創世記

 成人して家を出た一人息子の子供部屋が空いていたので、夫妻はその部屋の西側の壁を使うことに決めた。その壁だけはさえぎる家具がなく、壁一面を丸々使えたからだ。

 夫妻はメジャーで壁の寸法を測ると、画材も扱う大きな文具屋へ行き、同じ寸法の大きな模造紙を注文した。注文を受けた若い女性店員が、何に紙を使うのか尋ねると、「アートに使おうと思って」と妻が答えたが、それを使う当人である夫は無言だった。

 背丈より高い筒に丸めて貰ったその紙を大事に抱えて帰宅した夫妻は、いそいそと子供部屋の壁に貼り付けた。夫は壁一面に貼った紙の中央に主人公と記し、その脇に性別、氏名、年齢、職業、性格などを思い付くままに書き殴っていった。主人公の文字をぐるぐると丸い線で囲むと、その丸から右斜め上に矢印を引いて母親と記した。父親、長男、祖父、親戚、上司などが次々と書き加えられ、主人公を中心とした相関図が徐々に形成されていった。

 妻は部屋の片隅の椅子に座って紅茶をすすりながら、仁王立ちで壁に何かを書き付ける夫の背中を日々飽きずに眺めて過ごした。夫はたまに自分から妻に話しかけたり、自身が記した覚え書きの意見を求めたりした。意見を求められた妻の答えは決まって、「それでいいんじゃない?」だった。

 相関図がある程度出来上がると、夫は余った壁に逸話や出来事を記し始めた。相関図は容易に全体を俯瞰ふかんできたが、次々と積み重なっていく逸話や出来事の羅列は、流れを追うにも時系列を何度も辿り直すような複雑さを帯びてきた。主要な出来事が、厖大な過去の逸話と紐付けされていった。断片の寄せ集めだったそれらが次第にまとまって、幾つかの支流を形成し、それがさらに細かく枝分かれして、体内を巡る血管のように紙の上に網目状に拡がっていった。

 最初は夫の思考の軌跡を容易に辿っていけた妻も、その辺りから軌跡を辿り辛くなり、「長男の昔の恋人のエピソードは、そこから何処に飛ぶの?」などと質問することもあった。その度に夫は妻の予想もしない妙な箇所を示し、時にはそれが飛び石のように幾つかの地点に分派することもあった。するとそこにまた、別の支流からの逸話が流れ込んできたりした。

 主人公の母親一人を取っても、紙の上に無数の痕跡を残していた。主な記述は紙の右上に集中しているが、無数に散った他の人物たちにも母の及ぼした影響や関わった出来事が記され、母の影響を受けた人物たちが各々おのおの自在に紙の上を踊り回った。人物たちが合流して何か出来事が起こる度に、紙の上の地図は都度歴史を塗り重ねて、新たな地層や起伏を表してくるのだった。

 夫の読み辛い金釘流の文字と、言葉を覆う雑な丸や線のよれた矢印で埋め尽くされたその地図は、文具屋の店員にかつて妻が答えたように、確かにある一つのアートだった。

 そこには、一人の人間がある世界を独力で立ち上げる際に費やした時間と労力、力の流れと方向性、拡散と集中、ある固有の色調のパターンなどが、文字でできた俯瞰図として一枚の紙に凝縮されていた。物語上の時間軸である十七年に及ぶ、ある階層の出来事の連なりが何層にも渡って塗り重ねられ、時間を可視化するとはこういう感覚なのかもと、片隅で紅茶を飲みながら漫然と見ているだけの妻にも、ふと何かの感触が過ったように思われたこともあった。

 夫の頭にこんな世界が詰まっていることが、妻には不思議で仕方がなかった。日がな押し黙って、気の利いたことなど一つも言わず、三十年近く暮らしても普段何を考えているのかすら分からない夫の中に、これほど精緻せいちで激しい世界像が息付いていることに思いを馳せる度に、妻は訳もなく何かの感情が去来するのを感じた。それは夫個人に対して積もった様々な感情のもつれであり、それ以上に世界が立ち上がってくる瞬間に直に対峙したと思えるような、一言では形容のし難い峻厳しゅんげんさを帯びた感情だった。

 それから二年ほどすると、二千枚ほどの小説として完成した贈呈用の製本が出版した会社から送られてきた。その本を読んだ妻は、完成した小説よりも、時間を一望する感覚を喚起させるあの紙の地図の方が、よほどアートとして優れているのではないかと思い、小説が完成すると紙を捨てようとした夫を止めて、丁寧に畳んで保管した自分の判断は決して間違っていなかったと思うのだった。

 夫が日々紙に構想を記していたある日、夫が外出した隙に、妻は悪戯心で紙の隅に適当な人名を書き加えてみた。後に帰宅してそれを見付けた夫が、「あれえっ」と素っ頓狂な声を上げても何も咎めず、黙ってその人物を作中に活かしてくれたことを思い返すと、妻は思わず頬が緩んでくるのだった。

 その人物は二十代前半の、主人公がたまに社の同僚と飲みに行く居酒屋の女性店員で、男やもめの同僚の一人をからかっては、歯並び良い歯を見せて笑う快活な娘として描かれ、後に妻の友人の息子と結婚するのだった。



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