架空ライトノベル探偵ツャ一口ック・木ームズの事件簿
広咲瞑
第1話 名探偵ツャ一口ック・木ームズの帰還~東山星也『ブラン・ルージュの花嫁』~
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~前回までのあらすじ~
宿敵エルフノ=モリアーティ教授との激闘の末に膝に矢を受け死亡したかと思われていた木ームズであったが、奇跡的に一命を取り留めていた。教授の追撃を避けるため、彼は慣れ親しんだ故郷を捨てて流浪の旅に出る。逃亡の果てに辿り着いた新天地で、彼を慕う助手・トワリンと共に、木ームズは架空ライトノベル探偵事務所長としての新しい生活を始めるのだった――
「ええっ!? 所長って納豆にネギ入れないんですか!?」
「脈絡」
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透き通るような青空の下、人々の熱気で沸き返る
「所長、見てくださいしょちょうっ、架空ラノベがこーんなにっ!」
視界を埋め尽くす圧倒的物量の架空ラノベを前にしたトワリンは、例えるなら待ちに待った誕生日パーティの夜、特別の特別なはからいでケーキのひとりじめを許された子供のようにはしゃいだ声を上げていた。
もちろん、ケーキにはたっぷりとホイップクリームと甘いイチゴが盛られており、傍らではそれを切り分けてあげようと保護者が微笑んでいる――何から何まで比喩の通りであれば。この局面に於ける保護者は今、そこまで優しい顔をしてはいない。
「トワリン、トワリン、わかったからそんなに引っ張らないでくれ。心配しなくても逃げ出しゃしないよ、きみんとこのやんちゃなキャバリア・キング・チャールズ・スパニエルじゃないんだから」
元気のありあまる助手に引っ立てられる保護者であるところの我らが架空ライトノベル探偵木ームズは、いつものように草臥れたインバネスコートに身を包み、近年とみに灰色が目立ち始めた黒髪を鹿撃ち帽に押し込んでいた。今日のようなくそ暑い日にも関わらずそんな恰好をしているものだから、時々、すれ違った人に胡乱な目を向けられていたりする。
ここはアウトグランド王国、ナーヤッパ大陸第一の都市《アラン・ド・ロンドン》。南方のファイアバー海峡を挟んだ隣国ニニ=アルテナス共和国連合や、極東の島国カワスミ皇国と並び立つ架空ラノベ君主制国家である。日付は灼熱の月・第二週・おしゃべりばかりの日、すなわちここ覚醒通りに於いては祭りの真っ最中であった。
何の祭りか?
文フリである。
「いらっしゃいませー、どうぞ読んでってくださいー」
「
「アッアッあのっ至天ノウ先生ですかっ、『待てば海路のヒアリ』全巻持ってますっ、あの私8巻の第4章クライマックスのリアとヨシムラ様の悲恋がもうホントに……む、むりすぎて、むりで……っ」
煉瓦で美しく舗装された道の上、立ち並ぶ机のそれぞれに、A6サイズの文庫本やB6サイズの単行本が積み上がっている。そしてそれを挟んで、思いの丈をぶちまける間に感極まって泣き出すファンと狼狽えながら宥める作者――
初見の観光客やおのぼりさんであれば、二度見も凝視もする場面であっただろうが、ことこの国の、こういったイベントにおいてはけして珍しい光景ではない。
「確かヒアリって、所長もお好きじゃなかったです?」
立ち止まったトワリンが所長に尋ねた。身長差が相当にあるので、首をくいっと斜めに上げて、結構がんばって見上げながらになる。両腕でしがみついたままの袖をゆらゆら揺らすのはトワリンの無意識の癖だったが、揺らされる側も慣れたもので、特に逆らうでもなく流れに身を任せている。
「まあね。8巻第4章はヒアリストの間では激エモで有名だからね。幼い頃サムライアリの軍団《壬生の蟻》に奴隷にされたヒアリの姫騎士リアと昼行燈のサムライアリであるヨシムラが互いの個人的感情に反して敵対せざるを得なくなる局面だ。海上の
『もしも私が、
『もしもおれが、
「『交わしていたのは、牙ではなく――』ですね」
「そう、それ」
木ームズが指を『ぱちん』と鳴らし、トワリンがにっこり笑った。
「架空ラノベの名台詞っていうのは、読んでなくてもぐっと来ちゃいますね」
「そこまでの流れ、コンテキストを踏まえた上なら、もっとぐっと来るはずだよ」
「あんな感じに?」
「そう、そう」
二人はにこにこと作家とファンの温かな交流を見守っていた。
その時である。
「キャ―――――――――――――――――――――――ッ!!!!!!!」
絹を裂くような悲鳴がした。
木ームズは咄嗟にトワリンをかばう位置に出た。声の方向に視線を飛ばす。前方左100メートル、覚醒通りの中央付近、アウトグランド国教会の総本山たるイノール大聖堂の真正面。
俗に言う
そこで――
一人の年若い男性が、胸を刺されて倒れている。
「し、しょちょうっ、この人死んでっ」
「落ち着きたまえ。ちゃんと生きている」
事件現場を遠巻きに囲む人々を掻き分けて、木ームズは被害者のそばにしゃがみこんだ。頭部に派手な出血。脈拍と呼吸を確認する。どちらも弱いが止まってはいない。
貴族御用達のサヴィル・ケイオス謹製の三つ揃えのスーツを着ているところを見ると、被害者は相当に裕福であることが伺えた。仰向けに倒れ込んだ胸の真ん中にはレイピアがまっすぐに突き立っている。十字を成したその形は墓標を思わせるシルエットで、現実的には血と暴力の匂いをこびりつかせた凄惨な光景であるのと裏腹に、木ームズにはそれがどこか清潔な、けがれのない美しさを漂わせているようにさえ思えた。
彼はすぐに自身の奇妙な感想の理由に思い至った。被害者の傷口に本来あって然るべきもの、つまり出血が一滴たりとも見られなかったのだ。スーツの端を少しだけめくると、胸元に分厚い本――聖書か?――が仕込まれており、刃先はその半ばまでを貫通したところで止まっていた。
「胸を刺されたことに驚いて転倒、頭を打って気絶。そんなところか」
「あの、なんだかボク、この人に見覚えがある気がします」
「ふむ?」
木ームズは被害者を聖堂の陰まで運び込んだ後、トワリンに預けていた鞄を受け取ると、手際よく応急処置を施した。氷嚢と包帯で冷却と止血を行って、鞄を枕替わりにして頭を少し高くしておく。あとは医者を待つだけである。
「しかしこの剣、どことなく見覚えがあるな」
木ームズは傷口から抜いたレイピアをしげしげと見つめた。事件現場の保全を考えると突き立ったままにしておくべきだったかもしれないが、何かのはずみで押し込まれてしまう恐れもあったし――何より、目の前の出来事をよりよく知りたいという彼一流の好奇心が、やすやすと良識を打ち負かしていたのだった。
刀身は刃こぼれもなく新品同然で、金のめっきを施した鍔には
わずかに開かれた口元から、言葉が零れ落ちる。
「…………『
「あ、そうです! 所長、ボク思い出しました」
トワリンが声を上げた。
「この男の人、エトワール・ニシダ先生です! 超売れっ子架空ラノベ作家の!」
エトワール・ニシダはゼロ年代の終わりに、文字通り『
「そんなエトワール氏には、デビュー当時からひとつの噂があった」
そう木ームズは語る。
曰く、
――彼はとある作家の変名ではないか?
作家の名は
同作は2007年に4巻が刊行、そしてその後13年を経ても完結されてはいない。
「不人気による打ち切りとかですか」
「そのようなところだったらしい。直接の原因は、4巻の展開だろうな」
架空の王国プロヴァンスを舞台とするファンタジー・ラブロマンスを謳った同作に於いて、物語はふたりの主人公の視点から描かれていく。《白の貴族》の名門シャルドネ家の令嬢ルミエラと、《赤の貴族》の筆頭ソーヴィニヨン家の長兄ソレイル。かつては幼馴染であったふたりは、長じるに従って互いに向ける感情を友情から愛情へと少しずつ変化させていく。だが同時に、二人を取り巻く社会情勢、そして為政に携わる貴族の家系であるが故の政治的立場の相違に否応なく巻き込まれ、引き離されていく。
民衆の味方となり革命を推し進める《白の貴族》と、王党派として既得権益にしがみつく《赤の貴族》――表層的にはそうであったが実態はもう少し複雑だった。《白の貴族》の掲げた『民衆のための政治』という名目は結局のところ、権力闘争の大義名分としてでっち上げられた張りぼての楼閣に過ぎなかったし、《赤の貴族》が流血も厭わず守ろうとする権利の柵で覆われた楽園のうちにも、貧困にあえぐ弱者がいたのだ。
『わたしたち貴族は、弱き民衆のためにこそ身命を投げうつ必要があるわ。それこそが恵まれた立場の代償、果たすべき
己の思想を純然たる正義と信じた若き革命家、《白の貴族》の代表として革命の旗手となるルミエラと。
『外見ばかりがきらびやかな、まやかしの宝石で飾り立てられた思想に、目を塞がれてしまったのか。ルミエラ、きみの振る舞いは所詮走狗に過ぎない――自己保身の砦に隠れて矢面にも立たず、ふんぞり返って空虚な理想ばかりを並べ立てる連中に都合よく使われるだけの。きみのような聡明な
《赤の貴族》の俊英、社会の安定のため心ならずも彼女に敵対する、秩序の守り手たるソレイル。
そして運命の日、幼い日に将来さえも誓い合ったモンブラン大聖堂の前で、ルミエラはソレイルの胸に銀の刃を突き立てる――
「元々この作品はルミエラとソレイルのやきもきするすれ違いが受けていた作品だったんだ。が、4巻に入って急激に政治劇としての色を強めていてね。まあ、よくよく読み込んでいくと、1巻の時点でそのような兆候はあったんだが」
「公式が解釈違いってやつですね」
「その言いざまには別種の含みを感じるが……。まあ、そんなことはどうでもいい。ソレイルの殺害の際にルミエラが用いたのは、シャルドネ家に代々伝わる聖剣だった。形状については4巻の226ページにはっきりとした描写がある。金のめっきを施した鍔に、『白き薔薇』の刻印を施した――」
木ームズは右手のレイピアを見ながら言う。「つまりこれだ」
「それは……見立て殺人、ということでしょうか?」
「間違いないだろう。もっとも、犯行が失敗している以上、見立て殺人未遂、と言うべきかもしれないがね」
洒落たことを言ってやったぞという様子で木ームズはトワリンに目配せをした。あいにくトワリンにはその面白さが伝わらなかったらしく、真剣な表情を崩さないままだ。ゴホンと木ームズは咳払いをして、次の言葉を続けた。
「そしてこの事件が見立て殺人……(チラッ)……である以上、犯人の次の行動も予測できるわけだ。そこでトワリン、きみを優秀な助手と見込んで頼みがある」
「はいっ、何でもお申し付けくださいっ!」
ぴしっ! とトワリンは海兵のような背伸びをして見せる。
そんな優秀な助手に向けて、木ームズは厳かに告げた。
「コスプレ衣装を用立ててくれ」
灼熱の月・第二週・市場へ出かける日。
真夜中の月が中天に達し、地上に白い光を投げかけていた。
静寂のうちに息をひそめたようなイノール大聖堂の礼拝堂。石のように冷えた空っぽの長椅子と長机、ビロードの絨毯、壁一面には高さ10メートルに達する巨大なステンドグラスが張り巡らされ、暗がりに生まれた虹のような淡い輝きを落としていた。
彼女はそこで何かを待っていた。
あるいは、誰かを。
こつり、と背後で鳴り響いた靴音に、はっと彼女は振り返った。どんな熱心なキリト教の信者であっても、こんな時間に礼拝に来るなどあり得ないことだった。
「『――妖精か何かの真似か?』」
その言葉に、彼女はまた目を見張る。
開け放たれた礼拝堂の扉、斜めに差す影の中からひとりの男が歩み出た。漆黒の外套に身を包み、腰には細身の
彼女は、その男を『知って』いた。
「間違っていたかな? 『ブラン・ルージュの花嫁』1巻、第二話、86ページ3行目の台詞のはずだが」
彼女は何も答えない。
「きみが今考えていることに答えよう。すなわち、『なぜここに?』だ」
こつ、こつと高い足音を反響させながら、仮面の男が歩み寄る。
「まあ、想像は付くのではないかな。『ブラン・ルージュの花嫁』4巻のクライマックスに於いて、ソレイルを殺害したルミエラはモンブラン大聖堂に忍び込む。贖罪と懺悔と、後悔と、そのどれにも当てはまらない個人的な感情に見切りをつけるためだ」
「……なぜ」
「その『なぜ』は『
「……その前に、仮装を解いてもらえないかしら。この場面に
初めて彼女が言葉らしい言葉を放つ。騎士は肩をすくめて、仮面を床に投げ捨てた。
かつん――と硬い音が反響する。
現れたのは勿論、木ームズである。
「そんななりで仮面の騎士様を気取ろうなんて、あきれた人ね」
「誰が誰のコスプレをしようと自由では?」
彼女の皮肉を涼しい顔で受け流して、木ームズは言った。
「無駄口はこのくらいにして答え合わせと行こうじゃないか。そろそろページが残り少ないんだ――先日の昼間、
「……ええ、その通りよ」
「犯行の動機は? 痴情の縺れ?」
「馬鹿にしないで」
彼女は声を荒くした。木ームズには理由を推し量れなかったが、本気で腹を立てている様子だった。
「失礼。では、『ブラン・ルージュの花嫁』の続きが出ないことに関係が?」
本命の問いはこちら。
答えはなかった。
それは、事実上の肯定とみなすしかない沈黙だった。
「……捨ててしまったのよ、あの男は」
やがて彼女は語り始める。
「私の心をあんなにも揺さぶった、プロヴァンス王国の物語を。薔薇宮でのきらびやかなダンス・パーティの夜を。ハバナスの森で狩りの腕を競い合ったミラとイルの心の交歓を。二人を引き裂いた汚い貴族の大人たちの思惑を、それに折れることなく己の意志を貫いた彼らの尊さの発現を、それを心待ちにした私たちファンの感情を! 何もかも捨てて、くだらないSFなんかにうつつを抜かして!」
……エトワール・ニシダのtwitterのアカウントは、どんなときでも賑やかだった。
web連載当時からの古株ファンのマウントや、それに反発する新興のファン、どんな人気作品にも必ず発生する底意地の悪いアンチ。日々飛び交うメンションやリプライの数は数百に及び、彼の人気の程を端的に表していた。
彼女のアカウントはそこに一度も混じることはなかった。
ただ淡々と、ひたすらに、エトワール・ニシダの作品に対する感想を書き連ねていた。そのほとんどが作品に対する批判で埋め尽くされていた。本を一冊出すごとに、web連載を一話更新するごとに、少なくとも10以上の連続するツイートをつけて。
思い出したようにポジティブな言葉を綴ることもある。その大半はエトワール・ニシダの作品ではなく、東山星也、『ブラン・ルージュの花嫁』に対するものだった。
4巻の発売から長い時間が経過した頃、彼女はエトワール・ニシダのアカウントにDMを送付した。
――本当は、あなたは、東山星也ではないのか。
「答えはなんと?」
「……
未読であれば希望を持てた。だが、目を通した上で何も回答がないというのは。
それから何度もDMを送った。自分がいかに『ブラン・ルージュの花嫁』に感動し、登場人物の一人一人を隣人や家族のように愛し、描かれるロマンスに瞳を潤ませ、ルミエラとソレイルを待ち受ける理不尽に我が事のように怒りを燃やしたか。
なぜ、いつまで経っても、5巻が刊行されないのか。
万感の想いを込めたそれらの言葉すべてが、既読のマークをつけられたまま、何の回答も得ることなく電子の海に放り出された。
顧みられるべき人に、顧みられることもなく。
「灼熱の月・第二週・おしゃべりばかりの日――『ブラン・ルージュの花嫁』の暦で、ルミエラがソレイルを刺した日。この日に文フリが重なったのは、わたしにとって僥倖だったわ。あの男がエトワール・ニシダとして、サークルを出すということもね」
「それを知ってから、周到に準備を進めていたわけだ。あのレイピアも」
「ええ。よくできていたでしょう?」
彼女は口元だけで笑った。綺麗な笑顔だった。先日の惨劇を知ってさえしなければ。
「成程、きみの主張は理解した」と木ームズは言った。
「だが、エトワール・ニシダが東山星也であるという証拠が何一つない。わかっているのか? その説がただの思い込みだとしたら、きみは無実の人間を刺したことになる」
「思い込みなどではないわ。昨日、エトワール・ニシダに対して、わたしはこう質問した。『ブラン・ルージュの花嫁を知っていますか?』――あの男の顔色、見ものだったわ」
「ふむ」
それもなかなかの綱渡りだと思うが……とは、木ームズは言わない。
「では、エトワール・ニシダ=東山星也説は確定でいいだろう。だが、5巻が出版されなかったのは本当に彼だけの責任なのだろうか? 理由もなく自作を途中で投げ出す架空ラノベ作家などいるわけがない。ましてや、ひとつの作品にあれほどの情熱を注ぎ込める作家であれば」
彼女の虚ろな目が木ームズに向けられる。
「『架空ラノベの杜』のダマスカス出版のページの発売予定には、今でも『ブラン・ルージュの花嫁』5巻の記載がある」
「……その程度のことを、この私が知らないとでも? 一体何年、東山先生の新刊を待ち続けていると思ってるの? あのページは10年以上前からずっと、発売未定のままよ」
うっそりと彼女は言う。
「どんな理由があったにせよ、私は待たされ過ぎた。いつまでも待てるつもりでいたけど、無理だった」
「10年程度で何を弱気なことを言っているんだ。鷹野ガイエ先生の『インシャラー叙事詩』は31年越しに完結したし、大野なつみ先生の『時計盤奇譚』は18年ぶりの新刊が出ている。冬海渇先生の『F.H.クリムゾン』……いやそれは置いておこう。ともかく、作家が生きている限り、希望はあるんだ」
木ームズがそう告げたとき、彼女の目に少しだけ、輝きが戻った気がした。
「生きているの? 東山先生は?」
「ああ」
「……そう」
そして彼女は目を伏せる。
「それだけが心残りだったわ。例えどんな理由があっても、一生を懸けて愛するつもりだった架空ラノベ作家の命を奪ってしまうことが」
「だったら」
「でも――もう戻れない。あのひとを殺そうとした、その事実だけで、私の手はもう血に汚れてしまった。ソレイルを殺したルミエラのように」
その言葉は、木ームズに語り掛けるというよりも、独白に近いように思えた。
「だから、もう終わり――」
彼女が懐に入れた掌を取り出したとき、鈍い光がきらめいた。
取り出したナイフで、一瞬の躊躇いもなく、自分の咽喉を突こうとする。
――次の瞬間、そのナイフは既に木ームズの手にあった。
「え?」
彼女は閉じていた目を開いた。当然あるべき末期の感覚が、なにひとつないことに困惑している様子だった。
一方、木ームズは微動だにしていない。
「そんなに死に急ぐこともないだろう。きみみたいな若い人が。きみの中で何がどうなっているのかは知らないが、わたしの目から見て、命を捨てなければならないほどの罪があるとは思えないよ」
木ームズが視線を後ろにやりながら言った。
「それに、続きなら、今すぐにでも読める」
こつり――とその場に、もう一つの足音が鳴った。
「初めまして、『星巡りの待ち人』さん」
それが彼女のtwitterのアカウント名であることを知っている人間は、世界にひとりしかいないはずだった。
エトワール・ニシダ――
「一度は顔を合わせているけど、あれはノーカウントで構いませんよね?」
その足取りがふらついた。頭に巻いた包帯にはまだ少し血がにじんでいた。彼女はあわてて駆け寄ろうとしたが、それより先に、東山星也の後ろに控えていたトワリンが彼を支えていた。
「ご苦労だったね、トワリン」
「へへへ」
木ームズに褒められたトワリンが嬉しそうに笑った。
ふらつく歩みを支えられながら、東山星也は彼女の目の前に立つ。
「なぜ、いつまで経っても、5巻が刊行されないのか――君が一番知りたいのは、そこでしょうか」
彼女は魂を失ったように言葉と動きを止めている。
「簡単に言うと、大人の事情ってやつです」
と、東山星也は語り出した。
「君なら知っているかもしれませんが、ブラン4巻の売り上げは芳しくありませんでした。元々、出版社的にはラブロマンスで売りたいという希望があったみたいでしてね。でも、僕はどうしてもあの作品を、あの形で出したかった。
編集とも同意の上でした。大分揉めはしましたがね。元々伏線だって用意していましたし、ストーリーラインについても話を通していました。何より、最高の物語を用意した自負があります――ですが、数字が結果を伴わなかった」
東山星也が少し言葉を切った。
「ほら見たことか、と言ったのは出版社側です。今からでも遅くない、ご都合主義でもなんでもいいから、路線を変更しろと言ってきたわけです。売り上げがどうこうというよりは、偉い人たちの面子やプライドの問題だったのだろうと思いますが」
話が進むにつれて、彼女の顔色が目に見えて変わっていくのを木ームズは見ていた。
「僕にはそれを呑めなかった。プライドがあるのは僕だって同じですからね。契約書上、出版権はダマスカス出版にありました。公にはしていませんでしたが、ずっと、引き上げの裁判を続けていたんです」
「え……」
「でも、駄目でした。契約書をちゃんと読んでいなかった僕のミスです。だけど、ずっとファンレターをくれていた、大切なファンの子のことを、知らないふりはできなかった」
東山星也が、懐に手を入れた。
「だから、これは違法な海賊版です」
そこから取り出された分厚い本に、「え?」という声が漏れた。
「君に読んでもらうために作りました。少し、傷んでしまいましたが」
――『ブラン・ルージュの花嫁』、5巻。
横の方に視線を向け、何かを言いかけたように少しだけ口を開いた、《赤の貴族》のソレイルの表紙。
「え……こんなに分厚い……」
「書きたいことを全部詰め込みました。500ページなんて初めてです」
本を受け取った彼女の目が、表紙をじっと見つめていた。声が震えている。
「……イラストが、ちゃんと、黒木先生」
「ブランのイラストは黒木先生じゃなくちゃ嫌でしたからね。twitterで発注したら、快く引き受けてくれました。先生も、この作品への思い入れがあったみたいで」
「口絵、8ページもあるんですね……ああ、口絵に掲載されているサイドストーリー。本文中では出番の少ないキャラのエピソードが、掘り下げられているの、好きだったんです」
「そういうの、いいですよね。僕も気に入っています」
彼女がはにかんだように笑う。
その後、表紙を改めて確認して、言葉に詰まる。
「あの、5巻、上、って」
「それはね」
そしてもう一冊、取り出される本。
「上下巻なんですよ」
「……!!!!!!」
もう、彼女には何も声が出せなくなった。
差し出された下巻、その表紙絵。
隣の誰かに視線を向け、幸せそうに微笑む、《白の貴族》のルミエラの表紙。
「長い間、待たせてすみませんでした」
その構図が何を意味するのかは、誰の目にも明らかだった。
「――読んでくれますか?」
彼女は本を抱きしめて顔を伏せた。涙が溢れて真っ赤になった瞳を隠すように。
愛する人のひとことを待ち焦がれていた、
ただ何度も、何度も、頷き続けた。
朝靄煙るシエル・パークの遊歩道を、木ームズとトワリンはゆっくりと歩いていた。芝生の露が淡い陽光を照り返して真珠のようにきらめいている。辺りには空気を爽やかに湿らせた水気の香りが満ち溢れていて、深く息を吸い込めば、肺の奥から洗い流されるような心持ちになる。
時々二人の歩調が急激に早くなるのは、連れて歩いている巨大なキャバリア・キング・チャールズ・スパニエルに引っ張られてしまうためだ。トワリンの家の飼い犬で名前は
「あの人、自首したんですね」
「殺人未遂で懲役二、三年ってとこだろうね。推しの作家を殺そうとまでしたんだ、それくらいしなくては彼女自身、けじめのつけようがなかったのだろう」
「人ひとり刺しといて、けじめも何もないと思いますけどねえ」
トワリンは不服そうだ。そういう真っすぐさは自分にはないものだなと思い、木ームズは微笑んだ。
「そう言えば、あの後、彼女から例の本を預かっていてね」
あの礼拝堂での夜、『ブラン・ルージュの花嫁』5巻上下を自分に託すとき、彼女は既に自首の覚悟を決めていたのだろう。
「読むんですか?」
「いや。この本を最初に読んでいいのは、この世に一人だけだろう」
「またそんな、カッコつけちゃってぇ」
トワリンがにやにやしながら木ームズを煽ってくる。まあ木ームズだってその程度のからかいには慣れたもので、特に気分を害された様子もない。
「もちろん読みたくないと言えば嘘になるが――いやいや」
「読めばいいんじゃないです? だいじょぶだいじょぶ黙ってりゃバレませんよ」
「きみもなかなかエグめの言動をするね」
木ームズは呆れたようなため息をついた。
「わたしはこれでも倫理を重んじるタイプなんだ。それに、読みたい作品は他にいくらでもあるんだよ。たかだか数年余裕で待てるさ。だって、ほら、よく言うだろう?」
それから木ームズは微笑んだ。
「『浜の真砂は尽きるとも、架空ラノベの種は尽きまじ』――ってね」
架空ライトノベル探偵ツャ一口ック・木ームズの事件簿 広咲瞑 @t_hirosaki
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