第二章 春霞の中で 05


          *


 南北に長々と延びるターミナルビル、その北側一階端には、小さなカフェが入居している。

 装飾もへったくれもない無味乾燥なターミナルビルの中で、ここだけが三面を大きなガラス窓に囲われている。駐機場に面したガラス扉の上には申し訳程度に小さなオーニングがかけられていて、飛行場にあるにはいささか不謹慎な店名が可愛らしい丸ゴシックで描かれていた。

〈喫茶エアポケット〉

 夏海はガラス扉を開けて中に入った。扉の上の鈴が小さくカラコロと音を立てる。

「こんちわー」

 コーヒーの香りに包まれた店内は、外界と負けず劣らず雑然としている。

 弾痕が穿たれたP-51の垂直尾翼が天井からワイヤーで吊り下げられ、その上からどこか南洋の部族が作った木彫りの精霊が店内を見下ろしている。廃用となった零戦の主脚がゲートキーパーのように扉の脇に並び、本日のランチメニューが書かれたホワイトボードが紐でぶら下げられていた。

 もうすぐ夕方になろうかというこの時刻、店内の客は隅のボックス席に座る老人が一人きりだった。まるで置物のようにぴくりともしない小さな老人の横で、太ったブチ猫が丸くなって居眠りしている。テーブルの上にはこの老人専用の大きな湯呑みが置かれ、番茶がかすかに湯気を立てていた。

初代しよだいさんも、こんにちは」

 初代さん、と呼ばれた老人は、からくり細工のようにゆるゆると首を縦に振った。目や口は深い皺の中に埋もれていて、その表情は判らない。が、もしかしたら笑っているのかも。

「おや。夏海ちゃん、いらっしゃい」

 カウンター奥の厨房から顔を出した男が、柔らかな声音で言った。

 黒縁眼鏡にぼさぼさの頭、襟元まできっちりとボタンを留めたカッターシャツに蝶ネクタイを締め、黒いエプロンをかけた姿はどこか売れない画家をイメージさせる。二十代にも四十代にも見える年齢不詳の容姿だが、実はついこないだ三十五歳の誕生日を迎えたばかりであることを夏海は知っていた。

 名を柿崎和馬かきざきかずまという。玉幡飛行場唯一の旅客設備といえる、この喫茶エアポケットの店長マスターである。

「今ちょうど豆を煎ってたところでね。もう少し待ってくれたら、出来たての豆で一杯入れてあげられるよ」

「ああ、だからこんなにコーヒーの匂いがするのか……」

 夏海は鼻をひくつかせる。

 店内の空気はいよい噎せ返りそうな程の、甘く香ばしい匂いで満たされつつあった。

「桜子は? そういや美化委員で遅れるって伝言頼まれてたけど、まだ来てないの?」

「まだみたいだね。夜間便の出発作業が終わるまでしばらくあるから、忙しくなる頃に来てくれたら構わないけど」

「あの子、学校でも色々と仕事抱えてるからなあ……」

 夜間定期便が翼を連ねて飛び立っていく午後五時から約一時間は、この店の日に何度かあるかき入れ時だった。ちょうど各社の終業時刻と重なっているために、店内は作業を終えて一休みする地上作業員達と帰りがけに一服する社員達で一杯になってしまうのだ。

 深々と溜息をつきながらカウンターの丸椅子に腰掛け、差し出されたお絞りでゴシゴシ顔を拭く。ついでに「あ~、染みる……」などと声が漏れる。やたらにオヤジ臭い。

 まるで女子高生には思えない仕草の夏海に、マスターは苦笑した。

 夏海の前に淹れたてのコーヒーを滑らせながら、

「……随分疲れてるね。何かあったのかい」

「やーもー大変ですよ……さっきまで肥料散布を二件こなしてきたんだけどさ、最初の散布じゃほとんど畑に落ちなかったって。先方さんから苦情の電話が掛かってきて、爺ちゃんから大目玉くらうわ、お姉ちゃんからはうっすら笑われながらずーっとお小言いわれるわ。もしかしたらステラに何か問題があるかも知れないって、今から総点検するらしくてさ……あ、マスター。あれちょうだい」

「これでしょ?」

 と、マスターはカウンター下の冷蔵庫から牛乳パックを取り出した。夏海のカップに糸を引くように注いでいく。

「そろそろ夏海ちゃんも、牛乳を入れずにウチのコーヒーを飲んで欲しいね。これでもウチのコーヒーは、コロンビアの農場から直接送ってもらった豆を丁寧に自家焙煎したやつだから、他とは香りが全然違うんだよ」

「えー? だって苦いじゃん」

 マスターのこだわりを「苦い」の一言で斬って捨てた夏海は、さらに砂糖を五杯も入れて嬉しそうにカップを傾けた。

 どこまでもお子様な夏海の舌に、コーヒーには一家言あるマスターも二の句を告げず、溜息をつきながら牛乳パックを冷蔵庫に収めた。

「……いくら点検箇所が少ない三式連絡機ステラっていっても、この時間に総点検するなんて大変じゃないか。この後はもう上がりだろう?」

「まあね。でも家に戻っても、アキはまだ学校から帰ってないらしいし、お姉ちゃんはこっちで点検を手伝うから晩ご飯も遅くなるだろうしで、こうなりゃ桜子と話でもしてようかってこっちに逃げてきたのよ」

「冬次郎さんも手伝っているんなら、そんなに時間はかからないとは思うけどね。僕も現役時代に、冬次郎さんには何度も助けられたよ」

 まるで荒事に向いていなさそうな容姿をしていながら、マスターはかつて甲斐賊の一員として操縦桿を握っていた男だった。それなりに腕の良いパイロットだったと夏海は聞いている。

 この店の先代店長だった父が死去したために、甲斐賊の看板を下ろして店を継いだのが二年前。それからは場末の喫茶店のマスターとして、アルバイトの桜子と二人で店を切り盛りしていた。

 玉幡飛行場の場内にある唯一の飲食設備なだけに、食事時になると腹を空かせた甲斐賊達が詰めかけ、その他の時間も近所の老人達が集会場所にしたりと、店はそれなりに繁盛している。

「夏海ちゃんの商業初飛行から、もう一ヶ月か……どうだい、そろそろ仕事には慣れてきた?」

 マスターの問いかけに、ふうふうとカップに息を吹きかけていた夏海は難しい表情を浮かべた。

「どうかなあ……何せ近場の仕事しかさせて貰えてないからね」

「それでも立派な仕事だよ。僕の時なんて、事業用を取ってから一年はまともに飛ばせて貰えなかったなあ。おかげで最初の商業飛行の時には、まるで自家用の単独初飛行の時みたいに随分と緊張したもんさ」

「でも、あたしとしてはもっと遠くまで行ってみたいよ。この一ヶ月、ずうっと甲府盆地の中だけで飛んできたからね。そろそろ他の場所も見てみたいって言ってるんだけど、その度に爺ちゃんが『尻に殻ついてるヒヨッコにゃまだ早ェ』って。実際、失敗続きだから言い訳のしようもないんだけど」

 腕を組みながら祖父の声音を真似てみせる夏海に、マスターはフフッと微笑を浮かべた。

「夏海ちゃんのことが心配なんだよ。毎日しっかりと機体の整備して貰えて、いいお爺さんじゃないか」

「そうかなあ。いつまでも素人みたいに思われるのも癪なんだけど……」

「……そういや」

 突然、口元に拳を当てて笑い出したマスターに、夏海は驚いて目を丸くした。

「な、何?」

「いや、ごめんごめん……昔、冬次郎さんと君のお父さん──芳朗さんがやり合ってるのを、ふと思い出してね」

「爺ちゃんと、父さんが?」

「そう。丁度、僕がパイロットとして飛び始めた頃だったかな。どっかの会社が近距離の小口輸送用に使おうと、九九式襲撃機ソニアのレストアを冬次郎さんに依頼したことがあってね。そして芳朗さんは、レストア明け最初の試験飛行を担当したんだよ」

 夏海のカップから立ち上る湯気の向こうで、マスターは懐かしそうに目を細めながら静かに語り続ける。

「冬次郎さん、試験飛行を芳朗さんに任せるのが心配だったみたいで、離陸前のブリーフィングじゃあ細々とした所まで何度も繰り返していたよ。そのくせ芳朗さんはすぐにでも飛び立ちたいみたいにそわそわして、冬次郎さんの注意も上の空な感じだったな。あんまり聞き流してる感じに見えたから、ついには冬次郎さんも怒り出しちゃってね」

「爺ちゃん、短気だからなあ……」

「そうだなあ、僕らもその時は『同じ事をそう何度も何度も繰り返してたら、そりゃ誰だって怒るだろうさ』って思ってたよ──でも、そうじゃなかったんだな」

 マスターは親指と小指を広げた右掌をカウンターの上で滑らせる。

「いよいよ試験飛行に出発して、車輪が滑走路の路面から離れてすぐ。何を思ったか芳朗さんは超低空で機体を急横転させて、翼端が地面に擦れそうな一八〇度ロールをカマしてさ。そのまま操縦桿を一杯まで引きつけて、殆ど垂直に近い急上昇をしていったんだよ」

 マスターの右掌が槍のように真上を向いて昇っていく。その爪先を目で追いながら、夏海はなんて無茶なことをするんだろう、と呆れた。

 飛行中の機体が最も不安定になるのは、速度が落ちて翼に当たる風が小さくなったときだ。翼が風を受け止められなくなると、そのまま失速に繋がってしまう。

 特に、離陸直後は速度が非常に遅いために揚力も小さく、翼が十分な揚力をため込むまではフラップを出して緩やかな上昇を続けなければならないのだ。

「その後はもう、芳朗さんの独壇場さ。飛行場のみんなが見上げている前で、芳朗さんは次々と曲芸飛行を繰り出していった。小さな宙返りを二つ繰り返したり、機体を激しくロールさせながら宙返りしたり、ふらふら木の葉みたいに揺れながら垂直降下したり……」

 ちなみに、それぞれ〈バーチカル・キューバン・エイト〉〈ローリング・シザース〉〈フリップ・リーフ〉と呼ばれるアクロバットテクニックである。高い機体性能と熟練した操縦技術がなければ、完璧な形では成功しない高等テクニックとされている。

「む、無茶苦茶するなあ、父さん……!」

「挙句の果てに、垂直で上昇した姿勢のままで空中静止して、機首を横に落として降下する〈ストール・ターン〉まで決めてみせたら、ついに冬次郎さんも我慢できなくなったみたいでね。真っ赤っかに怒って空にスパナ投げつけながら、『言わんこっちゃねえ、やっぱり曲芸やりやがった。降りてきたら足腰立たなくなるまでブチのめしてやる』って、そりゃもうカンカンだったよ」

 そりゃそうだろう。出来たてほやほやの機体でいきなりそんな飛行をされたら、整備士なら誰だって怒るに決まっている。

 それにしても、驚くべきは父の操縦の腕だった。九九式襲撃機は確かに扱いやすい機体として知られているが、それでも平気でアクロをやれる程飛行性能に優れているとはいえない。

 しかもレストアから上がってきたばかりのどこにどんな不具合があるのか判らない機体で、離陸直後の不安定な時に、連続してそんな高等テクを繰り返したというのか。

 人づてに聞いてはいたが、父の持っていた操縦技量に改めて舌を巻く思いがする。

「………あれ?」

 はた、と夏海は気付いた。その様子を見て、マスターは微笑を浮かべる。

「夏海ちゃんも気付いたかい? そう、僕もこの時点で判ったんだ。ねちっこく注意を繰り返した冬次郎さんに、それにも関わらず皆の前で高等アクロを披露した芳朗さん……まるで水と油みたいな関係なのに、実は二人がお互いの能力をどこまでも信頼しあっているって事に」

 夏海の空になったグラスに水を注ぎながら、マスターは言った。

 氷水で満たされたグラスが外から差し込む陽光を受け止め、カウンターの上に七色の輝きを落としている。

「冬次郎さんは、気付いていたんだ。新しい機体を与えられた息子がどんな行動をするのか、そしてそれを実現できるだけの操縦技術を息子が持っていることを。だからこそ冬次郎さんは、元々それほど飛行性能が良いとは言えない九九式襲撃機で高等アクロが出来るようにセッティングを限界まで煮詰め、通常の機体とはどこが違っているのか可能な限り芳朗さんに伝えようとした。

 一方で芳朗さんは、父親の整備の技量をどこまでも信頼しきっていたんだ。父の整備した機体に万に一つの間違いもない、何も言わずとも自分に合わせたセッティングをしてくれたに決まっている、と。だからこそ芳朗さんは父の注意をまともに聞かず、まるで無視してアクロを繰り出したように僕らには見えたんだよ。もしかしたら、父親の整備の技量を皆に見せつけるために率先してアクロバット飛行をしたのかも知れないね」

 グラスの中の氷が、カラン、と音を立てる。

 夏海は、父の姿をほとんど知らない。父と祖父がどのような関係だったのか、今もそれを想像できない程に、その時の自分は幼かったのだ。

 覚えているのは、二人が顔を合わせる度に皮肉とも口喧嘩とも取れない言い合いをしていたことくらい。何となく、他の親子関係とは違っていたような印象がする。

 しかし、それがお互いの能力を認め合っている結果なのだとしたら。父と子、互いを思い合った先に辿り着いた一つの家族の形なのだとしたら。

 それは、どれほど素敵なことなんだろう。

「……似てる、と思わないかい」

 冷水の入ったポットを布巾の上に置きながら、マスターは言った。

「似てるって?」

「今の、夏海ちゃんに対する冬次郎さんの態度が、さ」

 そうなのかな? 父さんと違って、自分の操縦の腕はまだまだだし。爺ちゃんがあたしに信頼を寄せてるようにはとても思えないんだけど。

 首を傾げる夏海の目を、マスターは真っ直ぐに見返している。

「考えてごらんよ。ああ見えて冬次郎さんは、整備の腕だけじゃなく豊富な空の知識も持った、この玉幡じゃ神様のような存在だよ。あの性格だから直弟子は陸生君を加えても五人程しかいないけど、彼等の教え子まで加えたら玉幡の整備士はみんな冬次郎さんの孫弟子と言ってもいい。だったら、わざわざ冬次郎さんが整備しなくても誰かに丸投げすればいいとは思わないかい。どうして冬次郎さんは、君の機体を毎日居残ってまで自らの手で整備をして、しかもきっちりアドバイスまでしてくれるんだろう?」

「それは……」

「孫娘の夏海ちゃんの機体だから、という理由は勿論あるだろうね。でも冬次郎さんの性格からして、家族だからといって特別に目を掛けるようなことをする人かな」

 先回りして言葉を重ねるマスターに、夏海はぐっと詰まった。

 その通りだ。爺ちゃんは、絶対に身内びいきはしない。

 例え孫だからといって、決して甘い顔はされない。どこか放任のようでいながら、空のことに関してはいつだって厳しい。それが祖父・天羽冬次郎という男だった。

 それは生まれて十七年間を同じ屋根の下で暮らし、そして父が亡くなってからの十年間を実子のように育てられてきた自分が一番よく判っていた。

 すっかり冷めてしまったコーヒーの波紋を見つめながら思いを巡らす夏海に、マスターは訥々と語った。

「僕には別の理由があると思うんだ──夏海ちゃんの中に、芳朗さんの面影を見たんじゃないかな」

「あたしの、中に?」

「そう。玉幡始まって以来という極めて高い操縦技量を持ち、どんな困難な飛行も飄々とこなしてみせた名パイロット、天羽芳朗の面影が、ね。もちろん、それは親子だから見た目が似てるって事じゃなくてさ。きっと芳朗さんの操縦の腕を思い出すような何かが、夏海ちゃんの飛び方の中にあったんじゃないかと思うんだ」

 不意に、こちらの顔をマスターが覗き込んできた。

 どこかキラキラした表情が目の前に迫って、夏海はぐっと身を仰け反らせる。

「そうだ。夏海ちゃんの夢って何だい?」

「ゆ、夢?」

「そう、夢。この先パイロットを続けていって、いつかはやってみたいこと、辿り着いてみたい場所。そういった夢って何かあるかい?」

「──いつか、南極の空を飛んでみたい」

 一瞬の逡巡のあと、夏海はぽつり、と呟いた。いつか南極へ行くことは、自分にとって亡き父に誓った夢だ。

 少しだけ恥ずかしそうに、頬を掻きながらはにかむ。

「家の仏壇に、父さんが南極で撮った写真があってさ。それをずっと見てたら、あたしも父さんと同じ場所に立ちたいって思った。あたしが商業飛行士を目指したのも、プロとして飛んでたらいつか南極に行くチャンスがあるかも知れないって思ったから」

「南極かあ。そういうとこ、やっぱり親子だから似てくるのかな」

 乗り出していた身を戻しながら、マスターはそっと微笑む。どこか懐かしそうなその言葉に、夏海は首を傾げた。

「──? どういうこと」

「僕がまだ空を飛んでた頃に、芳朗さんから聞いたことがあるよ。自分には夢がある、この地球のほとんどの空を飛んだことがあるけど、最後に飛んでみたい場所がある、ってね」

「それが、南極?」

「だと思うよ。いっときは南極飛行用の装備だって言いながら、よく判らない機材をあちこちから集めてきててさ。ついには共用格納庫を丸々あふれさせちゃって、冬次郎さんに怒られてたのを覚えてる」

 マスターの言葉は冗談めかしていても真に迫っていて、その時の光景が目に浮かぶようだった。

 夏海はスツールの背もたれに深く身を預けながら、小さく溜息をつく。

「そっか……父さんは、夢を叶えたんだ……」

 つまり、あの写真は父が南極に立つという夢を叶えた、その時に撮られたものということになる。

 見渡す限りの純白の大地の只中で、父は本当に楽しそうにファインダーに収まっていた。長年思い抱いていた夢を遂に叶えたその瞬間、父はどれほど嬉しかったことだろう。

「………………」

 ──なんだろう。

 どこか、違和感がある。

 父が夢を成就した事実に安堵する気持ちと、その気持ちの陰でほんの少しだけざらつく感触。撫でさする指先に神経を集中させて、ようやく僅かに感じ取ることができる小さな棘のような……。

 カウンターの端で両手を突っ張り、視線を虚空へ彷徨わせながら、夏海は考え込む。

 眼前に浮かんでいるのは、父が遺したあの写真の光景だ。汚れのない純白の雪原と、果てしない蒼穹。両翼のプロペラを回して佇む双発機と、全身から喜びが滲み出ているような父の姿。

 あの写真のどこに、違和感を感じるような何かがあるんだろう……?

「……思うんだけど」

 マスターがそっと話しかけてくる。ハッとして思考の海から戻ってきた夏海を、マスターは微笑みを浮かべながらじっと見返してきた。

 そろそろ四十の壁に届きそうな年齢なのに、そうしていると渋味の乗ったハンサムな顔に見えてくる、気がする。

「いま夏海ちゃんがもやもやしてるのって、目標への次のステップが見えてないからじゃないかな。大きな夢ってのは、そこに至る幾つもの小さなステップを踏んで初めて叶えることが出来るんだ」

 どうなんだろう。自分では判らない。

 無言で次を促す夏海に、マスターは言葉を重ねた。

「一つ一つ、ステップを乗り越えていく少しばかりの達成感があるからこそ、人間ってのは大きな夢への熱意を失わずに済むんだよ。商業飛行士になるって最初のステップをクリアしたけど、次に目指すべきものが思い浮かべられなくて気持ちが足踏みしてるから、毎日の仕事に遣り甲斐を見つけられないんじゃないかな」

 そこまで言うと、マスターは恥ずかしそうに頭をがりがり掻いている。

「うーん……ちょっとクサかったかな? こういうこと話し慣れてないから……」

「マスターにもあるの? そういう夢」

「僕? もちろん。今の夢は、この店をもう少し繁盛させて玉幡の近くに支店を出したいね。ここの店構えじゃどうしても甲斐賊がメインの客層になっちゃうけど、新しい店はもう少し一般のお客さんにも入りやすい店にしたいかな」

 それは割合に達成しやすそうに見えて、果てしなく遠い目標のような気もする。

 一見の客など歯牙にもかけぬワイルドな風情の店内を見回しながら、夏海はそっと溜息をついた。

「夢、かあ……」

 確かに、今の自分にはこの先に進むべき方向というものが思い浮かばない。

 いつか南極へ立つためにパイロットであった父の跡を継ぎ、父が操っていた機体で商業パイロットとしての道を踏み出したい。

 それを目標にずっと訓練を続けてきたけれど、それを叶えた先の次なるステップをまるで考えていなかったことに、夏海はこの時初めて気付いたのだった。

 それに、先程感じた違和感。

 その正体が何なのか、今の自分にはまるで判らない。けれど、それをはっきりとした形で掴むことができた先にこそ、これから自分が目指すべき次のステップが見えてくるような気がしてならなかった。

「父さんの夢……」

 夏海はじっと考え続けている。

 夜間便の出発時刻が間近に迫り、外界からゴウゴウとエンジンの試運転の音が響いていたが、夏海はカウンターの上の一点を見つめたまま微動だにしない。

 グラスの水に浮かんだ氷が、カラン、と音を立てて揺れ動いた。

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