春の手紙

高村 芳

前編

 瞼の向こうで朝陽が揺らめいた。花の種子がゆっくりと割れて芽吹くように、眼が静かに開かれる。昨日まで降っていた雨は空気を洗い流し、穏やかな光が窓から寝具に降り注いでいた。


 「春が降ってきた!」


 フラウは叫ぶや否や、干し草の寝床から飛び出し、急いで朝露を貯めた瓶の水で顔を洗った。しっぽの寝癖を整え、鏡に映った自分の姿をじいっと見つめてから、意を決してドアノブを開け放った。

 空からは、色とりどりの花びらが降り注いでいる。樹木の洞に作られた家の前で、フラウは一つ大きく息を吸った。春の暖かな空気で、頭の先からしっぽの先まで満たされる。

 樹木に隙間なく絡み合った蔦を慣れた手つきで掴みながら、フラウは降りていく。時にはスカートの裾を葉っぱにとられたり、苔に手のひらをくすぐられたりしながら、どんどん降りていく。森の郵便局は、西の大木の下から二本目の枝だ。急げ、急げと周りの草木がフラウを急かす。


「おはよう、フラウ。いよいよ今日からね」


 パン屋のサプリの声が耳をくすぐった。向かいの木の中腹あたりで、ちょっとふくよかな身体をエプロンで包みんだサプリが窓から顔を出している。大きな声で挨拶を済ませると、甘いパンの焼ける香りがフラウのところまで風に乗って漂ってきた。フラウは枝を伝ってサプリの店の近くまで歩を進めた。


「今日のお昼はどうする?」


 サプリのパン屋の腕はピカイチだ。特にユエとテンメのサンドイッチは、こっくりしたバターとユエの酸味でいくらでも食べられる。そのまま食べると渋みが出るテンメの実も、サプリがジャムにすると魔法のように甘くなるのだ。その二つをリクエストすると、じゃあひとつずつ取り置きしとくよ、とメモに書き留めた。

 フラウは大きく手を振り、昼にもう一度立ち寄ることを伝えてから、再び地上を目指す。サプリは娘を見るような瞳でフラウを見届けた。背後からこっそりフラウを見守っていた旦那にメモを渡して、サプリは竈へ戻っていった。

 フラウは今日から、手紙を届ける“森の配達人”になる。



 森の配達人になる今日、ちょうど春が降ってくるなんてなんてステキなんだろう。朝露をたっぷり弾く若葉をつつくと、雨粒が落ちてメロディに聞こえる。フラウは柔らかな草木の絨毯の上を歩き出す。

 フラウが配属された「西の大木の郵便局」は、三本向こうの、名の通りフラウでは枝の先を見ることが叶わないほど背が高く、どっしりとした樹の上にあった。木の肌は乾燥していて、サラサラスベスベしている。そこで働くのがフラウの夢だったのだ。


 道中、フラウの家から二本目、カワカの木に差し掛かったとき、根元の瘤にいつものように座る姿が見えた。シュトームトじいさんだ。


「フラウじゃないか。おまえさん、今日からか?」


 頷くと、「そうかそうか」とシュトームトじいさんはパイプの煙をくゆらせた。

 シュトームトじいさんは、もう何十年も毎朝この木の根元に座って煙草をふかせているんだと、フラウの母は言っていた。昼には姿が見えないのだが、木の根元が少し削れて窪んでいて、どこかシュトームトじいさんを思い出す。そこはシュトームトじいさんの特等席だと森のみんなが知っていて、誰も座ろうとしない。シュトームトじいさんとカワカの木はとても仲良しなんだなと、フラウはいつも思っていた。


「なあフラウ、年寄りの独り言と思って聞いてくれ」


 いつもなら静かに送り出してくれるシュトームトじいさんに珍しく呼び止められ、フラウは足を止めて向き合った。本当に独り言かと思うほど小さな声で、シュトームトじいさんは続ける。


「働くってのは、なかなか難しいもんでな……。上手くいくこともあるが、それはほんのちょっぴりだ。どちらかというと、上手くいかないことの方が多い」


 話す間にも降り続ける花びらを、愛おしそうに見つめるその目の周りには、木と同じように年輪が刻まれている。周りの大人たちは、「シュトームトじいさんはとても腕のいい家具職人だった」と口を揃える。仕事が上手くいかなかったとき、おじいさんはどうしたの?とフラウは尋ねた。


「まずは息を大きく吸う。次に、何故駄目だったのかを考える。そして、次はこうしよう、と考える」


 ひとつずつ指を折り曲げて数えながら教えてくれる。その指はところどころ瘤のようになっているけど、とても温かそうな手だ。

 最後にもうひとつ、とシュトームトじいさんはフラウを見つめる。


「いっぱい笑うこと。笑ってると、誰かが見ててくれて、助けてくれる。おまえさんが一番得意なことだ」


 しわくちゃの顔でフフフとおじいさんは笑った。思わずつられて、フラウも吹き出してしまった。肩が少し軽くなったような気がした。これから楽しいことばかりではないかもしれないけれど、多分辛くなったらシュトームトじいさんのこの言葉を思い出すのだろうと、フラウは思った。


「ほら、初日から遅刻するぞ。いってらっしゃい」


 フラウは大木のようなシュトームトじいさんに、大きく手を振ってわかれた。


 さて、そろそろ出勤時間だ。

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