朝が溶ける前に
ヒトリシズカ
赤い眼の約束
いそげ。
いそげ、いそげ、いそげ!
いそげば、まだまにあうはずだもん。
あさがとけたら、たぶんもう、あえないかもしれない。
ううん、たぶんじゃない。
あさがとけたら、ゆきちゃんにあえなくなっちゃう!
そんなのいやだ!
とにかくはやく、はやくはしらなきゃ。
かけっこはにがてだけど、ぼく、やくそくしたから。
まっててね、ゆきちゃん——……。
❇︎
……酷く、懐かしい夢を見た。
ぽっかりと目を開ければ、薄汚れたカーテンの隙間から漏れた白い光が、埃に反射してキラキラと光った。そのきらめきをぼんやりと眺めながら、オレの脳みそは、ぐわんぐわんと揺れていた。
「…………あぁー……あたま痛てぇ……」
どうやら二日酔いのようだ。懐かしい面子に会って食事をしたせいか、それとも最近仕事が全然上手くいかなくて自棄になっていたからか、普段飲み慣れない酒を自分の許容量以上にあおっていたらしい。体がギシギシと音を立てているようだ。
重い頭を片手で支えつつ低く唸りながら体を起こせば、先ほどよりも窓に近づいたせいか視界が明るくなった。この眩しさは間違いない。確実に昼を過ぎている。
「……今日が、日曜で助かった……」
ほぅ、と息を吐いたら、ふと先ほど見た夢を思い出した。
酷く懐かしい夢だった。多分、小学校低学年か、もしかしたら幼稚園の年中さんくらいかもしれない。とにかく、とても幼い頃の記憶。
辺り一面が真っ白で、静かで、自分以外の足跡がなくて、夢中になって駆け回った。確か、途中で誰か来て、そこからは二人で一緒に転げ回るように遊んだ。幼い頃の記憶にあまり良い思い出のないオレにとっては、まるで奇跡のように幸せな思い出だ。
あの時も、そう、こんな静かな日で——……。
思い出から浮上し、窓の外に思いを重ねたときの違和感に、オレは眉を寄せた。
「…………静か過ぎないか?」
何せ今日は、日曜日だ。
学校は休みだし、大抵の会社も休みなので、家の目の前の公園には毎週末子どもたちで溢れているはずなのだが、遊びに湧く歓声はおろか人の気配がしない。
不審に思ったオレは、状況を確かめるべく薄汚れたカーテンを勢いよく引っ張った。
「…………雪だ」
囁くような声が大きく響く。窓の外は一面の銀世界だった。真っ白の光を吸って、より一層強く光る雪景色に視界が焼けるようだ。だがひとつだけおかしい点がある。これだけ外が明るいのに、太陽は真上にないのだ。
「……今何時だ?」
枕元に置いてあるスマホに手を伸ばす。液晶を叩いてみれば、思いがけない時間が表示された。
『5:38』
てっきり昼を過ぎたと思っていたが、明け方だったようだ。いや、明け方というよりも夜と朝との境目。確か、こんな時間のことの呼び方は——……。
「朝が溶ける前だ……」
酷く懐かしい夢見た。そこで一緒に遊んだとても親しくて、でも顔も思い出せない子が教えてくれた夜と朝とが交わる境目の名前。
その名前を口に出したその瞬間、何かが窓の外で小さく爆ぜる音がした。弾かれるように目を遣れば、誰もいない真っ白な雪の上で、白くて小さくて丸い何かが跳ねているのが見えた。
あの丸くて、葉っぱの耳がピンッと立ってて、南天の赤い実が片側に一つしか付いていないがその姿は、まさしくイラストで見るような、でも決して動くはずのないものが——雪うさぎが、窓の外でピョンコピョンコと跳ねている。
オレはそれを見ても、叫ぶことも、スマホを構えることもなかった。ただ茫然と、雪うさぎがピョンコピョンコ跳ねる様を朱い瞳を限界まで開けて、凝視した。
「ゆきちゃん……」
酷く懐かしい日の夢を見た。
あの日、オレとたくさん遊んでくれたのは、人じゃなかった。白くて、丸くて、葉っぱの耳が二枚ピンッと立ってて、オレと同じ赤い目をした雪うさぎ。
その顔には南天の赤い実が一つしかなくて、オレと遊んでくれた時にどこかに落としてしまったままだ。ゆきちゃんは、もう一度高く跳ねた。脚など無いのに、それはそれは高く跳ねた。
まるでお手玉みたいに跳ねるゆきちゃんを見て、オレは、あの時果たせなかった約束を思い出した。
まろぶようにベッドから転げ出て、いつも使っている鞄に付いている御守り袋を引っ掴んだ。古びた御守りを指の腹で擦れば、触り慣れたコロッとした感触が伝わる。オレはうまく動かない指に舌打ちしながら、苦労して中身を取り出した。
コロンと飛び出たそれを持って、オレは窓から外に飛び出した。
急げ。
急げ、急げ、急げ。
急げばまだ間に合うはずだ。
だってゆきちゃんはもう一度来てくれたから。
今度こそ約束を果たせる。
オレと遊んで無くしてしまった目の代わりに、オレの宝物をあげると約束したから。
また届かないなんて嫌だから。
今でも走るのは得意じゃないが、あの時よりはずっとマシだ。
走れ、届け。
朝が溶ける前に。
幼いオレの宝物だった真っ赤な硝子玉を握りしめ、朝日に向かって走り出したゆきちゃんを全力で追いかけた。
無我夢中で走ったから、それは長かったのか、短かったのか分からない。でもそれは唐突に終わった。
夜と朝との境目でゆきちゃんが止まる。
息を切らしてオレはゆきちゃんの隣にしゃがみ込んだ。
「遅れて、ごめん、ゆきちゃん」
ゆきちゃんは目一杯背伸びをして、片目のない顔をオレに近づけた。真っ白な顔に握りしめていた真っ赤な硝子玉が吸い付くように
『約束を果たしてくれてありがとう』
懐かしい声が頭に響く。
ゆきちゃんに嵌めた硝子玉の目が、いつの間にか顔を出していた朝日を反射した。
『走れたのなら大丈夫。またいつか、朝が溶ける前に逢いましょう。朝焼けの瞳の子』
朝日が昇る。
朝が溶ける。
白く白く灼ける視界に、オレは堪らず目を閉ざした。
❇︎
ぽっかりと目を開ければ、薄汚れたカーテンの隙間から漏れた白い光が、舞った埃に反射してキラキラと光った。外は子どもの声こそしなかったが、人の気配はする。体を起こしてカーテンを開けてみれば雪など積もっておらず、朝から目覚めたいつもの街が広がっていた。
酷く懐かしい夢を見た。
昔、走る夢は吉夢と聞いたことがある。
すっかり目を覚ましたオレは、軽快にベッドから降りると、鞄に付いている古びた御守りを指の腹でそっと撫ぜた。触り慣れたコロッとして感触はなく、カサリと乾いた音と一緒に常盤色の葉っぱが入っていた。
頭は、もう痛くなかった。
朝が溶ける前に ヒトリシズカ @SUH
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