Blue Moon

衞藤萬里

Blue Moon


 北森明日夢からの呼びだしは、段ボール箱持ってきて――という変わった注文がついていて、それも彼女の部屋にじゃなくて、バイパス沿いのファミレスの少し先って?……何だそりゃ?

 切実そうに声が震えていたが、半々の確率で演技だと僕はふんだ。ふんだが、渋々呼びだされてやることにする。何というお人よしだ、自分。

 手ごろな段ボールがあったので、自転車のかごに突っ込む。

 もう真夜中に近い。凍えてしまいそうな十二月の寒さだった。深夜のバイパスは、昼間よりもスピードを出して走る車のせいで風がひどい。首をすくめて、僕はペダルをこいだ。

 僕らは、時々こんな風にお互いに協力を要請をすることがある間柄だが、客観的にみて僕が呼びだされる回数の方が多いと思う。

 聞いた場所に、彼女はいた。

 車道と歩道の境界のツツジの低い灌木のかたわらに、北森はしゃがみこんでいた。灌木の中に彼女の自転車が横倒しになっている……何やってんだ?

 バイパス沿いで街灯やファミレスの灯りがあるとはいえ、そこは薄暗がりだ。走り去る車のライトが、時折彼女を瞬間的に浮かび上がらせる。

「あ、さんきゅ」

 僕の顔を見て、北森がほっとした表情を浮かべた。片手はスマホを耳にあてて、もう片方の手は灌木の中に突っ込んでいる。ますます何をやっているのかわからない。

「助かったぁ……熊谷君、段ボール持ってきてくれた?」

 台詞が震えているのは、本当に寒さのせいだろう。歯の根があっていない。長身の北森が、なぜか今夜は妙に頼りなげに見える。

「何やってる?」

「あはは……この子……」

 困ったような北森の視線の先は、灌木の中に突っ込んだ片手にあった。マフラーで何かを押さえつけている。そのマフラーが、もごもごと動いた。そして鋭く威嚇する声。

 ようやくわかった。真っ黒な子猫を、北森がマフラーで押さえこんでいた。

「段ボールちょうだい、部屋に連れて帰る」

 何があったのか訊ねようとした時、ひときわ運転の荒い車がごうっと音をたてて、僕らを弾き飛ばすような勢いでそばを走り抜ける。

 その勢いは身の危険を感じるぐらいで、とにかく急いでここを離れようと思った。

 箱に子猫を入れようと思ったが、これがとんでもなくむずかしい作業だった。両掌にもあまるぐらいの生意気な小ささのくせに、抱えあげようとしても牙をむいて威嚇の声をあげる。眼が血走り、ものすごい力で抵抗してひっかき、かみつこうとする。北森がマフラーで押さえこんでいたのも無理はない。

 ようやく箱に押しこめ、逃げることができないようにふたをした時には、僕と北森の手や指は、傷だらけになっていた。


 バイト帰りの北森の眼の前で、バイパスを横切ろうとした黒猫が車にひっかけられたらしい。

「いつもなら、手なんか出さないんだけど、眼の前でおきたもんでとっさに……」とはあいつの云い分だ。

 あわてて自転車から降りてのぞきこむと、灌木の中にはね飛ばされてもがいていた子猫は、恐怖でだろう、興奮して手におえない状態で、隙をみてようやくマフラーで押さえこんだとのことだ。その時点で、北森の手の甲には何条ものひっかき傷ができていた。

 そして僕に連絡をして待つこと三十分。暴れる猫に手をゆるめることもできず、真横を車が轟音をたてて走る中、寒さで震えていたらしい。

 寒い凍えるととにかく騒ぎたてるので、北森の部屋に向かい、暖かい部屋でこたつに潜りこむと、もう出ようとしない彼女から聞いたのがこの顛末だ。

 自転車のかごの中で、猫はずっと怒りの声をあげていた。ものすごい怨念を感じる。

 さて、次はどうするかだ。

 段ボールの隙間を広げて中をのぞくと、怒り狂った猫の金色の眼とあってしまった。段ボールをひっかきながら、大暴れする。

 その時気がついた。

 後肢が動いていない。前肢だけで箱の中をぐるぐると、はいずりまわっている。

「北森、こいつ後肢、折れてるんじゃないのか?」

 こたつから這い出て、北森ものぞきこむ。

「……本当だ」

 呆然とつぶやく。僕らは思わず顔を見合わせた。

「明日、犬猫病院、連れていこうか……治るよね、肢」

「……多分」

 自信はなかったが、僕は答えた。人間だって骨が折れても、またつながる。猫がつながらない道理はない。大丈夫だろう。

「ところで北森、お金は?」

「……少し貸してください、熊谷君」

 こんな時だけ調子のいい。

「で、治ったらどうする?飼うのかって意味で」

「アパートだから飼えっこないよ。ひかれたあたりで放そうかな、子猫だから親もいるかも……あ、何か食べるもの」

 北森が思いついたので、ふたりでコンビニで猫缶を買いにいくことにする。味の違う何種類かの猫缶を買い物かごに入れると、これ食べられなかったらチュール買っといた方がいいかも、念のためトイレの砂も買っておかなくっちゃ、なんて云ってるうちに、真夜中なのに結構な大荷物になっていた。

 猫缶を開けて小皿に入れても、チュールを差し出しても、子猫は食べようとしない。震えて牙をむきだして、激しく威嚇する。車にひかれかけたことが、よほど恐ろしかったのか。

 浅い段ボールに砂を入れてトイレにしてやったが、これじゃ抱えてやることもできない。

「落ち着くまで、そっとしとくしかないかなぁ」

 困ったように北森がつぶやいた。


 翌日、最後のリモート講義が終わり、もう夕方だったが、僕らは子猫を病院につれていくことにした。僕はバイト先に連絡して、遅番にしてもらう。

 子猫は段ボールの中で黒い宿便を排泄していた。北森の話だとほんの少しチュールをなめたとのことだった。この調子なら何とか助かるだろうと、ちょっと安心した。

 大学の裏手に、築百年はするだろうと思われる洋風建築での診療所がある。しゃれた庇の下の玄関は磨りガラスで、「細川家畜診療所」と分厚い木の看板が立派な門柱にかかっている。

 今どき家畜診療所とは。何でこんな診療所を、北森が探してきたのかはわからない。

 診療室の床も壁も古い校舎のような板張りで、映画のセットのように黒光りをしている。周囲の棚もよく使いこまれていて、犬や猫に寄生する虫の解説図や、予防注射をうながすチラシなどが貼っている。天井は高く、今日は動いていないが年季の入ったシーリングファンが下がっていた。

 診療所の主は四十歳ぐらいの大柄の先生だった。やはり犬猫というより、牛や馬の診療をしている方が似合いそうだった。

 段ボール箱に入れて連れてきた子猫の様子を診ていた細川先生は、何度もうなずく。

「猫は犬より厄介なんだよ。大変だっただろう?」

 僕と北森の手の傷を見て、先生は笑った。

「レントゲン撮ってみようか」

 細川先生は体重計にもなっている診療台で重さを量り、麻酔薬を準備すると大きなタオルケットで段ボール箱ごと子猫の上半身を押さえつけて、腰に針を刺す。ほんの数分で、抵抗していた子猫の身体から力が抜けていく。さすがの手際のよさだ。その身体をネットに入れると、隣のレントゲン室に入っていった。

 やがて出てきて診療机に座った先生の前で、僕と北森は丸いすに座り、先生の説明を聞く。

 先生はレントゲン写真を見ると、眉をひそめた。

「これは、脊椎やられてるみたいだね」

「脊椎?」

「逆に肢なんてまるで無傷だよ。当たり所だろうね、時々あるんだよこんな怪我」

「……動けるようになるんですか?」

 北森の質問に、先生はじぃっと凝視していたが、やがて首をふった。

「無理だろうね」

「……無理ってつまり……」

「死ぬ怪我ではない。でも一生、半身不随だよ。これは治らない」

 ボクらは思わず顔を見合わせた。北森の顔から血の気が引いていた。

「君たち、どうしようって思ってた?」

「とりあえず怪我をなおして……それしか考えていませんでした」

 先生はうなずきながら、太く息を吐いた。

「残酷なようだけどこの子は治らない。自分でトイレに行くこともできない。誰かがずっとそばにいて面倒みてげなくちゃならない。意味はわかるね?」

 さすがに僕らも、先生が云おうとしていることは察せられる。

「君たち学生さんだよね、アパート?実家?」

「ふたりともアパートです」

「……なら、君たちは飼えないよね」

 僕らは呆然とうなずく。先生は脚を組みかえた。

「ちょっとシビアな話をするよ、いい?君たちが飼えないのなら、このまま元いた場所にもどす?」

 北森は息を呑んで、大きく首を振った。

「それなら飼うことができる人のあてはある?ご実家や知り合いで、飼うことができる?」

 僕の実家は田舎の農家だ。頼めば飼ってもらえるかもしれないが、親だって一日中畑だ。動けない生き物を押しつけるわけにはいかない。

 僕らはまた顔を見合わせたが、結局首を振るしかなかった。

 だけど先生の表情は、僕らを責めるものじゃなかった。

「捨てられたり、事故にあったりした犬や猫の譲渡会ってのはあるよ。でも半身不随の猫の飼い主が見つかる可能性はほぼない。このご時世だ、譲渡会も当分開かれていない。君たち、自分が飼えない半身不随の猫を、他人が飼ってくれると思う?」

「ごめんさい、正直……そこまで考えていませんでした」

 うつむき、北森が答える。

「選択肢はふたつ。ひとつはこの状態のこの子の面倒をみる。もうひとつは割り切って楽にしてやるか。ただし私からどうすべきかとは云えない、君たちに決めてもらわないと」

 先生がひそかに言外にふくませていることを、僕はようやく気がついた。

「……それって、処分ってことですか?」

 隣でうつむいている北森が、びくりと反応した。細川先生は優しく笑った。

「君たちが猫を救おうとしてるのは偉いと思う。お金や時間を費やして、ふたりとも傷だらけになって」

 僕は手の甲の傷を見られないように、思わず後ろに隠してしまった。

「命を救いたいという気持ちは大切だ。だけど、獣医として積極的に云うわけにはいかないけど……人間が手を出せる範囲には限界がある。すべてを救うことはできない。人間の都合で、判断しなければならない時があるのも事実だよ」

 穏やかだったが、きっぱりとした言葉だった。きっと僕らには、想像もできないほどたくさんの生き死にを見てきたんだろうなと思った。

 北森の手が硬く握りしめられて、小刻みに震えている。唇を噛みしめ、ネットに入れられてぐったりしている子猫を凝視していた。その表情が苦しそうに歪んだ。

 視線に気がついた北森が、今度は僕にすがるような眼を向けた。その眼の光に胸がつかえて、脚が震えた。僕は意を決した。

「……先生、楽にしてあげてください」

 僕が云うと、北森が服のすそをつかんできた。懇願するような眼だった。でも僕は撤回しなかった。

「先生、俺ら……責任とることできません。せめて、楽にしてやってください」

 安楽死――なんて、言葉は穏やかだ。でも実態は違う。意思を以ってひとつの命を奪うやりかたは、やはりどんな言葉でも飾りようもごまかしようもない。

 僕たちは自分たちの都合のために、あの小さな命を断ち切るのだ。

 先生は麻酔薬の量を再び算出する。ひとつの生き物の息の根を止める作業にしては、あまりに簡素で無造作な手順に感じられた。

 ネットの中のその猫の尻尾の付け根に、注射針が指しこまれる。すでにぐったりしていた子猫は、異様なうなり声をあげた。それが自分の心臓を止める液体だなんて知る由もないくせに、それは今までとは違う異様な声だった。

 数分で効果があらわれた。さっきまであれほど荒々しく動いていた肩や背中は、もう動かない。懸命に虚勢をはっているみたいだった眼の光が弱まっていく。もう威嚇の声もあげない。

 北森が背中をなでているうちに、その生の光はあっけなく、本当に眠るように猫の身体から消失をしていった。

「後の処置はしておくから」

 先生は云った。処置っていうのがどういうものか気になったが、僕らはうなずくしかない。たとえ遺骸を引き取っても、僕らはどこに埋めることもできない。

「ありがとうございます」

 北森が深々と頭を下げた。僕もそれにならう。


 夕暮れをすぎて、もう昏くなりはじめていた。僕と北森は自転車を押しながら、迫る夜に追い立てられるようにのろのろ歩いていた。やがて夜に追いつかれるだろう。

 僕らは何も話せなかった。往きは僕らふたりと猫一匹、今はふたりだ。その不等式が、僕らの口を重くしていた。

 近道しようとした公園で、とうとう夜に追いつかれた。宵が深まりはじめていた。

 北森が脚を止めた。街灯が何度か点滅して点き、長身の彼女の影を濃いものにしていた。

 北森はかたわらのベンチに腰をかける。その前で僕も動けなかった。座った彼女の頭部はいつもと違って、僕よりずっと低い場所にあった。膝の上で手を組み、長い脚を投げ出し、自分と僕のつま先の中間を凝視していた。

「ごめん……」

 長い沈黙の後、ようやく口を開いた。

「熊谷君に、あれ、云わせちゃった。本当はあたしが云わなきゃならなかったのに……殺した……まだ生きてるのに」

「お前、決心できなかっただろう?」

「あたしんち街中だったから、生き物飼ったことなかったんだ。ペットって、寿命がきたり病気とかで、いつか自然に死んでいくもんとばかり思ってた。あんな風に、人間が強制的に殺しちゃうことがあるなんて、頭ではわかってたけど、実感なかった」

 ぼそぼそと話す調子は、いつもの北森とはまったく違って乾いていた。僕はそれが気に入らない。こいつにこんな表情をしてもらいたくない。

「判断しなければならない時があるって、先生云ってたろう?俺もそう思う」

「助けたつもりになって、助けることできると思ったのに、でも手におえないから、やっぱり殺してくれって……痛い時間を長引かせただけ。とんだ偽善だった」

「それは偽善とは云わないと……俺は思う」

「……ありがと」

 北森の眼から、つぅっと涙が流れた。それをきっかけに、大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちだした。まっすぐ前を向いたまま、北森は静かに涙を流しつづけていた。

 北森の、いつもとくらべて低い場所にある頭部の、ずっと上に月があった。丸く、そして鎮魂を象徴するような不思議な青色だった。こんな色、見たことない。

 特に理由はないが、初めて見る北森の涙に僕は動揺してしまった。何となくだが、こいつに泣いてもらいたくない。

 だから――

 泣いているのを止めてやりたかった。でもそんなうまい方法は思いつかなかったので――よりによって、とてもへたくそな方法で、僕はそれをしようとしてしまった。

 こんなこと、絶対ありえないはずなのに。

 ベンチに座る北森明日夢の頭の位置は、いつもよりすいぶん低かった。だから僕は、その高さにあわせて、少しだけ腰をかがめなくちゃならなかった。

 涙でいっぱいだった北森の眼が、これ以上ないぐらい大きく開いていた。

 ありえない。

 北森の頭越しの月が青かった。

 ……そうか。

 だからきっと、こんなありえないことがおきたんだ、きっとそうだ。

 全部、あの青い月のせいだ。


(了)

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Blue Moon 衞藤萬里 @ethoubannri

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