第二章 春霞の中で 03


          *


 キ──ン──コ──ンカ──ン……。

 全ての生徒にとって祝福の鐘が鳴り響く。

「ん、もうこんな時間か。今日の授業は以上です。日直、号令」

「きり────つ」

 教室に三十二名分の椅子が引かれる音が響く。

「れ──────い」

 ひょこり、と頭を下げた初老の教師が、教卓の上の教科書をまとめて小脇に抱え、のんびりとした歩みで教室を出て行った。

 その姿が扉の向こうに消えた後、教室の中を弛緩した空気が包み込む。

「終わった──ぁ!!」

 県立甲斐杜高校二年一組、四限目が終了。夏海はその場で大きく万歳した後、そのままバタンと机の上に倒れ込んだ。

「長かった、今日も長かったよ……あまりに長すぎて、思ってもいなかった悟りが開けそうになったくらい……」

「何の悟りだよ。日向ぼっこする猫の悟りか?」

 手早く支度を調えた桜子が、窓際の席でゴロゴロする夏海を見下ろしながら言う。

 その言葉を聞いて、雪乃がくすりと笑った。確かに、差し込む陽光の下でダラリと寝っ転がった夏海の姿はだらけきった猫を彷彿とさせる。

「気分よさそうだね、夏海ちゃん」

「まぁね~~解放された喜びっていうかね~~」

 ああ、陽が当たってあったかくなった机が気持ちいい。頬をすりつけながら目を細める夏海の顔は、まさに日向ぼっこする猫のそれだった。

 教室の後ろの入り口から、ひょこりと一人の男子生徒が首を出して様子を伺っている。近くにいたクラスの男子を呼び止めて、何か一言二言告げていた。

「いるよ。あの窓際の席」

 そう指差した男子に軽く手を上げて礼を言うと、夏海の席へと近付いてくる。隣のクラスに在籍している陸生だった。

「こんちは、光岡さん、枇杷島さん。そのだれきってるのって、夏海?」

 その声を聞いた途端、三者は三様の反応を示した。

 夏海はまともに反応もしない。机に突っ伏したまま、ただ右手だけをひらひらと動かしている。どうやら挨拶しているつもりらしい。

 桜子はさばさばしたものだった。右手の肘から先だけをぴんと立てて、「よっ」と一言。どこまでもあっさりしたものである。

 雪乃は違った。その声を聞いた途端、まるで棒でも飲み込んだように直立不動になった。両手をきつく胸の前で重ねているのは、どうしようもなく震えるのを隠すためか。耳まで桃色に染まった顔で、

「こここ、こんにちは、名取君! そ、そう、これ夏海ちゃん!!」

「? どうかしたの、枇杷島さん。顔、真っ赤になってるけど」

「な、何でもないれすっ! 今日はちょっと暑かったですから、アハハハハ……」

 そう言いながら、両手でパタパタと顔を扇いでいる。

「そう? ならいいんだけど」とあまり詮索せず、陸生は机で溶けかかってる夏海を見下ろした。

「夏海。冬ジイからさっき連絡があったんだけどさ」

「な~~に~~?」

 温かくなった天板のあまりの気持ち良さに、もはや声までぬるま湯のようになっている夏海である。

「今日は夏海が飛んだ後で、ステラの点検を一通りやるぞって。だから飛行が終わったら、そのままステラを格納庫に放り込んで欲しいんだ」

「え~? 点検って、毎日お爺ちゃんがしっかり見てくれてるけどなあ。それに今日の仕事がどんなのか、あたしにも判らないから何時に帰ってくるか判んないよ?」

「夏海が帰ってくるまでは別の仕事してるよ。今晩は遅くなるってもう家には連絡したし、その辺は大丈夫」

「ん~。判った~~~」

 ひらひら、と右手を振って応える。

 陸生はズボンのポケットから鍵の束を取り出した。

「掃除当番も何も無いなら、後ろ乗ってく?」

 何気なく言った言葉に、ビクリと雪乃が反応する。

 陸生はこう見えて自動二輪の免許持ちである。祖父から譲り受けたノーマルのカワサキZⅡに乗り、学校から許可を貰ってバイク通学をしていた。

 陸生自身は、今のところあまり地上を走る乗り物に興味はない。彼の家の凌雲寺から学校、それに玉幡飛行場はちょうど正三角形で結べる位置にあって、学校が終わってから飛行場に素早く向かえるからというのがバイク通学の理由だった。飛行場通勤のついでに、たまに夏海や秋穂を後ろに乗せて行くこともあり、そのための半ヘルも後部シートにくくりつけてあった。

「う~ん。どうしよっかな……」

 陸生の誘いに、夏海はしばし考え込む。学校から飛行場までは少しばかり距離があるため、飛行前に体力を温存できるのはそれなりに魅力的な提案だった。

「……ん、やっぱいいや。今日は自転車で来てるし、自転車置いてったら明日が困るから」

「そっか、判った。んじゃ先に行って準備進めとく」

「ふえ~~~~い」

 陸生は鍵の束をポケットに収めると、二人のやり取りを見守っていた桜子と雪乃に軽く笑いかけた。

「じゃあ、光岡さん、枇杷島さん。また」

「じゃな」

「は、はいっ! また明日っ!!」

「……枇杷島さん、ほんとに大丈夫?」

「大丈夫ですっっっ!!」

 そう? と首を傾げて、陸生は教室を出て行った。

 歩み去っていく陸生の背中を食い入るように見つめ、彼の姿が視界から消えた途端、はあああああああああああああ、と雪乃は深く深く安堵する。

「き、緊張したあ……!」

「緊張? 何で」

「何でって、あの名取君だよ!? 桜子ちゃんは何も思わないの」

「私は別に……」

「それより夏海ちゃんだよ! どういうことなの!?」

 これまでのおしとやかな性格から別人のように、雪乃が詰め寄ってきた。夏海はその勢いに少しばかり引き気味になる。

「な、何が?」

「名取君のバイクの後ろに誘われるとか、夏海ちゃんと名取君ってまさかそういう関係!?」

「そういう関係ってどういう関係よ」

「だーかーら!」

 ぶんぶん首を振ってもどかしそうに言葉を継ぐ。いつもとは全く違う雪乃の様子に、夏海は戸惑うばかりだった。

「おっ……お付き合いしてるのかって事よ……」

「そりゃまあ小さい頃からの腐れ縁だし、ウチの会社で見習い整備士してる訳なんだから古い付き合いではあるけど……」

「男女の! お付き合いを! してるのかって事!!」

「はあああああああああああああ!?」

 今度は夏海が驚く番だった。

 寝耳に水とはこの事である。予想もしなかった問いかけに、夏海は首と一緒に両手まで振って応えた。

「ないないないない、ぜーったい、無い! あくまで古い腐れ縁ってだけだって!!」

「……ホントに?」

「ホントホント! いきなり何言うかなこの子は。陸生を彼氏に? 絶対有り得ないね。桜子からも何とか言ってやってよ!」

「んー、でも私の目から見ても、名取と夏海って案外いい線いってると思うんだけどな」

 桜子が明後日の方向を向きながら飄々と答える。

「実際、ウチの学校でもそう噂してる子、多いよ? 名取と夏海がすごく自然だから、ありゃ絶対付き合ってるに違いねーって」

 その言葉に、雪乃の瞳が炯々とした輝きを取り戻す。

 夏海は恨みの籠もった目で桜子を見上げた。

「桜子~ぉ?」

「あはは、悪い悪い。雪乃、こいつらのあれは男女のそんなんじゃないよ。少なくとも今は、ね」

「少なくともも何も、そんなんじゃないってのに……」

 髪をグシャグシャと掻き乱しながら、夏海は椅子に深く身を預けた。使い込まれた椅子が、ぎしり、と悲鳴をあげる。

 陸生と、あたしが? ないわー。未来永劫ないわー。

 何しろ普段の様子を知っているのである。子供の頃から姉ちゃんに惚れ込み、愛が行き過ぎた余り天羽美春親衛隊なる非公認団体を組織して、その隊員ナンバー〇〇一番に収まってしまうような変人なのだ。

 もしも姉ちゃんが「会社のためにお金を下さい」と言ったら、喜んで生命保険の受取人を姉ちゃんにして中央本線に飛び込みそうな気さえする。

 そして、妹の秋穂と二人で辿り着いた結論が『姉ちゃんの忠犬』である。

 さらに、そんな評価を本人からして喜んでいる節がある。

 基本的に、ヤバい奴なのだ。

「大体なんで陸生なのよ。あいつ、そんなに格好良い奴かね?」

「夏海は幼馴染みだし、普段から良くつるんでるから気付いてないんだろうけどな。名取の奴って意外にウチの女子に人気高いんだよ。顔も小動物みたいな愛嬌があるって言ってるのもいるな」

 それはトカゲを見て可愛いって言ってるのと何が違うんだろう。

 夏海としては生命の神秘に触れた気分である。

「背丈こそウチらとそう変わんないけど、人当たりも良いし、雪乃と並ぶくらい頭も良いしね。ここにバイクの免許持ちってステータスが入ったらそりゃ放っちゃおかねーでしょ」

「でもあいつって犬だしなあ。姉ちゃんの前じゃ忠犬だよ忠犬」

「そこもいいんじゃない! 憧れた女性に一途な男の子って、真面目に向き合ってくれそうだし!!」

 うわ、こいつガチだ。

 身を乗り出して力説する雪乃にただならぬ狂気を感じて、夏海は引き攣った笑顔を浮かべる。恋は盲目とはこういうのを言うんだろうか。

 逃げるように目を逸らせて、黒板の上に掛けられた丸時計を見た。五限目の終了からすでに十五分が経っている。

「んじゃ、あたしそろそろ……」

「あ、夏海。言い忘れてたけど私、今日は特別教室棟の掃除当番だから。もし店に行くようなら、少し遅れるってマスターに言っといて」

「あいあい。判ったー」

 桜子は生徒会の美化委員を務めながら、玉幡飛行場ターミナルビルに唯一入居しているカフェでアルバイトをしている。今日のように美化委員の居残り仕事が入った時は、夏海が伝言役になって遅刻をお願いすることはこれまでにも何度かあった。

 夏海は肩越しに二人へ手を振ると、カバンから自転車のキイを取り出しながら廊下に出る。

 少しだけ傾いた陽光が照らし出す廊下を、一日の授業を乗り切った多くの生徒達が行き交っていた。

 友達と連れだって歩きながら、これからハンバーガーショップに繰り出そうと話している女子。大きなギターケースを肩にして、音楽室へと歩いていく男子。隣の教室を横目でちらりと覗くと、今日発売のマンガ週刊誌を回し読みしている一団もいる。

 別々の行動をしていながら、それぞれ共通しているのは苦行から解放されて弛緩しきった表情だ。あたしもあんな顔してるのかな、と夏海は自分の頬をさする。いつもと変わらない、ちょっとだけニキビが浮いた頬の感触。

 開け放たれた窓からは、かすかに花の香りをまとった微風が柔らかく吹き込んでいた。目の前を桜の花びらが二枚、小さく回転しながら風に乗って流れていく。

 ゆっくりと舞い飛んでいく花びらに導かれるように、夏海は小さく鼻歌を歌いながら駐輪場へと歩いていった。



 甲斐杜高校からは橋を渡って釜無川の左岸に渡り、流れに沿って堤防を自転車で走っていけば、およそ三十分ほどで玉幡飛行場に辿り着く。

「どもー。お疲れ様でーす」

 北第一ゲートの守衛に関係者証を見せ、夏海は飛行場の中に入った。この時間の玉幡飛行場は、日没直前に飛び立つ夜間定期便の出発準備に追われている。

「うわ、今日も忙しそ……」

 トレーラーを二、三台連結したトーイングトラクターが、夏海の目の前をひっきりなしに行き交っている。どのトレーラーも限界まで荷物を積み上げ、その重みにサスペンションがずっしりと沈み込んでいた。

 右手に広がる駐機場には、大小様々な機体が扉という扉を開けて荷物の到着を待ち受けている。彼等の翼の下をくぐり抜けるように、荷物を牽くトーイングトラクター、機体への燃料補給を司るタンカー、電源車、工作車……それらの地上作業車が走り回り、そして数え切れない程多くの人々が機体の周りに取り付いてそれぞれの作業を行っていた。

 大量の荷物を限られた時間内に捌かなければならない定期便の荷役作業は、いつも戦場のような有様となる。我が社に預けられたお荷物様は神様であり、畏れおおくもその歩みを妨げたりお体に傷を付けるような輩には無慈悲な制裁が加えられる。そんな鋼の如き信心のもと、今日も駐機場のどこかで俺の進路を邪魔すんな手前ェこそ俺の台車にぶつかっただろうが、と殴り合いの喧嘩が立て続けに発生する。そこに男も女も、老いも若きも関係ないのだ。

 罵声と怒号と騒音が響き渡り、目を刺す排気煙とわずかな血反吐の臭いが辺りを包む。そんな世紀末的情景こそ定期便の荷役作業なのである。

 そして夏海はそれを横目に見ながら、のほほんとママチャリを進めている。

 わーいつもがんばってるなー、程度に思いながら、彼等の邪魔にならないよう構内道路の端を伝ってペダルを漕いでいく。誠に結構なご身分である。

 空の便利屋を標榜するステラエアサービス社は、基本的に定期便業務を請け負っておらず、またそれを行うだけの体力もない。定期便業務とは、それなりの実績と会社規模がなければ請け負うことが出来ない仕事なのだ。それ故に、夏海は日々玉幡飛行場の駐機場で展開される衆生の諍いとは無縁でいられるのである。

 ぱーらーりーらーりーらーらー、と背後からゴッドファーザーの愛のテーマが鳴り響き、脇に寄った夏海の横を『喧嘩上等』『定時運航命』と大書きされた作業車が駆け抜けていく。まるで球状艦首のような頭をしたドライバーの目は血走り、ぼーっとしていると三角コーンよりも簡単に跳ね飛ばされてしまいそう。夏海はペダルを漕ぐ足を速めた。

 人や荷物でごった返すターミナルビルの前を通り過ぎ、第三格納庫を通過したところで左に折れると、目の前にステラエアサービス社のプレハブ造りがちょこんと建っている。外の喧噪とはうって変わって静かなたたずまいを見せるこの小さな建物こそ、新米商業パイロットである夏海の職場だ。

「……あれ?」

 中にいたのは、祖父の冬次郎一人きりだった。

「ジイちゃんだけ? お姉は?」

「知らん」

 ぶっきらぼうに答えた冬次郎は、鼻くそをほじくりながらエンジンのピストンヘッドをためつすがめつしている。

 夏海は自分の机に荷物を置きながら、

「何それ。ステラの部品?」

「違う。野島運輸のじまうんゆんトコのわけェのが焼き付かせた、二式複戦にしきふくせんの発動機のだ」

「もう使えないの?」

「コンロッドがねじくれてやがったからな。軸受けから歪んでるだろうし、よく見たら棚落ちして吹き抜けた痕もありやがる。こいつはもうゴミだ、ゴミ」

 冬次郎は床に置いた段ボール箱の中にピストンヘッドを放り込むと、灰皿に刺したままだった煙草を咥えた。

「ったく……。大体、野島の連中はどいつもこいつもオーバーブーストを使い過ぎなんだよ。到着時間に間にあわねえからって、四六時中高負荷回転してたらそりゃ焼き付くわな」

 活火山のように盛大な紫煙を噴き上げながら、冬次郎は苛立たしげに舌打ちを繰り返している。こりゃ、もしかすると野島運輸の事務所に乗り込んでいって、あそこのパイロット相手にチャンバラを仕掛けるつもりなのかもしれない。

 くわばらくわばら、こっちに火の粉が飛んでくる前にさっさと出発しよ……と、夏海は机の上に置かれていた業務指示書のファイルを手に取った。

 さっと目を通して、顔を顰める。

「うげー、今日も散布飛行かあ。しかも、いつもの石灰じゃなくて肥料って……」

「そろそろ元肥もとごえを撒く季節だからな。これからは肥料抱えて飛ぶのが増えるだろうよ」

 春の声が聞こえる季節になると、農家は一斉に畑へ踏み込んで土を耕しはじめ、あわせて消石灰を振り撒いて、冬の間に酸性度が上がった土を作物の生育に適した中性の土へと作り替えていく。そして種蒔きのタイミングを見計らいながら牛糞や油かすなどを元肥として撒き、本格的な作付けへと入っていくのである。

 こういった施肥作業は、小さな田畑なら人の手でも行えるが、大きな圃場ほじょうだと人力ではとても賄いきれない。特に、終戦後の混乱期に田畑の大規模集約化が進んだこの辺りの農家では、春になると空から一気に石灰や肥料を撒いてもらうため、先を争うように玉幡飛行業組合へ散布仕事を依頼してくるのだ。

 そして、以前に組合で働いていた姉の美春は、その伝手をフルに活用して今年春の散布仕事の依頼をステラエアサービスでほぼ独占することに成功していた。組合としても、実入りが少なく労力が多いこの仕事を各社へ振り分けるのに苦労していた手前、美春の提案はまさに渡りに船だったのだ。

 おかげで商業初飛行の日からこっち、夏海はこの仕事にずっとかかりきりだった。

 そりゃ毎日空を飛べることは嬉しいけれど、たまには別の場所で違う仕事をしてみたくもある。自由気ままという言葉が服着て歩いているような夏海にとって、ルーティンワークは何よりもストレスが溜まる仕事なのだった。

 一つ、溜息。学校の制服から着替えるために、ロッカールームへと歩き出す。

 その時になって初めて、こちらをじっと見つめる祖父の視線に気付いた。

「な、なに?」

「………………んにゃ、何でもねえ」

 一瞬だけ言い淀んだのはどうしてだろう。ものすごく気になる。

 どことなく居心地の悪さを感じる夏海に、冬次郎は天井に向かってぷかっと煙を吐き出して言った。

「とりあえず頑張って飛んでみな。あんまり気合い入れすぎて、機体を壊すんじゃねえぞ」



 桜色に染まった甲府盆地の上空を、のんびりと羽音を立てながらステラが飛ぶ。

 空からは燦々と春の陽光が降り注ぎ、冬の間は身を切るような冷たさだった隙間風もほんのりと暖かくなっている気がする。

 翼で受け止めた空気の感触もどこか柔らかく、夏海は我知らず鼻歌をもらしながら操縦桿を握っていた。

「フッフ~フフフ~フ~フフフ~フ~フフ~♪」

 あれほど毎日まいにち農薬を抱えて飛ぶのが嫌だと言っていたくせに、いざステラに乗り込んで空へ飛び上がってみるとこれだ。

 あたしって本当に空を飛ぶことが好きなんだなあ、と調子外れの『空の勇士』のメロディを口ずさみながら夏海は思う。

 眼下には、笛吹ふえふき川の川面が緩やかに蛇行しながら北東の方向へ延びていた。今日最初の仕事は笛吹川を遡っていった先、勝沼の丘陵地にある果樹園への肥料散布となっている。

 玉幡からは十分と掛からず飛んでいける距離で、今日はあと一件、山梨市にある水の抜かれた田んぼへの肥料散布の予定も入っていた。日没までにはまだ時間はあるが、できれば暗くなるまでにはどちらも済ませておきたい。

 笛吹川と金川かねがわの合流点を目標にして真東へ針路を取る。正面には山裾を駆け上がっていく中央本線の線路が見えて、今まさに一本の列車が笹子峠への長い上り坂に挑んでいた。

 目指す果樹園は中央本線を飛び越えた先、源次郎岳げんじろうだけから流れ出した扇状地の只中にあった。

「……あれか」

 葉が落ちて幹だけになったブドウ園の端に、紅白の吹き流しが小さく翻っている。ブドウ畑の持ち主が、目標の畑を上空に示すための目印だった。

 散布する肥料の量や散布方向は事前に打ち合わせているから、夏海としては特に地上とやり取りすることなく、この吹き流しを基準にして取り決め通りの方向に飛び、腹の下に抱えた肥料を撒くだけでいい。

 夏海は無線機のチャンネルが社内無線になっているのを確かめると、送信ボタンを押した。まだ事務所には冬次郎が詰めているはずだ。

「えー、こちら夏海。爺ちゃん、いま一件目の目標に着いた。これから散布始めまーす」

『ステラ11、こちら玉幡管制。応答してください』

「ありゃ?」

 電波の向こうから返ってきたのは、女性の声だった。夏海が飛ぶ時には良く聞こえてくる、年齢不詳の落ち着いた声。

「こちらステラ11。玉幡管制、どうぞ」

『ステラ11。御社より一時的に業務管理を依頼されました。今回は私が貴機の業務飛行をチェックします』

「さては爺ちゃん、格納庫から戻ってくるのが面倒臭くなったな……了解、玉幡管制。よろしくお願いします」

 玉幡飛行場管制課のレーダー室にいる、まだ一度も顔を見たことがない女性管制官に、夏海はペコリと頭を下げた。そろそろ夕方のラッシュがはじまる時刻なのに、こんなちっぽけな飛行機に目をかけてくれるとは。何て親切な人なんだろう。

『ステラ11、いま眼下に目標が見えていますね? 進入方向、それに散布高度は把握していますか』

「大丈夫です。いま高度は事前の指定通り。針路の方も、もう少ししたら指定針路に乗ると思います」

『目標は斜面の中腹にあります。山腹への衝突を避けるため、散布後は直ちに上昇姿勢を取って高度を確保して下さい。あわせて、源次郎岳周辺の乱気流には十分に注意して下さい』

「了解しました!」

 夏海は元気よく応えた。

 本当に指示が丁寧な人だと思う。いつも自分の飛行を先回りして、こちらの性格まで知り尽くしているような的確な指示をくれるのだ。いつも冷静な声音で、たまに冷たく聞こえることもあるけれど、そのぶん判りやすく耳に染み通るような声だった。

 夏海は身を乗り出すと、エンジンカウルの陰に隠れた前下方を覗き込んだ。

 吹き流しは水平近くまで浮き上がりながら、南西方向に向かってバタバタと尾をはためかせている。

「フラップダウン、三〇度」

 夏海は声に出して確認しながら、フラップ操作ボタンを押し込んだ。

 途端にガラガラガラ……、とアルミのシャッターを開くような音が響く。両主翼の後端に延びるガイドレールに沿ってフラップが展開される音だ。

 本来なら離着陸の際に高い揚力を得るために使われるのが高揚力装置だが、通常の飛行速度よりも更に低速で飛行する時に、不足する揚力を嵩ましする為にも使うことができる。

夏海は真っ直ぐ東に機首を向けながら、そろそろと吹き流しへ近付いていった。

「ほい、定針。このままいきまーす」

 誰にともなく呟きながら、夏海は両手両足を細かく動かして扇状地の斜面を駆け上がるようにステラを進ませる。

 斜め前方から風が吹き寄せてくるが、ステラが揺れ動くほどでの強さではない。実際、夏海自身もそうとは気付かない程度の風だった。

「目標まであと、五、四、三、二──」

 操縦桿の上にテープで留められた散布ボタンに親指を添えて、その瞬間を待つ。

 吹き流しの上空を飛び越えたところで、

「──散布始め」

 夏海はボタンを押し込んだ。

 途端に、ステラの胴体下に左右へ延びた散布ブームから灰色の肥料溶液が噴き出した。ステラの後方乱流で小さな渦を巻きながら、肥料の霧は重力に引かれて地上へと降り注いでいく。

 目標となった畑の端まで来たところで、ボタンから指を離した。散布ブームからスプレーのように噴き出していた薬液の奔流がピタリと止まる。

 スロットルレバーを前に押し出し、操縦桿をわずかに引きつけて上昇姿勢を取った。青空に向かって駆け上がるステラの機内で、夏海は肩越しに背後を振り返る。

「うまくいった、よね?」

 地上は濛々とした白煙に包まれていた。春の陽光を反射して真っ白に立ち昇る薬液の霧の向こうに、畑の畔道がうっすらと透かし見える。

 ここからではうまく畑に振り撒くことができたのか、まったく判らなかった。

「せめて地上の人と無線でやり取りできたらいいのになあ……」

 そうしたら、肥料がちゃんと畑に落ちたかどうかすぐに判るのに。

 どうせ失敗していたら後から電話が掛かってくるんだろうけど、できれば結果だけでもすぐに知りたいところだった。姉や祖父からお小言を言われるにしても、成否が判らないまま聞かされるのと判った上で聞かされるのでは心の持ち様が違うのだ。

「…………まぁ、いっか」

 充分な高度をとったことを確かめ、夏海は真北へと翼を翻した。

 今日はあと一件、畑への肥料散布が残っている。ここからだと五分と掛からず次の目標が見えてくるはずだ。

「ステラ11より玉幡管制。一件目の散布が終了。これより二件目に向かいます」

 萌黄に色付く源次郎岳の上空を、大きく左に翼を傾けたステラが飛ぶ。

 まさか散布した肥料が風に煽られ、目標の畑の二割程度にしか撒くことができなかったとは知らぬまま、夏海は次の目標の方向に目を凝らしている。

 その事実を夏海が知ることになるのは、それから三〇分ほど後。夕方の到着ラッシュへ紛れ込むように、玉幡飛行場へ帰還した後のことである。

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