ラーメン『武蔵家』こぼれ話
エリュシュオン
アマチュア小説家の元気の源
専門学生になってから、俺は頻繁にその店に足を運ぶようになった。
課題もまあまあ大変だし、コロナも流行っているというのに。
だが『思い立ったが吉日』とはよく言ったものだ。
一度思い出したら、また食べずにはいられなくなってしまう。
『武蔵家』武蔵境店のラーメンには、人々を魅了する魔法がかけられていた。
なかなか止まない長雨の中、俺は引き戸を開けて傘を閉ざした。
「こんちはー」
引き戸をくぐると、白タオルを頭に巻いたいつものお兄さんがいた。
「おっ、らっしゃい! カウンター席、空いてるよ」
思えばお兄さんと話すようになって、もう二ヶ月くらいが経つかもしれない。
中坊の頃は親父と二階で食べていたが、今では決まってカウンターだ。
きっと、常連客として認められたのだろう。
俺は『味玉ラーメン』の食券を買い、カウンターの奥の方に腰かけた。
「麺固め、油少なめで」
「はいよ! ライスはいる?」
「お願いします」
カウンターでご飯とラーメンを待っている間でさえも、俺にとっては至福の時間だ。
『武蔵家』の店員さんは気さくな人ばかりだ。以前、話しかけて以来、けっこう話すようになった。
お冷をちびちび飲んでいると、やはりお兄さんが話しかけてくれた。
「今日も学校だったの?」
「はい、午前中授業でした」
俺は慌ててマスクをつけて、話を続けた。
「今日のプレゼン、クラスメイトの大半がラーメンの布教をするから……誘惑に勝てませんでした」
「我慢するのは良くないよ。食べたいなら食べなきゃね」
するとお兄さんは青磁色の茶碗をカウンターに置いてきた。
「はい、ライス並盛。チャーシューおまけね」
「ありがとうございます」
俺はサービスのライスを自分の前に置いて、ラーメンが来るのを待った。
『武蔵家』のラーメンはいわゆる家系ラーメンだ。
淡白なご飯でかき込む方が飽きずに食べられるのだ。
お兄さんは慣れた手つきで麺を湯ぎると、また話しかけてくれた。
「最近、あんまり来てなかったけど、忙しかったの?」
「まあ……そうですね」
俺は思わず溜息をつき、苦笑いをしながら話し始めた。
「俺、ちょっと作業が遅れてて……。コンテスト用の長編を書かなきゃいけないのに、なんか全然、気分が乗らないんですよね。明日から夏休みで、相談しようにも誰にも会えないし……誰も、話の輪に入れてくれないし」
気付いたら、俺は孤立していた。
誰に話しかけてもすぐに話が切り上がってしまう。
必死に話の輪に入ろうとしても誰も聞いてくれない。
まるで俺の存在そのものが忘れられたような感覚だ。
元々、人当たりがいい方ではない。
クラスメイトのLINEなんて一つも知らないし、我が強い自覚もある。
だけど……――――
「馴れ合いに来たわけじゃないんで、むしろ良かったのかもしれないです。皆、デビューを懸けたライバルなんですから」
まあ、俺にそれほどの実力があるという仮定の話だが。
誰も俺なんて見向きもしない。
その程度の価値しかない、と見限られたからだろう。
仲良しごっこがしたいわけじゃない。
だとしても、無視されてしまうのは、けっこう堪えるのだ。
「そっかー、専門学生って大変だなー」
お兄さんは真剣に俺の話を聞いてくれた。
何故かここに来ると、口が軽くなってしまうのだ。
「すみません、忘れてください」
俺は、はにかみながら顔を上げると、お兄さんは味玉ラーメンを置いてきた。
「はい、味玉ラーメン」
俺は軽く頭を下げてから受け取ると、お兄さんは告げた。
「お兄さん、たくさん自習とかして頑張ってるんだから、絶対デビュー出来るよ」
「…………」
「ラーメンでも食べて、元気出してね」
お兄さんは告げると、他のお客さんの注文に取り掛かり始めた。
俺はマスクを下げると、割り箸を口に咥えて割った。
「いただきます」
さっそく半分に切られた味玉を一口で頬張る。
ほのかに塩味のする白身と、とろっとろで濃厚な黄身が口の中で解れていく。
レンゲで豚骨醤油のスープをすくって、啜った。
黄身とスープの異なる濃厚さが混ざり合い、さらに食欲を掻き立てる。
大きめの海苔をスープに軽くつけて、ご飯を包むようにして口に運ぶ。
「やっぱ、美味いなぁ……!」
消え入るような声で呟く。
飲み込みたくない。ずっと口の中で感じていたい。
どうして『武蔵家』のラーメンはこんなにも心を潤してくれるのだろう。
どうして何度も何度も食べたくて仕方なくなってしまうのだろう。
鼻の奥の方が痺れてきて、思わず俯いて目頭を押さえる。
引き戸の向こうからは、もう雨の音が聞こえなくなっていた。
ラーメン『武蔵家』こぼれ話 エリュシュオン @elysionnoisyle
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