涙の使い方

aoiaoi

涙の使い方

 ある夜。

 薄い雲をかき分けた向こうにある、こじんまりとしたカクテルバー。

 柔らかい照明の灯った仄明るい店内。座っている客は皆疲れた顔で俯き、静かにグラスを呷っている。

 そんな壁際の小さなテーブルで、レイは手の中の酒のグラスを見つめて重いため息をついた。


 レイは、死神だ。

 青白く透けるような頰や澄み切った氷の色をした美しい瞳に、豊かな表情は浮かばない。

 そうだろう。生きているものの元へ赴き、死をび、その任務が無事完了するのを見届けるのが、彼女の仕事なのだ。

 神だって、疲れた時は酒を呑み、ため息をつきたくなる。

 いや——むしろ、神という仕事ほど苦痛に満ちたものはない。


 淡い銀色に光る絹のような長い髪が、俯いた額にサラサラとかかる。

 それを搔き上げることすら億劫で、レイはそのままテーブルにぐたりと上半身を預け、気怠げな頬杖をついた。


「あれ、キレーなお姉さんがいると思ったら、死神のレイ様じゃない」

 不意に、向かい側の椅子がガタリと引かれた。

 顔を上げると、そこにはふわりと真紅の華やかなドレスを纏った、なんとも可愛らしい女が立っている。


「——アイ」

「ねー、一人一人で飲んでもつまんないじゃな〜い? 私ここ来てもいーかなあ?」

 レイの返事も聞かず、アイと呼ばれたその女は自分のグラスをどんとテーブルに据えてどさりと腰掛けた。相当に酔っているようだ。

 何かあったのか、いつもはぱっちりとアーモンド型をしたエメラルド色の瞳は重たく曇り、その美しい唇は苛立たしげに歪んでいる。

 柔らかくウェーブしたセミロングの艶やかな金髪も、今日は両手で掻き毟ったかのようにボサボサだ。


 レイはすいとグラスを呷ると、ぞんざいな挨拶を投げかける。

「……いつも派手ね、その真っ赤なふわふわドレス」

「は〜? 好きでやってるんじゃないんですけど? 愛の女神って仕事ですからね、仕方ないんですよこの弾けっぷり。ってかレイ様の服がダークすぎるんだって。いっつもそんなグレー一色の最高級イブニングドレスみたいなの着てて楽しい?」

「楽しいわけないじゃない。あなたバカなの?」

「あはは〜、今頃気づいた?」

 どこか投げやりな言葉が、それぞれの唇から流れ出す。


「……ってかさ」

 グラスをぐいと飲み干し、アイが改まった声を出した。

「なんか、レイ様らしくないんじゃない? いつも冴え冴えとした無表情を崩さない、美しい死神様がこんなとこで酒飲んでため息ついて」

 レイは横目でアイを見ながら、抑揚なく返事を返す。

「いろいろあるの。ただただ幸せがぎっしり詰め込まれた『愛』を扱ってるあなたなんかにはわからない、いろいろがね」


「……へえ」

 レイのそんな言葉に、アイの眉がぎゅっと険しくなった。


「そういう、『私の苦悩は誰よりも深い』みたいな態度、すっごくムカつく。

 苦しいのは、あんただけじゃないわ。

 私だって——

 ——私だって、幸せばかりをばらまいているわけじゃないのよ」


 アイは、乱暴にテーブルへ打ち付けた空のグラスを見つめ、悔しげに表情を歪めた。


「——今日は、私の届けた愛のせいで、女が一人死んだわ」


「——……」


 その言葉に、レイははっと顔を上げてアイを見つめた。



「その男へ私が届けた愛は、『裏切りの愛』だった。

 夫が妻以外の女へ向ける、その愛だったの。

 彼女は、夫の心がもう自分の元へは戻ってこないと思い込み、自ら命を絶った。


 私は、ボスから指示された通りに、指定の宛先の人間に『愛』を配達するだけ。受け取った愛をどう扱うのかは、彼ら人間たちの仕事よ。

 けれど、それをちゃんと育て、最期まで大切にできる人間なんて、思ったよりもずっと少ないの。

 時には、その愛のせいで今回のようなことが起こったり、追い詰められて二人一緒に命を絶ってしまったり。

 愛が怒りや憎しみ、悲しみを引き起こす時の凄まじさを、あなたは知らないでしょう?

 ——愛が幸せだなんて、決めつけないで。


 私もあなたも、結局一緒よ。定められた運命を受け入れなければならない人を、ただ見守るだけ……」


 アイの瞳が、一瞬大きく潤んだ。



「……ごめんなさい。アイ」


 自分の軽率な言葉を深く悔いるレイの表情を見て、アイはぱっと優しい笑みを作った。


「こういう仕事は、嫌よね。お互いに。

 ……レイ様も今、何か悩みを抱えてるんじゃない?」


 いつもは、決して弱音を吐くことなどないのだが——アイの温かい微笑みに微かに寄りかかるように、レイは小さく呟いた。


「……今、私が受け持っている人が、とても優しい人で……

 優しいのに、不運ばかりを味わってきた人なの」


「……」


「彼はもう、病院のベッドから起き上がれない。

 彼をそういう状態にしたのは、私。

 でも——これ以上、耐え切れないの。

 彼の命を断ち切るのが、私の仕事だなんて……」


 レイは深く項垂れると、顔を両手で覆った。



 しばらく黙り込んだアイは、何かを思いついたようにふっと微笑み、穏やかな眼差しでレイの肩に優しく手を置いた。


「レイ様。

 あなたには、まだできる仕事があるわ。

 彼には、もう少しだけ、時間があるんでしょう?

 その時間を、彼に寄り添って、思い切り幸せを届けるの」


 予想していなかった言葉に——レイは顔を上げ、零れそうに涙を湛えた瞳でアイを見つめた。


「レイ様は、彼の病室で、いつもどうしてるの?」

「……ただ、部屋の隅に立って、俯いているだけよ。

 私の力のせいで、彼が衰えていくその様子なんて、見ていられるわけがない……」

「あー、それじゃますます部屋が暗くなっちゃうじゃない!

 そうではなくて。今生きている瞬間が幸せに満ちるように、あなたが彼に寄り添い、届けられる限りの幸せを届けてあげたらいいのよ。

 暖かい陽射しを注いだり、心地よい風を運んだり、花や鳥を呼び寄せたり。

 あなたは強大な力を持つ死神。そのくらい、簡単でしょう?


 そして——本当に悲しい時は、彼と一緒に涙を流すの。


 今流してる涙を、その人のために使うのよ。残された時間を生きるその人の、幸せのために。


 どうかな? 私、愛のことはあなたよりもちょっと知ってるから。

 ささやかでも、そういう温かな愛をもらえるって、とても幸せなことなのよ」



「——……アイ……」



 先ほどとは見違えるほどに輝き始めたレイの表情を、アイは優しく見つめて微笑んだ。





 夜が明ける前に病室へと戻ったレイは、アイの言葉を思い返しながら、部屋の隅に立った。


 日の出の時間がきたが、窓の外は明るくならない。

 そう言えば、ここ何日も分厚い雲が空を覆い、冷たい秋雨がしつこく降り続いていた。


 レイは眼差しを空へ向け、ふっと微かにその唇から息を吐いた。

 その瞬間、重く垂れ込めていた雲が猛烈な風に吹き飛ばされるように、一瞬にして空に大きな切れ目ができた。


 雨が止み、眩しい朝日が雲間から窓へ降り注ぐ。


 レイが窓へ向けて微かに人差し指を払うと、すっと音もなく病室の窓が開く。

 秋の穏やかな風が、ベッドで眠る痩せ細った老人の髪をそよがせ、そのげた頰を撫でた。


 力なく閉じていた瞼が、微かに動く。

 老人はうっすらと目を開けた。


 輝く朝の日差しが、もうずっと光を取り込んでいなかった彼の虹彩を優しく照らした。



「……ああ。

 心地いい」


 皺に覆われ、乾ききった老人の唇が、微かに微笑んだ。




 その朝から、レイは変わった。


 死神の存在など、人間にはもちろん見えはしない。

 レイは少しずつベッドに近寄り、彼の顔をじっと見つめた。

 重たく憂鬱な雲が近付こうものなら、空へ両手をかざして一片残らずその影を追い払った。

 柔らかいちぎれ雲。ほうきではいたような淡い雲。

 彼の心を癒す色と形をした美しい雲を、いくつも空に描いた。


 穏やかな日差しと爽やかな秋風が、毎日病室に満ちる。

 木々に鳥達の囀りを満たし、たくさんの赤とんぼを窓の外に招いた。

 無数の透明な羽が、風に乗りながらキラキラと輝く。


 それらの景色を、老人は静かに眺めた。

 そして、その度に瞳を微かに輝かせて微笑んだ。


「ああ……楽しかった子供の頃のようだ」


 穏やかなその呟きに、レイはこみ上げそうになる涙を必死に押さえ込んだ。


 まだだ。

 まだ、その時じゃない。




 それから数日経った夕方。

 日が傾き、病室にも薄暗い闇が少しずつ近づく。


 いつもならもう老人が眠り始める時間なのだが、今日はその気配がない。

 レイは、彼のベッドへと近づいた。


 老人の様子を見て、レイは青ざめた。

 彼は、何かを手探りでもするように、弱々しく空中へ手を差し伸べている。



『レイ。彼の手を取りなさい』


 突然、指令が下った。

「ボス」からの、冷酷な指令が。



 ——自分がその手に触れる瞬間が、終わりの時なのだ。



「嫌だ……

 嫌。もう少しだけ」


 首を小さく横に振りながら、レイは震える声で呟く。


「ありがとう」


 不意に、ベッドから細い声が届いた。

 思わず、枕元に駆け寄る。



「ありがとう——


 この国にはね、いい言葉があるんだ。

『終わり良ければすべて良し』ってね。


 あなたのおかげで——私は、幸せになれた。

 ——ありがとう」



 人間に、私が見えるはずがない。

 彼の視界と意識は、もうすでに混濁し始めているのかもしれない。


 けれど——その目は、まっすぐに私を見つめている。

 その顔は、私に向けて、微笑んでいる。



 レイは、自分の手を伸ばし、彼の細い手をしっかりと握った。


 溢れ出てくる涙を、抑えることができない。

 両手で彼の手を強く包み、しゃくり上げながら頬を摺り寄せた。

 その骨ばった指を、レイの涙が濡らす。


「ああ。……とても温かいね。

 私は、幸せだ」


 微かにそう唇を動かすと——老人は、静かに目を閉じた。



 彼の魂が、沈む太陽の光に照らされて静かに夕空を昇っていくのを、レイは涙を止めることもせず見送った。









 ある夜。

 薄い雲をかき分けた向こうにある、こじんまりとしたカクテルバー。


 壁際の小さなテーブルでお気に入りの酒をオーダーし、アイは何気なく窓の外を眺めていた。

 今日は、若くて可愛らしい女の子に愛を届けてきた。

 あの優しい男の子と二人で、大きく実らせてくれたらいいけど。



 ふと、向かい側の椅子が静かに引かれ、アイは顔を上げる。

 そこには、銀色の髪をさらりと落としながら微笑む、美しい女がいた。



「——真っ赤なドレスの女が、私に教えてくれてね。

 涙が、誰かの幸せのために使えるんだって。

 聞いたときは、信じられなかったけど——それ、本当だったわ。

 今夜は、その話を聞いてくれる?」



「ええ。いくらでも」


 アイは、弾けるような笑顔で死神の微笑に応えた。





                         <了>

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