出てもう一時間が過ぎていた。郵便局に謝りながら駆け込んだのが、今から五分くらい前のことだ。


「フラウさん。あなたこの間の面接のとき、“森の配達人”に小さい頃から憧れていたっておっしゃっていたじゃないですか。その意欲をかって一緒に頑張っていこうと採用したのに、初日から遅刻なんて……」


 フラウより背の低いグスマン局長のネクタイはまっすぐ下に伸びており、前髪もきっちりと整えてある。そうだ、私は今日から働くんだった。グスマン局長のように、身だしなみもしっかり整えて、遅刻をせず、間違いなく、早くみんなに手紙を届ける。それが大事なことなのに、なんで私はできないんだろう。フラウは床を睨みながら、溢れそうになる涙をこらえることしかできなかった。


 局長室のドアがノックされ、フラウは急いでドアの前から離れた。事務の先輩だ。


「局長、お客様です。お約束はないとおっしゃってるんですが……」

「どなたでしょう?」

「リッカ前局長と奥様です」


 それを早く言いなさい、と窘めてから、少々荷物が散らかっていた会議机を片付け始めた。「とりあえず事務所で自分の机と荷物を準備なさい」と言われ、フラウはもう一度大きく頭を下げてから局長室を出て行こうとした、そのときだった。


「あら? お嬢さん……」


 そこにいたのは、今朝道に迷っていたマダムだった。後ろには、たっぷりと髭をたくわえて杖をつく男性が立っている。


「あなた、このお嬢さんよ。私を案内してくださったのは」


 マダムはフラウの手をとり、力強く握りしめた。先ほどご家族の元に送り届けたはずなのに、なぜここに? フラウが不思議がっているのを見て、マダムはますます笑顔になる。


「私の夫がここで長く局長を勤めていたの。お嬢さんに送ってもらって夫と合流できたんだけど、後でこちらに挨拶に伺おうとしていたことをすっかり忘れちゃってたのよ」


 あのまま郵便局へ向かって待たせてもらえばよかったんだわ、とマダムは少し恥ずかしそうな顔をした。マダムの勢いに押され気味のフラウを見て、リッカ前局長はマダムの肩に手を置いて制した。


「お嬢さん、家内がご迷惑をおかけしたようですみませんでした。グスマンくん、君が職務に誠実なことを私は知ってるよ。今聞いたとおり、お嬢さんは家内に親切にしてくれたために遅くなってしまったようだ。だからどうか、お嬢さんを私に免じて許してあげてもらえないだろうか?」


 グスマン局長はしきりに眼鏡をあげながら、何か言いたげだったものの、ふう、とため息をついた。彼はフラウの方に向き直る。 


「フラウさん、遅刻はもちろん許しがたいです、が……。私も理由も聞かずに言い過ぎました。申し訳ありません」


 グスマン局長は新人のフラウ相手にもしっかりと頭を下げた。フラウは首を左右にふる。


「“森の配達人”にとって大事なこと。もちろん、遅刻せずに大切な手紙をなるべく早くお届けすることです。でもそれと同じくらい大事なのは、この森に住む人たちを笑顔にすること――。リッカ先輩に口酸っぱく言われたのを思い出しましたよ」


 グスマン局長が眉根を寄せて笑ったのを、フラウはそのとき初めて見た。マダムはもう一度フラウの手を強く握りしめた。その手の温かさにフラウは驚いた。 


「フラウさん、本当にありがとう。あんなに親切にしてくれる人、なかなかいないわ。あなたは、とっても、とっても良い“森の配達人”になれるわ」


 夫が四十年“森の配達人”だった私が言うんだから間違いないわ、とマダムはウインクする。


 「さあ、もうこんな時間です。今からでも遅くないので、配達をお願いします」


 グスマン局長が指さしたその先には、「フラウ」と刺繍の入った赤い鞄があった。手紙と地図が詰まった、これからずっと相棒になる鞄。フラウはグスマン局長、リッカ前局長に頭を下げた。マダムには、これから頑張ります、と頬にキスをした。鞄を肩にかけ、西の大木の郵便局の扉を開ける。空を見上げると、色とりどりの花びらが次々と降り注いでいた。


 春が降る中、フラウは手紙とともに勢いよく駆けだした。

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春の手紙 高村 芳 @yo4_taka6ra

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