第一章 曙光行路 01

 今だ鳥すらも寝静まっている時刻。

 包み込むような静寂の中、単調なエンジン音だけが小さく聞こえてくる。


 四方に枝を延ばした大きなけやきかたわらにたたずむ、一軒の古い日本家屋の前。

 玄関から漏れ出す微かな光の先に、一台の軽トラックがアイドリング音を低く響かせながら停まっていた。排気管から吐き出される真っ白な煙が、風の無い地面の上をうように広がっていく。

 窓をぴったりと閉めた助手席で、天羽秋穂あきほは足元からせり上がってくる寒気に両膝をこすり合わせながらひたすら耐え続けていた。

 秋穂が生まれるずっとずっと前から使い倒されている年代物のマツダポータートラックは、車内の殆どの部分が質実剛健を絵に描いたように鉄板しで、外気の冷たさをそのまま車内へと伝えてくる。

 デフロスターから流れてくる風はやっと温かくなってきたが、車内全体を温めるにはまだしばらくかかるだろう。それまでは膝の上に置いた、ほんのり温かい弁当の包みが懐炉の代わりだ。

 きっと寒いだろうからって厚手のタイツを履いてきたけど、スカートじゃなくって長ズボンにすれば良かったかなあ。

 ちょっと後悔しながら、ミトンの両手を口に当ててはーっと息を吹きかける。

 この時期の明け方は、まだまだ寒い。

 来週には三月になるというのに、甲府盆地の一番底にあるこの集落は周囲から冷気が流れ込んでくるのか、日をまたぐ頃から急激に気温が低下する。さっき秋穂が自分の部屋から出るときに、壁にかかった気温計を見ると、室内にもかかわらず水銀柱の目盛りはマイナス一度を指していた。

 ふと、湿気に曇った窓ガラスを通して遠くを仰ぎ見る。

 はるか東の方角、黒々とした笹子ささごの山並みと紫色に染まった空が広がっていた。笹子の空の色が変わり始めると、朝の遅い甲府盆地にもまもなく曙光が差し込んでくる。

 本当は、今の時季には笹子峠ささごとうげからずっと南側の、御坂山地みさかさんち黒岳くろだけ節刀ケ岳せっとうがたけの間から朝日は昇る。でも秋穂のような生っ粋の甲斐かいっ子の習慣として、朝日の昇る東の空とはつまり「笹子峠の空」なのだ。理屈なんかじゃない。

 あの紫色の空の向こう、ずっとずっと東の先には、この国で最も大きな都市圏が広がっている。秋穂自身も祖父や上の姉に連れられて、何度か行ったことがある。

 天をくようにそびつビル街と、何かに追われるように先を急ぐ灰色の人波。数え切れないほど多くの自動車と、切れ目が無いように思えるほど次々とやってくる電車の連なり。

 しかし一番印象に残っているのは、ビルの隙間から仰ぎ見る空の狭さだった。この街のそれと較べて幾分かくすんだ色合いをした空は、どこを向いてもコンクリートの柱に遮られて随分と窮屈に思えたものだ。

 いつかは、私もあの街の狭い空の下で暮らすことになるんだろうか……と、たまに自分の将来について考えることがある。

 が、それはまだまだ先の話のこと。今はまだ十四歳、中学二年生。考える時間はたっぷりある。


「うーん………」


 運転席に座る上の姉が、明かりのともる玄関の方を見ていた。

 普段は腰まである長くて真っ直ぐな黒髪は、今は背中とバックレストに挟まれて緩やかなウェーブを描いていた。それが、玄関からの温かな光に照らされて黄金色の輝きを放っている。

 この姉と同じ血を引いていることを、秋穂にはたまに信じられない時がある。自分は寝癖を直して何とかツーサイドアップにまとめようと散々苦労したのに、この人の黒髪はそんなことを微塵みじんも感じさせない。いつもどうやってこの綺麗な髪を整えているんだろう?

 秋穂の視線に気付いた上の姉──天羽美春みはるが、何を勘違いしたのか少しだけ苦笑しながら、


「なっちゃん、ちょっとのんびりさんよねえ」


 と、一層のんびりした声で言った。

 左手首を返して時計を見る。午前六時十分を少し過ぎたところだった。

 秋穂はドアのレギュレーターハンドルをぎゅるぎゅる回して窓ガラスを開け放った。途端に、ようやく暖かくなってきた車内に冷え切った空気が流れ込んで、秋穂の頬をぴりりと刺す。

 窓から首だけを出して、秋穂は玄関に向かって叫んだ。


「夏ねえ! 早くしないと先に行っちゃうよ!!」



 その時、天羽夏海は仏間にいた。

 欄間らんまにかけられた先祖代々の写真が見下ろす中、冬用のパイロットスーツに身を包んだ夏海は癖っ毛のショートボブをわずかにうつむかせ、仏壇にそっと手を合わせていた。

 仏壇には一枚の男の写真が収められている。白熱球の蝋燭ろうそくがぼんやりと照らした男の写真は、撮影者が後ろから呼びかけて不意に撮ったのか、上半身が振り向きかけたところで止まっていた。

 夏海は、合わせていた手を静かに下ろした。


「……んじゃ、父さん。行ってくるよ」


 写真の中の父は、強い逆光で目元はよく見えない。だが白い歯と口元の形で、大きく笑みを浮かべているのは判る。

 たっぷりと羽毛が詰め込まれているらしい分厚い防寒着を上下に着込んだ父──天羽芳郎よしろうの姿は、どこからどう見ても雪だるまのそれに近い。そんな二目と見られぬ格好で、父は本当に楽しそうに写真へ収まっていた。

 背景に見えるのは、どこまでも続く白い大地と、あおい空。両翼のプロペラを回して搭乗者を待つ、古い双発の輸送機。

 場所は南極大陸。

 セールロンダーネ山地の南五〇キロ、ナンセン氷原の只中ただなかひらかれた臨時飛行場にて──と、写真の裏書きにはある。


「予定よりもちょっと時間かかっちゃったけど……でも、やっとスタートラインに立ったよ。見ててよね、父さん」


 いつの日か、この場所へ行くために。

 父と同じ商業飛行士として、父の見た南極の風景をこの目に収めるために、夏海はつらい日々を乗り越えてきたのだ。

 一夜漬けの詰め込み勉強と山勘で学科試験を突破し、気合いと勝負運で実技試験をクリアして、自家用操縦ライセンスを取得したのは今から二年前、一四歳のこと。

 だが、そこから商業飛行士となるために必要な事業用操縦資格を得るには、勘と気合いだけではどうにもならない。事業用操縦資格は「総飛行時間一〇〇時間以上、その内機長として出発地点から二四〇キロメートル以上の飛行で、中間において一回以上の生地着陸を含む五時間以上の飛行をすること」が最低条件だ。

 しかし父の死後、天羽家には羽布はふが腐り果てたオンボロ飛行機以外に機体は無く、そして操縦士なりたての中学生に機体を貸し出す程余裕のある飛行業者はいなかった。夏海の飛行時間は、本人の焦りとは裏腹に一向に増えることは無かったのである。

 最低条件をギリギリでクリアできる総飛行時間がようやくまったのは、中学卒業と高校入学を挟んだ一六歳の冬。

 そして今日、夏海は姉が社長を務める小さな会社の専属パイロットとして、初めてのフライトを迎える事になったのだった。

 傍らに置いたダッフルバッグを開き、中身を確かめる。昨晩の内に確認しながら詰めたけれど、この道の先達である父の前でもう一度チェックしておこうと思ったのだ。

 有視界用の区分航空図、航空路図、飛行記録簿、よし。

 操縦士技能証明書、航空身体検査証明書、無線免許などの各種証明書、よし。

 ニーボード、航空計算盤、プロッター、よし。

 予備のヘッドセット、それに眠気覚ましのオヤツ、よし!

 外からの声が聞こえたのは、夏海がもう一度ダッフルバッグのジッパーを閉じた時だった。


「──夏ねえ! 早くしないと先に行っちゃうよ!!」


「わーっ、待って待って!」


 ダッフルバッグを肩に背負しよって立ち上がる。航空図をはじめ必要な物が詰まったダッフルバッグは、それなりにずっしりと重い。

 蛍光灯のスイッチに手を伸ばしながら、もう一度だけ仏壇を見た。

 パイロット姿の父は、写真の中で変わらずに笑顔をこちらへと向けていた。まるで晴れの日を迎えた自分を、そっと送り出すかのように。


「──行って来ます!」


 仏間の明かりを落とし、玄関へと走り出る。ブーツに足を突っ込んで適当に靴紐くつひもを結び、玄関の戸を閉めて鍵をかける。

 門前には古い軽トラックが一台、エンジンをかけたまま停まっていた。いつもは家族四人で一度に祖父の車で移動するが、四日前に祖父が乗って行ったまま泊り込んでいるため、昨日のうちに組合から借りてきた車だった。


「いやーごめんごめん、ちょーっとお花を摘むのに時間かかっちゃった……って、あれ?」


 車内を覗き込むと、運転席には姉の美春が、助手席には妹の秋穂が、それぞれ対照的な表情を浮かべて座っている。

 ちょっとだけ困ったような苦笑を浮かべる美春に対して、秋穂は不機嫌そう。でも、こちらは朝が早くて眠いせいだろう。三姉妹の中でいちばん体力に劣る秋穂は、基本的に朝も弱い。


「アキも行くの? 何で?」


 ガラスを半分だけ開けた窓の向こうで、秋穂がこっくりとうなずく。


「そりゃあ、なっちゃんの門出だもの。家族みんなで見に行かなきゃ、ね?」


「そんなに大袈裟おおげさなもんでもないと思うけどなあ……」


 姉の言葉に苦笑しながら、反動をつけてダッフルバッグを荷台へと投げ込んだ。長年使い込まれてサスペンションがヘタりきった軽トラは、それだけでふらり、と頼りなく揺れる。


「大体、会社ができたのってもう半年も前じゃん。そこに、あたしが新人として入るだけで、会社としちゃ何にも変化ないでしょ?」


「もう、何いってるの」


 と、今度は本当にあきれ声。


「みんな、この日が来るのをどれだけ楽しみにしてたか、なっちゃんも知らない訳じゃないでしょう? お爺ちゃんなんか組合の仕事そっちのけで、毎日格納庫に行って整備してたんだから」


「あー。そういやこの半年、家で爺ちゃん殆ど見なかったっけ……」


 それどころか、学校帰りに格納庫に寄ってみても、中からは祖父の怒鳴り声が聞こえてくるばかり。様子を見ようと中に入っても、すぐに「邪魔だから出てけ」と追い出されるのが常だった。


「それにウチは家族経営の小さな会社だけど、れっきとした航空会社なのよ? そこに初めての保有機が加わるんだから、初飛行に立ち会うのは社長として当然じゃないの」


「………わたしも」


 秋穂が眠たげな目のまま、ボソボソとした声で言った。


「〝ステラ〟がどうなったか、見てみたかったから……」


 その言葉に、夏海はほにゃっとした笑顔を浮かべる。


「いいねえ、そりゃあたしもだよ」


 夏海は軽トラの荷台によじ登った。

 スタッフバックが動かないように両足で挟むように立ち、車室の天井をコンコン、とノックする。


「よしっお姉ちゃん。離陸準備よし、だ!」


 ガクン、と車が揺れて、慌てて車室の天井を掴み直す。

 天羽家のすぐ横には、古い欅の木がある。冬になり、すっかり葉が落ちて枝だけが四方八方に伸びる欅の木は、上空からでもはっきりと判るくらいの大きさだ。

 その下を、周りの家に気を使ってエンジン音を抑え目に通過した軽トラは、やがて細い市道に合流してぐんぐん加速する。

 顔に当たる風が冷たい、ていうか痛い。首筋から背中にかけて冷たい空気が流れ込んで、夏海はひいひい言いながらパイロットスーツの胸元のジッパーを一杯まで引き上げた。

 本当なら会社の事務所で着替えるところだけど、こんなこともあろうかと家から着てきてホントに良かった。

 白み始めた空の下、いまだに寝静まったままの集落の中を縫うように、軽トラは走る。

 この辺りはずっとずっと昔、それこそ平安の頃から村があったという。江戸時代になると大きな市場も開かれていたらしい。だから集落の中を行くと、そこかしこに時が止まったような古い家や蔵が残されていたりする。

 横の路地から一台のカブが出てきて、軽トラの後ろについた。

 顔見知りの新聞配達屋のおじさんだった。朝刊を配り終えて店に帰るところらしい。


「おっ、天羽んとこの。朝早くに三人でお出かけかい?」


「飛行場! 今日はあたしの初仕事なんだよ!」


 カブを走らせながらたずねてくるおじさんに、夏海は肩越しに大声で言った。

 おじさんは銀の前歯をのぞかせながら、ニカッとい笑顔を浮かべる。


「そりゃいいや。俺はもう寝るから夏海ちゃんの飛んでるとこは見れんが、しっかり気張りなよ」


「ありがとう、おじさん!」


 おじさんは手を振りながら、次の交差点で右に分かれて行った。

 意外にそっけないけれど、石を五十個投げれば一つや二つは航空関係者に当たるこの町じゃ誰もがこんな感じだ。常に飛行機が隣にあるこの町では、空を飛ぶことは日常の風景でしかない。

 やがて、軽トラは釜無川かまなしがわの堤防の坂道を登りはじめた。たもとは広いが真ん中は車がやっと行き違いできるくらいの幅しかないという、変わった形をした鏡中条橋かがみなかじょうばしを渡れば、すぐに夏海たちの目的地──山梨県営玉幡飛行場の滑走路南エンドに出る。

 釜無川を真っ直ぐに渡る橋の上は、彼女達の軽トラ以外に行きかう車は無かった。

 左手には玉幡飛行場のターミナルビルと管制塔が滑走路の向こう側に小さく見えて、屋上の航空標識灯が早朝の青みがかった風景の中で赤く点滅を繰り返している。まだ業務時間外なのに管制塔の中に人影が見えるのは、もしかしたら夜中に緊急の着陸機があったのかもしれない。

 右手には、稜線りょうせん付近に雪を抱いた御坂山地がどこまでも延びている。周囲の山地が雪雲をさえぎるために、甲府盆地は真冬でも降雪が少ない。その代わり湿度も低いために、放射冷却で極度に冷え込むのだ。

 寒々しい稜線の向こうには、純白の富士山ふじさんが特徴的なシルエットを覗かせていた。日本最高峰のあちらでは三十分も前に朝を迎えていて、山容を縁取るような黄金色の輝きが濃紺の空をバックに浮かび上がっていた。

 山頂付近は風が強いのか、薄雲が真横に細くたなびいている。もしかすると積もった雪が強風で巻き上げられているのかもしれない。

 上にあがれば乱気流に注意だな、と思う。今日は富士山の近くを飛ばないほうがいいだろう。

 こんもりと丸い黒岳の右側に、ぽつんと赤い光がまたたいた。

 突然現れた輝きを起点に、稜線上を光が走る。燃えるような赤から金へ、そして鮮烈な白へとめまぐるしく色彩が変わり、やがて朝の太陽の光が、さあっと甲府盆地へと差し込んだ。

 その瞬間、確かに空気が変わった。稜線上に昇った太陽の光は身が切れそうなほど鋭く、いささかのけがれもなく清冽せいれつで、そして暴力的なまでの圧力があった。


「おお──────────っ!!」


 夏海は大きく手を広げて、その光を受け止めた。自然と口から歓声があふれ出る。

 細かく揺れる軽トラの荷台に立ちながら、言葉にならない叫びをあげて曙光を迎える夏海の姿を、まるで宝石箱のようにきらめ川面かわもが見つめていた。

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