指される

 寒い夜だった。家路に就く彼はマフラーを顎まで引き上げながら、閉店後のドラッグストアの脇を通り抜けようとしていた。真っ暗な広い駐車場の道路側に、トタン屋根で覆われた駐輪場があった。そこに人影が佇んでいた。

 遠目にその人影が見えた瞬間、彼は厭な予感がした。それは女のようだった。敷地に立入禁止のチェーンが張られているにも関わらず、こんな寒い夜に敷地の中の屋根に佇んでいるのは明らかに異様だった。彼は踵を返そうかと思ったが、結局そのまま速足で通り過ぎることにした。

 目の隅で女を窺い見ながら通り過ぎようとして、その女が薄いネグリジェをまとったきりなのに気付いて驚いた。思わず女を直視した彼はぞっとした。にたにたと女が笑っていたからだ。垂れた長髪の隙間から、尋常ではない眼差しがぎろぎろと覗いていた。女は口角を三日月のように吊り上げ、垂れた右手をゆっくり持ち上げると人差し指で彼を指差した。彼は走って逃げ出した。

 真っ青になって帰宅してきた彼に、妻が心配そうに尋ねた。

「どうしたの、そんな幽霊に遭ったみたいな顔して?」

 その一言が予想外に胸に刺さって、彼は返答に詰まってしまった。彼があの女から感じたのは、人の不幸を乞い願うようなよこしまさや禍々しさで、生きた人間の感じがまるでしなかった。幽霊に指を差されるとは、不吉極まりなかった。きっとこの先、自分の身に何か良くないことが起きると彼は思った。

 彼が最も恐れたのは、再びあの女に遭遇することだった。いきなり死角からあの笑顔がにゅっと突き出て指を差される瞬間を想像しただけで、生きた心地がしなかった。その強迫観念から彼は何をしても上の空になり、いきなり背後を振り返ったり、しきりに周囲を見回すようになった。

 家の中でも周囲を見回してばかりの彼に、しばらく口をつぐんでいた妻の許容を超えたらしかった。夕食中にも、蚊を探しているみたいに視線を宙に漂わせる彼に妻が声を荒げた。

「それ、落ち着かないから止めて。何をそんなに、毎日きょろきょろ探してるの?」

 説明できなかった彼は妻に詫びたが、説明を求めていた妻はさらに不機嫌になった。妻に指摘される度に、周囲を探ってはいけないと彼は必死に自制したが、不安からつい周囲に目を泳がせるのだった。彼がその悪癖を続けるうちに、その不安が徐々に妻にも伝播してきたようだった。彼があてどなく目を彷徨さまよわせていると、妻も釣られたように彼と同じ空間に目を凝らしていることが増えてきた。

 彼の挙動は、職場にも不安を与えた。業務中にも周囲を見回す彼を、同僚たちが不審そうに伺い見るようになった。彼が見ている時は同僚たちも普段通りに装ったが、彼が目をらせると自分に眼差しが集中するのをひしひしと感じた。あの夜差された女の指先から、邪な念が彼に向かって真っ直ぐ照射されてきた時のように、視線にこもった不審の念がちりちりと肌を刺してきた。

 二月のある午後、彼は後輩の若い男と個室で業務上の確認事項を行っていた。明らかに後輩は彼の話を聞いていなかった。瞬きを忘れたように目を見開き、ずっと彼を凝視していた。意識を向けようとした彼が後輩の肩に軽く触れると、後輩はいきなり悲鳴を上げて弾かれたように上体を逸らせた。

「なに、どうしたの? 大丈夫?」

 と彼が思わず身を乗り出すと、彼の目の前で後輩の顔がどろっと溶けたよう泣き顔になった。大の大人が、こんな子供みたいな満面の泣き顔を浮かべていることに彼は驚いた。正気付かせようと彼が肩を摑むと、悲鳴と共に椅子から飛び上がった後輩は、部屋の隅に丸くなって膝の間に顔を埋めた。彼は声をかけながらそっと後輩の肩を揺すってみたが、後輩は頑なに膝に顔を押し付けながら小声で何度も、ごめんなさい、ごめんなさいと呟き続けた。部屋の隅にうずくまって一心に侘びる後輩を、騒ぎを聞き付けて個室のドアを開けた同僚と彼は無言で見下ろした。彼に注がれた同僚の顔は引きっていたが、自分の表情も似たようなものだろうと彼は思った。

 その後輩は課長から、心療内科に通うように指示されて早退した。この事件で自分を盗み見る周囲の目に怯えの色が籠り始め、彼は針のむしろに座っている気分になった。

 心が擦り減って帰宅した彼を待っていたのは、家中をあてどなく歩き回っている、見るからに挙動の怪しい妻の姿だった。何をしているのかと尋ねた彼に妻が答えた。

「何だかね、最近ようやくちょっと分かってきた気がしてね」

「え、なに?」

「あなたずっと、きょろきょろ何か探してたでしょ? 何かね、それがいるって感じが少しずつ摑めてきたのよ」

 その言葉を聞いた彼は、あの女が家の中を徘徊している光景を想像してしまった。背筋に寒いものが拡がるのを感じながら、彼は掠れ声で妻に尋ねた。

「それは、一体何なの?」

 その質問に妻はもどかしそうな顔をした。

「それがね、今いち分かんないのよ。もうちょっとなのにどうしても思い出せないことみたいに、ちょっとの差で見付けらんなくて。いるのは分かってるのにね」

 その言葉を聞いて以降、彼は家中を探り回る妻の目が、ある日ぴたりと自分に据えられることを極度に恐れるようになった。もしそんなことになったら、その時には究極的に取り返しの付かないことが起きる気がしてならなかった。

 彼は妻には伏せていたが、たまたま会ったコンビニの店員や、すれ違った初老の女などにも極端に恐れられて指を差されていた。度々彼は浴室の鏡に映る、自らの背後の空間を穴が開くほど凝視したが、そこには何も映っていなかった。あの夜、女に指を差されたことで彼自身がけがされたのか、それとも女はあの時自分ではなく自分の背後を指差していたのかも、彼には全く分からなかった。

 大雨でずぶ濡れになって帰宅したその夜、彼は縮こまるように食卓に着いていたが、家は暖房が効いて温かく、テレビからは賑やかなバラエティ番組が流れていた。食卓に並んだのは好物のトンカツで、久し振りに彼は家の中で束の間の安堵を味わった。妻は時折小さな笑い声を上げていた。テレビを見て妻が笑うとは珍しいこともあるものだと彼は思ったが、やがてテレビから聴こえる笑い声と妻の笑うタイミングがちぐはぐなことに気付いて、ぬるま湯気分が一挙に醒めた。妻は俯いて、思い出し笑いのように一人でくすくす笑っているのだった。その神経症的な妻の挙動に、彼は胃が捩れるのを感じた。妻は小声で何かを囁いていた。彼は耳をそばだてた。妻はしきりにこんなことを言っていた。

「何だ簡単じゃない。思ったよりずっと簡単だったわ、うん」

 彼は決してその答えを知りたくなかったが、それでも訊かずにはいられなかった。

「何がそんな簡単なの?」

 一人でしきりに納得していた妻は、そこで初めて対面から彼を直視した。その目が笑っているのを見た彼は、腰を浮かしたくなるような強い不安に襲われた。妻は愉快そうに答えた。

「ねえ、何てことなかったじゃない。こんな簡単だったなんて。ほらそこ! ずーっとそこにいたじゃない!」

 叫んだ妻にいきなり指を差されて、彼は椅子に座ったまま飛び跳ねた。止めようもなく全てが崩壊していく感覚を味わいながら、彼は妻が口を全開にしてけたたましい笑い声を上げるのを聞いた。歯を剥き出した妻の形相は吠える猿みたいだった。妻は目を見開いて彼を指差しながら、足をばたばたさせて絶叫のような笑い声を上げた。落ち着かせようと彼が妻の両肩を抑え付けると、妻は彼を弾き飛ばす勢いで身体をよじりながら笑い転げた。完全に見開かれたその眼球は、彼を見据えながらその遥か彼方に注がれているようだった。

 暴れて椅子から転げた妻は、床の上を激しくのたうち回りながら笑い転げた。彼が止めようとするほど身を捩って、その笑いはますます高まっていった。

「止めろ!」

 彼は怒鳴ったが、妻は床に後頭部を何度も打ち付けながら笑い続けた。妻は笑い過ぎて激しく痙攣けいれんし始めた。彼は泣き顔で頭を抱えたが、その時ぬめるような不快な感触がしたかと思うと、ごっそりと抜け落ちた頭髪の束が床一面に散った。


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