赤い壁

 あれだよ、と友人が示した上空へ視線を辿った私が見たのは、窓のようにビルの最上階の壁に嵌め込まれたドアだった。そのドアの先には階段も通路もなかった。壁に貼り付いたクリーム色のドアの表面が、付近で赤く明滅するネオンの光をちかちかと照り返していた。

 そのドアは繁華街の裏路地に蝟集する、飲食店が入った雑居ビルの一つにあった。隣にも似たような雑居ビルが、殆ど密着するように建ち並んでいた。このような奇異なドアをネット画像で見たことはあっても、実際に目の当たりにするのは初めてだった。

「何、あのドア?」

 私の質問に友人は被りを振りながら言った。

「さあ。でも怖いことにあのドア、何年か前までは自由に開け閉めできたんだよ」

「えっ、あんなドア開けて、地面に落ちたら一体どうすんのよ?」

 という私の質問に、友人は頷きながら答えた。

「そう。それでほんとにドアを開けて落下した人が出ちゃったから、あのドアは施錠されるようになったの。まあ遅過ぎたんだけど」

 友人によると、そのドアは最上階の女子トイレのドアらしかった。何年か前の冬の夜、最上階に入った居酒屋で飲んで酔った女性が、女子トイレの奥のそのドアを開けて、そのまま地面に落下した事件が起きた。友人の説明を聞きながらドアから女性の落下した地面へと視線を下ろしていった私は、思わず顔をしかめてしまった。

 ドアのある最上階付だと、まだ人が通れそうな隙間があったが、隣のビルの下層部が一回り膨らんでいるせいで、二階辺りからビル間の隙間は人も通れない幅に狭まっていた。ドアから落ちたその女性は、今私が見ている並んだポリバケツの奥のその狭い隙間に足先から落ちて全身が嵌まってしまったそうだ。尚悪いことに、壁の隙間に全身を挟まれて潰された状態で、その女性はしばらく生きていたとのことだった。救急車が駆け付けても、その女性を救助する術は全くなかったらしかった。

「それは、幽霊になってもおかしくないわ」

 私にはそうとしか友人に言えなかった。主にホラー映画の脚本執筆を生業とする私の為に、友人がここを案内してくれたのだが、当の友人はその幽霊を見たことがなかった。なら幽霊の遭遇談は聞けないかと私がこぼすと、誇らしげに友人が私の肩を叩いた。

「いや。最も近くで目撃した人を紹介してあげる」

 と友人が私を誘ったのが、まさにそのビルの一階の、赤提灯の提がった個人経営の居酒屋だった。コの字型のカウンターが並ぶその店内はコロナ禍の影響か他に客の姿はなく、私たちはカウンターに並んで座り、友人がカウンターにいた白エプロンに胡麻塩ごましお頭の店長を紹介してくれた。女性の幽霊を数回目撃したのは、その店長だった。

 店長が初めてその幽霊を目撃したのは五年ほど年も前のことで、閉店後に店の清掃をしていて、裏のポリバケツにゴミを捨てに行った時、奥の隙間に挟まったその女性を見たのだという。

「頭真っ白になっちゃって、怖いって感情すらどっか飛んじゃいましたよ。もう、ただ凄いの一言で。ちゃんと怖くなったのは、震える足でどうにか店に入ってからですよ」

 店長はそう述懐しながら笑った。閉店後にポリバケツの一つにゴミの詰まった袋を押し込んでいた店長は、奥の壁からする微かな呻き声を聴いた。それはセロファン紙に息を吹きかけると表面が振動してカサカサ鳴る時のような、掠れた力のない呻き声だったという。

 声のした方に顔を上げた店長は最初、僅かな隙間の間で赤い壁がうごめいているのかと思った。目に映ったものの詳細が認識できるようになってくると、その壁が横向きの状態であり得ない細さに潰された、赤い人柱だということに気が付いた。その人柱はまだぴくぴくと痙攣けいれんしていた。その横顔は凹凸のない長方形に変化し、その中央で浮いていた、元の形状のまま血に塗れた耳を認識した瞬間、店長は頭が真っ白になったらしかった。店長はその後二日ほど高熱を出して寝込んだが、それは祟りでも何でもなく、単に衝撃が強過ぎて体調を崩しただけだった。

 店長はそれから数度、終業後にその幽霊を目撃したそうだ。見る度にその想像を絶する苦痛を考えては胸が潰れたようになり、何とか楽にしてやりたいけど自分にはどうにもできないと、苦い笑みを零しながら言った。今でも時折現場に花や線香を備えているが、どうも効果はなさそうだと被りを振った。

「その事故自体も、目撃されたのですか?」

 と私が尋ねると、店長は首を横に振った。

「いや、その時は、自分はまだ違う人の店で修行してる段階で、ここにはいなかったですね」

 店長は不幸にも全く知らずにこの物件を買ってしまったらしく、事故の話を耳にしたのも幽霊の目撃後らしかったが、あらかじめ話を知っていたら絶対に契約していなかったと言った。自分は金を溜めていつか新たな場所に店を構えるのが夢だが、それもコロナ禍のせいでますます遠のいてしまった、と無念そうに店長は呟いた。


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