苦しみ

 九月、皆が残暑に喘ぐ中、私は不調続きだった。

 舌先にできた口内炎の滲みる痛みに虫歯の右下の親知らずの疼く痛みが加わって、口内で痛みが反響した。周辺の神経が刺激されたらしく、支障ないはずの右上の奥歯まで痛み出し、もはやどの箇所の痛みかも判別が付かなくなるほど、口に含んだ綿のようにぼわっと口全体に痛みが拡がった。心臓の鼓動のように緩い強弱を伴いながら、痛みは絶えず私を苛んだ。

 歯痛で眠れなかった翌日、私は近所の歯科に行った。診察した若い男の歯科医が、ここではこの治療はできませんと言った。痛みの原因は親知らずの虫歯のせいで抜くしかないが、歯茎を切り裂いて骨を削る処置が必要なので、然るべき設備が整った病院での診察が必要とのことだった。歯科医に書いて貰った紹介状を持参した私は、市の総合病院で抜歯処置を受けた。麻酔が効いて手術自体の痛みは感じなかったが、目にスコープを当てた白髪の医師が、何かの器具で私の親知らずを削り取るごりごりという音と、骨が削られる際の振動が直に伝わってきた。

 問題は術後だった。麻酔が切れると術後の疼痛が始まり、結局別の痛みに塗り替わっただけだった。血もなかなか止まらなかった。私は四日鎮痛剤の世話になった。最初にできた口内炎で口内がちくちく痛んでから、かれこれ三週間以上も様々な痛みが口内で踊り続けた。

 ようやく歯痛が収まった頃、私は市の教育施設で二度目のワクチン接種を受けた。一度目の摂取時は、重めの筋肉痛のような肩の痛みしか副作用は出なかったが、二度目の時は夜から発熱した。私は頑健なので、記憶している限りでは中学以来の発熱だった。気怠さと悪寒を感じながら、発熱とはこれほどしんどいものかと私は思っていた。

 汗まみれで布団に臥せりながら私が思うことは、一刻も早くこの不快な状態が過ぎ去って欲しい、ということだけだった。歯痛も発熱もいずれ治まると分かっていたから耐えられるが、もしこれが永久に続いたら本当にたまらない、と私は考えた。一日中臥せっていると、本当にろくな考えが浮かばない。この苦痛の極致が死の間際の苦痛なのだろう、というように私の考えは飛躍した。それがどんなものかを思い描こうとしたが、私には想像すらできなかった。それは想像を絶するものなのだろうが、その先には死がある。死ねばそれ以上の苦しみはない。だから永遠の苦痛は存在しない、などと臥せった私が考えていたのは、それほど歯痛や発熱が辛くうとましかったからだ。

 ほんと気を付けなよー、と復調した私にからかい半分に言った彼女が数日後、近所で車に撥ねられた。社内で残業中にかかってきた彼女からの電話でその顛末てんまつを聞かされた瞬間、私は頭から血の気が引いて座ったまま立ち眩みに似た状態になった。

「何なの、大丈夫なの?」

 思わず口から上ずった声が飛び出し、周辺の同僚たちが一斉に私に目を向けた。

「命に別状ないよ。足折れただけだから。でも痛い。ほんと、すっごく痛いんだから!」

 何かできることはないかと私は尋ねた。

「悪いけど、着替えとか色々取ってきてくんない? うち、実家遠いから。細かいリストは後でラインしとくから。合鍵あるでしょ? それで入っちゃって」

 すぐ行くと答えて通話を終えた私は、通話中の私の様子にただならぬものを感じて既に身構えた顔をしていた上司に事情を説明し、即座に退社許可を得た。

 彼女は新小岩の住宅街の、五階建ての鉄筋マンションの四階の一室に住んでいた。いつも彼女が私の家に来るので、私が彼女の部屋に入るのはいつぶりか思い出せないほど久し振りだった。真っ暗な中やっと探り当てた電気のスイッチを付けてぱっと照らされた室内を見て、ああ、こんな感じの部屋だったなと私は思い出した。入ってすぐリビングがあり、その奥が寝室になったそれなりに広い部屋で、よく整頓されていた。寝室の壁に備え付けになったクローゼットの底に、大きめのボストンバッグがあった。私はそれをベッドに置くと、リストに記された日用品を次々と詰め込んでいった。

 がさごそと音を立てながら物を詰め込む作業に没頭していた私は、ふと物音以外の微かな音を耳にして手を止めた。中腰のまま耳をそばだてると、それは音ではなく声なのが分かった。誰かいるのかと驚いた私は背後を振り被ったが、視野には整頓された無人の室内が拡がるばかりだった。気のせいかと思い返したが、依然声は聴こえていた。

 それはか細い、女の呻き声だった。何故か聴いただけで、それが瀕死の人間が発する呻き声なのが瞬時に分かった。その声には、呻く以外にない苦しみがべったりとこもっていた。声はベッドの反対側の壁際から聴こえてきた。呆けたようにしばらく呻き声に耳を傾けていた私は、ふいに我に返ってぞっとした。

 私は焦って物を押し込むと彼女の家から飛び出て、彼女が搬送された緊急病院に向かった。未だ動揺が鎮まらなかった私を出迎えたのは、白いギブスに包まれた右足を吊った状態でベッドに仰臥した彼女だった。

「わあ、何て格好なの?」

 思わず呟いた私の言葉に、彼女が笑い声を上げた。家の傍の狭い交差点を横切ろうとした瞬間、どんと体当たりされたような衝撃を感じたと思ったら、宙を舞っていたそうだ。運転していたのは彼女と同年代の女性で、慌てて救急車を呼んだのもその女性だった。その女性は運転中にスマホを見ていたそうで、地面に転がった彼女にその女性は泣きながら何度も詫びてきたそうだ。

 状況をまくし立てる彼女は風呂上がりのように湿っぽく上気していたが、それは足が痛過ぎて脂汗をいたからだそうだ。今は麻酔で痛みが引いたけど、と彼女は言った。

「痛過ぎると、ほんとに全身から汗が出るんだって、今回初めて知ったわ。痛過ぎて悲鳴しか出ない。何も喋れない」

 という彼女の心からの訴えを聴いて、先程彼女の家で聴いた呻き声を思い返した私は、胸がどんよりと重くなった。どう切り出そうか悩みながら私が遠回しに声のことを尋ねると、彼女はあっさり答えた。

「ああ、それ聴いたんだ?」

「えっ? ってことは、もう前から聴いてたってこと?」

「うん。引っ越してすぐだから、かれこれ三年くらいかな。毎晩じゃないけど」

 その答えに私は唖然あぜんとした。あれほど苦しそうな呻き声を聴きながら、何故平然と住んでいられるのかと私が尋ねると、最初は嫌だったけど引っ越すほどかと思っているうちに、普通に慣れちゃったと彼女は答えた。信じられない、と言い合ううちに、私の衛生概念のなさの方がよっぽど信じられない、と彼女が私の整頓の不備を事細かに指摘し出して、急に気まずい空気になった。

「ところで、あれは何の声なの? 何か由来とか聞いた?」

 話題を変えようと私が尋ねると、はっきり分からないと彼女は被りを振った。ただ、声を聴き出した当初、屋上階に住む管理人に尋ねたことがあり、初老の管理人が直近の入居者のことを聞かせてくれた。それは八十近い独居女性で、長いこと癌を患って入退院を繰り返していたそうだ。最後は夜に自身で救急車を呼んで搬送されたきり、戻ってこなかったそうだ。あの呻きに籠った苦しみを思い浮かべながら、私は彼女に尋ねた。

「それって、そのおばあさんの声だって思う?」

 私の問いに彼女は頷いた。私の答えも同じだった。

 病院からの帰り道で、私は暗い物思いに沈んでいった。あの声に籠った苦しみが、長年癌で苦しんだ人の発したものだとするなら、それは納得できた。あまりにも苦しいと、人はその苦しみそのものになってしまうのだと考えた私は、自らの考えに怖くなった。死後もなお、最後に住んだ家の一室で苦しみを味わい続ける女性。死ですら解放されない苦しみがあると思った私は、つい先日まで味わわされた歯痛と発熱をまざまざと思い返して胸が重くなった。

 最終的にどのような死を迎えるかは分からないが、できるだけ苦痛の少ないものであることを私は心から願った。

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