窓は夜ひらく

 数年前のことだが、当時の私は一回り年齢が下の就活を控えた女子大生と付き合っていた。デスメタル鑑賞が趣味の私は、渋谷のバーを貸し切って開催されたメタルDJイベントでその彼女と知り合った。

 聞くと彼女は東北の出身で、当時の私が住んでいた場所と一駅違いの学生寮に住んでいた。晴れて彼女と付き合い始めると、私は彼女の家に入り浸り、通勤もそこからするようになった。

 その学生寮は境川さかいがわの防波堤を見下ろす位置にあり、最寄り駅から向かうには、川沿いの遊歩道を道なりに進むのが一番近かった。

 その川沿いの遊歩道は高架下の下を潜ったり、川の反対側が金網に囲われた駐輪場になっていたりして、昼でも日当たりが悪く、何かと視界をさえぎるものが隣接していた。街灯もあるにはあったが、夜は通り全体が薄暗くて人気も少なかった。彼女に毎晩あの川沿いの遊歩道で帰宅して怖くないのか尋ねると、怖いからわざわざ歩道橋を上って、国道をまたぐ遠回りの道を通っていると彼女は言った。それは私も納得できた。あの狭い通りは物陰だらけで見通しも悪く、いい齢した大人の私でも好んで通りたくないと思わせる、籠った陰気な感じがあった。

 旧国道の高架下の、白くて太い四角錐の柱列が遊歩道にはみ出て、その下のスペースが市営の駐輪場になった物陰だらけの一角を進むと、三メートルほどもある緑色の金網が道沿いにそびえ、その金網に盗難防止のポスターがしつこいくらいに等間隔に貼られていた。そのポスターがまた妙に心に残るいやなもので、一面に記された巨大な目の絵の下に、「見ているぞ」と大書された赤い太文字が目に飛び込んできた。

 金網に沿って歩く間、絶えずその目に睨まれているような重圧に晒され、やっとそこを抜けたかと思うと、今度は並んだ一軒家の植木に覆われて鬱蒼うっそうとした、これまた薄暗い通りがしばらく続いた。

 仮にも民家が続いているのに、いつ通ってもそこは生活音に乏しく静かだった。街灯の白色光も植木に遮られがちで、たいていの家の窓が雨戸かカーテンで閉ざされていたので、そこは一帯で最も薄暗かった。

 それでもまだ夏は、涼しい川沿いの空気が吹き抜ける風通しの良さがあったが、冬になると一帯の侘しさがつくづく肌身に滲みた。通りに北風が吹くと、側溝に溜まり放題になった落ち葉が路面に吹き流されてかさこそと侘しい音を立て、木々が風で揺れる度に路面の上で影が不穏に踊り回った。

 年末になり、得意先の忘年会に参加して終電ぎりぎりで駅を降りた私は、星の見える冬特有の寒空の下、薄暗い遊歩道をいつものように歩いていた。

 民家の並ぶ一際暗い通りを通っていると、ふと一軒の家が目に付いた。その家は民家の並びの中程にある、何の変哲もない二階建ての一軒家で、強いて言えば急角度の赤い切妻屋根が若干特徴的な程度だった。

 私が何気なくその家を見上げたのは、通り過ぎる間際に何かが視界の隅をちらと掠めた気がしたからで、見上げた途端に私は口から心臓が飛び出るかと思った。カーテンに遮られてもいない剥き出しの二階の暗い窓越しに、首を吊った人のシルエットが浮かんでいるのが見えたからだ。

 仰天した私がもう一度目を凝らすと、それが何だったのかがはっきり分かって、思わず肩を落として吐息を漏らした。私は誰に見られたわけでもないのに、へへへと照れ隠しの笑い声を上げてからその家を後にした。その窓に映っていたのは、窓枠のレールにかけたらしきハンガーに吊るされた、裾の長い長袖のワンピースだった。それを私は人のシルエットと見間違えたのだった。

 私は寮に着いて彼女と過ごすうちにそんなことは念頭から消えてしまったが、その翌日も遅い時間に帰宅しながら、その家の二階の暗い窓を見上げると、まだそのワンピースは窓にかかったままになっていた。住人がたまたま所用で家を空けているのか単にズボラなのか、私には判断が付かなかったが、所詮はその程度の些細なことだった。

 それ以上のことは特に何も思わず、仕事納めもそろそろ見えてきた師走の夜、私たちはセックスをして互いにシャワーを浴びると、酒とスナック菓子を摘みながら他愛のない世間話に興じた。

 その話の流れで、私がこんな冬時にワンピースの洗濯物を干しっ放しにしている粗忽そこつな家の話をすると、彼女は聞きとがめたように眉根を寄せて、それはどの家かと尋ねてきた。どの家と言われても殆ど特徴がないので答えが難しかったが、私が赤い切妻屋根のことを伝えると、彼女は合点が行ったという顔で、ああ、と言って口をつぐんでしまった。

 その会話の収束がいかにも不自然だったので、何か知ってるなら教えてと私が催促すると、彼女は二度目の催促で肩を竦めて私に答えた。

「あの家ね、昔は全国ニュースにも映ったんだよ」

「何で?」

 驚いた私が尋ねると、彼女は淡々と答えた。

「去年の今頃かなあ? あそこで一家心中があって全員ロープで絞め殺して、あれ? 最後はお父さんが首吊ったんだったっけ? とにかくけっこうニュースになったんだよね」

 私が知らなかったと言うと、彼女は当然のように言った。

「そりゃ、毎日こんだけ狂ったニュースだらけなんだから、近場のことかよっぽどの事件でもなきゃ、私だって全国ニュースなんていちいち気にしてらんないよ」

 狐に包まれたような気分に陥った私は、未整理な考えを彼女に向かってそのまま口にした。

「えっ? ていうと、その家、思いっきり瑕疵かし物件ってことになるよね?」

 彼女が缶ビールに口を付けながら頷いた。

「ええっ? てことは普通、そんな家、空き家になってなくない?」

 私がしどろもどろに尋ねると、彼女は芝居がかった仕草で首を竦めた。彼女は怜悧な容姿のせいか、そんな大仰な仕草がよく似合った。

「だから、それ聞いて変だなって思ったの。あそこは今も無人のはずだから、そんな窓際にワンピースかかったままになってるはずないんだよね、って」

「やばッ、寒気が」

 私が尿意を堪えた人みたいに身体を震わせると、彼女がビールを噴き出して爆笑した。

 私はただのワンピースを首吊り死体と錯視したとばかり思っていたが、そのワンピースだという認知の方が錯視だったとしたら、本当は一体何だったのかと考えるうちに怖くなってきて、その考えを頭から払いたい一心でもう一度彼女とセックスしてしまった。

 私はその夜から遊歩道を通らなくなって、翌年にはその彼女とも別れたので、結局それが何だったのかは未だに分かっていない。

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