目の前の家の黒い門扉から、灰色の牡犬が這い出てきた。ランドセルを背負った娘は泡を食って逃げかけたが、犬は動かずに感情のこもらない瞳を娘に向けてくるだけだった。黒い硝子玉のようなその瞳に見とれた娘は、徐々に緊張を解いていった。

 とはいえ、犬が自分の後を着いてくるのには大いに困った。娘は背後を振り返っては、しっしっと威嚇いかくして追い払う仕草をしたが、犬は全く言うことを聞かなかった。こんな首輪もしていない、灰色と茶色の脂ぎった毛並みの犬を家に連れてきたらお母さんに怒られると思ったが、犬を見ているうちに、別に見せても良いのではないかという気がしてきた。

 玄関の軒先で、母は腕を組んで犬を見下ろした。母は犬を飼うことを認めなかった。娘が何故かと尋ねると、幾らでも思い浮かぶ理由を説明しようと開きかけた母の口が止まった。座って自分をじっと見上げる犬の瞳を覗き込むうちに、そこまで我を押し通すほど飼いたくないのだろうかと思い始めた。

「こういうことは大事なことだから、お母さんの一存ではちょっとね。お父さんの意見も聞かないと」

 と母は娘に言ったが、自分で喋りながら、何て言い訳じみた言い草と思った。父に見せるまでということで、結局裏庭で犬を預かることになってしまった。釈然としないものを感じながら、母は水や晩飯の残りを犬に与えた。犬は仕方なしにといった感じで、のそのそと残飯を食べた。

 遅くに帰宅した父を、待ち構えたように出迎えた母と娘が裏庭に連れ出した。父は駄目だと即答しようとしたが、無表情に見上げてくる犬の瞳がじわじわと自身の中に滲み込んできて、その断定も徐々に揺らいできた。強い安定剤を飲まされたみたいに決意がゆるんできて、別に飼っても良いのではないかと思い始めてきた。父は選択を委ねるように娘に尋ねた。

「勿論手が空いたらお父さんやお母さんも面倒見るけど、二人とも働いてるから、その間はちゃんと面倒見れる? 約束できるなら、お父さん、飼うのを許すよ」

 娘は強く請け合ったが、大袈裟にアピールしている自らを訝しく思った。犬は裏庭で飼われることになり、週末に父が組み立てた犬小屋に収まった姿は、もう何年もこの家で飼われてきたように馴染んで見えた。戸惑ったのは家族の方だった。

 犬はとにかく犬小屋から動きたがらなかった。真面目に義務を果たそうとした娘が散歩に連れて行っても、母が食事を与えても、数度気がなさそうに尻尾を振るだけで、結局は犬小屋に潜って丸くなるのだった。ちっとも可愛くないやつ、と娘は思った。テレビなどで見た人の飼い犬はもっと愛くるしくて感情表現豊かで、犬はもっと賢くて義理堅い生きものだと思っていた。娘がリビングの窓から犬を窺うと、いつも地面に臥せたままじっと家を凝視していた。犬と目が合うと、娘は全てを見透かされたような落ち着かない気分になった。

 健康そのものだった娘は、わずかな気温の変化で体調を崩しがちになった。発熱も珍しくなくなった。新型ウィルスを心配した母は娘が不調を訴える度に病院に連れて行ったが、診察結果は常にただの風邪だった。かつては注意するまでやかましく家中を駆け回っていた娘は、ちょっと動いただけで疲れたと漏らすようになっていた。ちゃんと寝ているか尋ねた母に、悪口を言われた時のように娘がまくし立ててきた。

「ちゃんと寝てるもん。怖い夢も見ないし。でも幾ら寝ても寝足りないんだから」

 娘の反駁を聞いた母は、自分と同じだと暗い気持ちで思った。肩凝りや眼精疲労など、生活の中で普通に溜まる疲労が日々重くなってきているいやな実感があり、える前にどんどん蓄積するのだった。全身が気怠く、何をするにも力を絞らなければならなかった。

 毎晩遅く帰宅する父が家族で最も元気なのは皮肉だと、母は父を見る度に思った。ある晩に食卓に就いた父は、座った母と娘を見て心配そうに声をかけた。

「一体どうしたの、二人とも? 顔色も悪いし、食欲もないし。病院で見て貰ったら?」

「もう行ってるのよ。何度も。でもいっつも異常なしって。疲れてるだけだって」

 処置なしという顔で母は答えた。いつも遅くに帰宅する父は、家にあまりいないから影響が少ないのだと母は思った。

 一体何が自分たちを消耗させるのかと考えながら、午後に裏庭に出た母は、空のボウルに水を継ぎ足した。顎を地面に付けて目だけで自分を見上げてくる犬を見下ろして、こいつだと直感した。じっとうずくまった犬の体内にみなぎる、はち切れんばかりに溜まったエネルギーの脈動が感じられるかのようだった。まるで冬眠前の熊だった。

 母は犬を追い出そうと首輪に嵌めたリードを両手で引っ張ったが、引っ張られた首輪で捩れた顎の肉を二重にしながら犬は抵抗した。犬は重かった。身体の質量を超えた岩塊のような重さで、力を込め過ぎた両手が震えてくるのを母は感じた。犬に凝視される度に、空気が漏れたように力が抜けていった。畜生、と呟いた母はリードを手放してしまった。眩暈めまいの時のように視界が揺れて、少しでも膝の力を緩めると地面に倒れそうだった。這うように家に上がった母は、そのままベッドに臥せってしまった。

 下校してきた娘が、二階の寝室のベッドに浅い息をいて横たわった母を見て涙を零した。母は血の気が引いた真っ白な顔で微笑むと、屈んだ娘の頬に手を添えた。その手の冷たさに娘はぎょっとした。母が掠れ声で囁いた。

「大丈夫。ちょっと疲れただけだから。寝ればまた体調戻るから、ね?」

 娘の目にはそうは見えなかった。母は息をするのもやっとに見えた。放っておいたらこのまま透き通るように手の届かないところに行ってしまうと思って恐慌を来した娘は、救急車を呼ぼうと寝室を飛び出した。階段を駆け下りかけた足が、つんのめるように止まった。見下ろした階段から、犬がのそのそと四つ足で昇ってきた。ひっと息を呑んだ娘は後退あとずさろうとしたが、犬の瞳に見据えられた瞬間、立っていられなくなるほど激しい疲労を感じて足がもつれてきた。娘は唇の端から糸のような涎を引きながら懇願した。

「いや、来ないで。あっち行って。行ってよお」

 膝から崩れ落ちた娘は床に尻餅を付き、後ろ手を付いて後退ろうとした。悠々と近付いた犬が娘の前に立ちはだかると、絶望に目を見開いた娘の頬を、不自然なまでに健康そうなピンク色をした細長い舌で数回舐めた。犬に舐められる度にごっそりと力をすくい取られるのを感じながら、犬に舐められたのはこれが初めてだと、娘はぼんやりと思った。

 いつものように父が遅くに帰宅すると、家は真っ暗だった。不審に思った父は家の電気を付けながら二人の名前を呼んだが、返事は全くなかった。二人の名を呼びながら階段を上がっていった父の足が止まった。二階の廊下で横向きに倒れた娘の姿が見えた。父の口から女のような悲鳴が漏れた。父は娘に飛び付いて首を抱えたが、その首の冷たさに絶叫した。間欠泉のように涙が溢れ、むせび過ぎて窒息しかけた。

 突如不吉な胸騒ぎを覚えて父は、弾かれたように夫妻の寝室のドアを開けた。室内は真っ暗だったが、窓から差す外光に淡く照らされた、目を剥いて仰臥した妻を見て両手で髪を掻き毟った。自分でも気付かぬうちに歯を食い縛って、口の端から呻き声を漏らしていたが、視界の端の半開きの扉からのそのそと入ってくる犬を見て呆然とした。あまりのことに頭が飽和して、家に上がり込んだ犬を上手く認識できずにいると、犬の漆黒の瞳がじわじわと奥深くに侵蝕してくるのを感じた。息苦しくなったと思うと、窒息した時のように視界が真っ黒く狭窄きょうさくした父は、糸の切れた人形のように床に大の字に倒れた。急激に力が吸引される感覚があり、錯乱した頭の中を、もう死ぬ! という絶叫が駆け巡った。

 上手く息が吸えず、不規則に上下動する薄い胸板の上に、犬が乗っかってきた。天井が映った視界の下方から、徐々に犬の顔が競り上がってきた。止めろ、俺を見るなと父は思ったが、空洞のような犬の瞳が父の意識を最後まで貪欲に吸い尽くした。

 唇を半開きにして事切れた父の頬を、最後の絞りかすまで舐め取ろうとするかのように犬が未練たらしく舐めた。数度舐めて諦めた素振りの犬は、そのまま父の傍らでじっと丸くなった。闇の中で一対の瞳だけが鈍い光を放ち続けた。

 窓から早朝の陽光が斜めに差し込んだ頃、犬は立ち上がって階段を降りていった。後肢で立って難なく玄関扉を開けた犬が路上に出ると、通りの奥から男児を連れた母親がこちらに向かって歩いてくるところだった。犬は親子連れに近付いていった。

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鬼聞抄 江川太洋 @WorrdBeans

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