坂道

 あくまで愛美まなみ玲奈れいなの付き添いだった。ビブレの三階の奥まった一角に、その占いの出店はあった。机を挟んで玲奈と正対した女性の占い師は、愛美の母親ほども年が離れていた。口のすぼまった貧相な顔なのに、吸い込まれるような不思議な深みをたたえた黒い瞳に愛美は気圧されるのを感じた。

 恋占いを頼んだ玲奈に丁寧な助言を終えた占い師は、ふと傍らに座る愛美を一瞥した。すぐにらされたその視線に、顔色を窺うニュアンスを感じた愛美は居心地の悪さを覚えた。占い師はしばし逡巡する素振りを見せたが、唇を湿らせてゆっくり口を開いた。

「あの、突然何だけど、気を付けて欲しいからやっぱ言っとくね」

 占い師にこう言われて嫌に思わない方がおかしい。愛美は思わず身構えたが、それ以上に玲奈が目を見開いて二人を交互に見回した。

「あなた、きっと有名になる。そのうち」

「えっ、どうしてです?」

 愛美が尋ねると、占い師は首を横に振った。

「ごめんなさい、そこまでは。でも、多分いいことじゃないから、それだけは言わなきゃって思って」

 泡を食った愛美は何をどうすればいいのか尋ねたが、占い師は悔しそうに唇を噛んだ。その表情があまりに真に迫っていて、愛美の胸が不穏にざわめいた。

「ほんとごめんなさい。心からそれが言えればって思うけど、やっぱり確実じゃないことは言えないから。とにかく気を付けて。よく注意して、周りを確認してね。そうとしか言えなくて申し訳ないけど、それがあなたを救うかも知れないから」

 愛美は夜道を横切る猫のように、何に対しても過剰に警戒するようになった。一週間もすると、当日はくどいほどに愛美を励ました玲奈も、愛美の警戒ぶりを笑い始めた。こんな忠告を受けたのは誰のせいだと、愛美は玲奈に怒鳴りたくなった。特に塾の行き帰りで夜道を一人で歩く時には、その憤りが再燃した。

 愛美が必ず通らなければならない馬転坂まころげざかは一直線の急勾配な坂道で、坂を上り切った交差点の視界が悪かったが、それが愛美の懸念ではなかった。

 愛美は馬転坂にまつわる怪談を、子供の頃から耳にしてきた。取り損ねて坂を転がったゴムボールが坂の途中で突然消えた話もあれば、誰もいない坂の上からふいにサッカーボールが転がってきた話もあった。坂を上って帰宅途中だったサラリーマンが、坂の上の空中に浮かぶ蜃気楼のようなもやと、その奥でうごめく人らしき姿を目撃した噂もあった。

 それは十一月に入って、急に寒さが増した木曜の夜だった。コートの襟を掻き上げた愛美が足早に坂を上って帰宅していると、坂の上の真っ暗な路面からボール状の物体が、たん、たん、と音を立てながら弾んで転げ落ちてくるのが見えた。

 暗くてよく見えずに愛美がまご付いていると、坂を転がってきたそれが、愛美の右足の爪先にぶつかって足の甲に乗っかる形で止まった。ずしりとした重さのあるそれをよく見ようと目を細めた愛美は、いきなり口を大きく開けて、ひゅっと息を吸い込んだ。

 長髪を表面にまとわり付かせたそれは、切断面が真っ赤に染まった女の生首だった。

 そしてそれは間違いなく、自分自身の生首だった。

 それに気付いた瞬間、愛美は膝が柔らかくなって自分が徐々に地面に吸い寄せられるのを感じ、次に気付いた時は病院のベッドの上だった。

 看護士の説明で、愛美は丸一晩意識を失っていたことを知った。頬を掌で覆いながらベッドを出て、備え付けの洗面台の鏡に映った自身の姿に愛美は目を剥いた。セミロングの茶髪の大半が、雪を被ったような白い斑に覆われていた。その衝撃が坂で目に焼き付いた光景を頭に蘇らせ、愛美の全身ががくがく震え始めた。

 病院から連絡を受けて飛んできた母親に付き添われた診察室で、愛美は禿頭の医師から数日の安静を言い渡され、向精神薬を処方された。

 一週の休暇の後に、白く染まった髪で登校してきた愛美は、校内の時の人となった。普段は口も利いたことのない生徒が群がっては、通り一遍の励ましの言葉をかけてきた。愛美は唇に微笑を貼り付けて丁重に返礼し続けたが、決して真相を明かすことはなかった。他人とは親密さが違うと思っていたらしき玲奈は、真相を明かされずに心外そうにしていたが、それでも放課後の帰宅中に、嬉しそうに愛美に言った。

「ね、あの占い師の言った通りにちゃんと有名になったし、厭な目にも遭ったけど、まあ良かったじゃん。一応無事終わったんだし」

 愛美は頷いたが、果たして本当にこれで終わったのだろうかと思っていた。不吉な噂の絶えない坂で、転がってきた自分の首を目撃したのはどう考えても不吉だし、まだ何かが起きる予感を完全に拭い去ることはできなかった。

 しかしそんな懸念も三年に進学し、大学入試を控えるうちに徐々に念頭から消え、自宅から電車で女子大に通い続けた四年の間で、遠い過去の幻影として時折記憶を過る程度のことになっていった。

 実家が都心まで電車で一時間圏内の郊外にあった為、愛美は都内の図面設計会社の事務職に就職した後も、実家から通っていた。

 愛美は二十五歳になっていた。そんなことは普段意識しないが、ある晴れた秋の土曜日に映画を見た帰りに、ふと陽光が降り注いだ馬転坂を見上げた時に、ふいに強くそう思った。私は二十五歳になった。まだこの坂道を日々行き来していると。

 坂を登り切った十字路の左角に、荷台から突き出た骨組みや鉄板が山積みになったトラックが停まっていた。左の角の家で何らかの工事が行われていて、数人の工員が二階建ての一軒家の外壁周りに足場を組んでいた。足場を組む際の金属音が坂の下まで響いてきた。

 家を見上げて坂を上りながら、愛美は壁の再塗装かと考えた。半ば組み上がった足場を軽快に行き来する工員の身のこなしを眺めながら、愛美は路肩に泊まったトラックのすぐ後ろまで来た。

 その時、坂と交差する道路の左側から白のカローラが、十字路で一時停止せずに横断しようとした。すると交差路を挟んだ坂の向かいの道から自転車が飛び出してきて、運転していた若い男は全力でブレーキを踏みながらハンドルを大きく右に切った。路面を激しくるタイヤの軋みが愛美の耳に突き刺さり、愛美はトラックのすぐ手前で硬直した。カローラに接触しかけた自転車はその脇を素早く潜り抜けたが、ブレーキもハンドルも間に合わなかったカローラは頭からトラックに突っ込み、金属がひしゃげる轟音を響かせた。ボンネットに衝突したカローラの衝撃で、荷台から飛び出した薄い鉄板がすぐ背後にいた愛美の首を身体からあっさり両断し、頭部を失った愛美の四肢が倒れるよりも先に、放物線を描いて落下した愛美の生首が坂を転げ落ちていった。

 足場から全てを見下ろしていた工員たちが方々で悲鳴を上げたのは、回転しながら坂を転がり落ちる愛美の首が坂の途中でふっとき消えた直後、いきなりワープしたように坂のだいぶ下方に再び現れた瞬間だった。

 坂を転がる愛美の生首は、十七歳の愛美の足にぶつかって一端止まってから、再び元の時間に戻って坂の途中の窪みに引っ掛かって静止し、その見開かれた瞳は虚ろに空を睨んでいた。

 この事件はその日のうちに痛ましい事故として全国に報道されたが、工員たちの目撃した現象は報じられず、近隣では馬転坂が首坂くびざかとか首転坂くびころげざかと称されるようになった。

 十年近くが経って、ようやく占い師の予言は的中した。

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