第一章 曙光行路 04


 *


 陽光の下で見る紅い機体色は、薄暗い格納庫の中で見るよりももっと鮮やかな赤色をしているように夏海には思えた。

 飛行準備を進める冬次郎の動きは、年齢を感じさせないほどきびきびしている。

 折り畳んでいた主翼を左右に広げ、ヒンジを固定する。操縦桿から両翼の補助翼に繋がる操縦索を接続し、翼内タンクから延びる燃料パイプを繋ぎ、ファウラーフラップ展開モーターのカプラーを差し込む。

 こいつの事なら目をつぶってても準備できらあ、とは冬次郎の言葉だ。

 機体の周りをぐるりと回って、各部をチェックする。

 今回は整備士見習いの陸生が一つひとつ指をさしながら付き合ってくれたが、次からは自分ひとりでこれが出来るようにならなければ。飛行前の最終的なチェックを行い、自分の操る機体に責任を持つのもパイロットの義務なのだ。

 左側面の扉を開いて、夏海は機内に乗り込んだ。

 操縦席周りの配置は、操縦術を学ぶために何十回と乗ってきた練習機のそれとは大きく異なっていた。操縦席に座ってラダーペダルに足を通し、両足の膝の間から生えた操縦桿に右手を添えて、左手は操縦席左側にあるスロットルレバーを握る。

 ──何だろ、このしっくり来る感じ。

 確かに、練習機のものとは見た目からして大きく違う。

 違うけれど、何かがピタリと嵌ったような不思議な感覚がする。


「どう? 夏海の身体に合わせて調整しといたけど、どっか窮屈なとこはある?」


 開きっ放しの側面扉から首を突っ込んだ陸生が尋ねる。


「え? あ、うん。バッチリ、なんだけど……」


「何だよ、はっきりしないな。後で身体が引っかかった、なんて言ったら冬ジイにどやされるぞ」


「そういう訳じゃなくて、何だろ……座った途端に、自分の感覚が大きくなったような感じがする。こういうの、今まで感じたことないんだけど」


 陸生は、へえ、という表情を浮かべた。


「やっぱり、そういうことって覚えているもんなのかな」


「どういうことよ?」


「冬ジイが言ってたよ。夏海、赤ん坊の頃に芳郎さんの膝の上に乗って、この機体で何度も空飛んでたんだって。その頃のことを身体が覚えてるのかもな」


 初めて聞く話だった。

 そうか。初めて乗り込んだ機体のはずなのに、どこか懐かしい場所に帰ってきたような気がするのはそのためか。

 自分はもうすでに、このステラで空を飛んでたんだ。父さんと一緒に。


「……てゆーか。あんた、あたしのスリーサイズ知ってるんだ」


「は、はあ!? そ、そりゃ座席の調整のために冬ジイから」


「うわ、エッロい。スケベ。変な妄想してんじゃないの、この変態。お姉ちゃんに言いつけるよ」


「なっ、何言ってんだ。夏海のスリーサイズなんて誰も興味ないっての!」


 顔を真っ赤に噴火させて、陸生は引っ込んだ。フッ、愚かなやつめ。あんたはやっぱ忠犬だ忠犬。

 操縦桿を握り直し、プリフライトチェックを始める。

 まずは左に大きく倒して左右の補助翼エルロンを見る。左はアップ、右はダウン。続いて操縦桿を右へ。左ダウン、右アップ。エルロン良し。

 後方を振り返りながら操縦桿を前後に動かし、水平尾翼の昇降舵エレベーターが上下するかをチェック。エレベーター良し。

 ペダルを踏み込んで、垂直尾翼の方向舵ラダーが左右に動くかを見る。ラダー、良し。

 いくつかの計器が正常値にあるのを確認して、夏海は右手の人差し指を真上に向けてぐるぐると回した。機体の前に立った陸生が、それを合図に鍵型のイナーシャ・ハンドルをエンジンカウルの隙間に差し込む。


「……フンッ!」


 気合一発、陸生が全身の力を込めてイナーシャ・ハンドルを回し始める。

 手動でフライホイールを回し、その慣性でエンジンを始動させる慣性始動装置イナーシヤは回しはじめが極めて重い。体重が軽いと、フライホイールの重さに負けて身体が浮き上がってしまうくらいだ。

 最初は獣の唸り声のようだった回転音が、徐々に高まっていく。

 やがて回転音がカン高いサイレンのようになった時、陸生が大声で合図した。


「コンタ─────ック!」


 メインスイッチON。クラッチ接続。

 エンジンが、鼓動を始める。

 最初の二、三発だけき込み、すぐにプロペラの回転が安定した。

 開けっ放しの扉から耳をつんざくような爆音が響くなか、イナーシャ・ハンドルを外した陸生が操縦席の中を覗き込んできた。


「エンジンの回転は正常のはずだよ。小指一本分だけスロットルを開いてみて」


「はいっ」


 エンジンの出力を調整するスロットル・レバーは、操縦席の向かって左側に生えている。夏海は左手でレバーを握ると、恐る恐る少しだけ押し込んでみた。

 途端に機首の爆音が大きくなる。反応は上々だ。

 車輪止めをましているから前に進むことは無いが、今にも尾翼が浮き上がりそうで、お尻のあたりがムズムズしてしまう。


「よし、レバーを戻して。計器類は正常?」


「はい、えっと……うん、問題なし」


 夏海はざっと計器盤を見回して、いずれの数値も正常値にあるのをもう一度確認した。

 こういう時、見るべき計器の数が少ない機体は助かる。もっと複雑な双発機だとこうはいかない。

 陸生は、脇に抱えていたバインダーを開いた。


「いい? 確認しておくよ。夏海の今日の仕事は、こいつの試験飛行だ。『何せ格納庫の裏で長年草噛んでた機体だからな、見える範囲じゃ直しといたが、どこにどんな不具合があるのか知れたもんじゃねえ』……って、冬ジイから」


 ……脅かさないで欲しい、と思う。


「基本的に、飛行ルートは韮崎にらさきから勝沼かつぬまをまわって玉幡に帰ってくる三点周回。北向きに離陸したら、上昇しながら真っ直ぐ北北西に飛んで韮崎に向かう。高度二〇〇〇で韮崎を越えたらすぐに右旋回、次は勝沼に向かって。あんまり北に流されて、奥秩父おくちちぶの山にぶつからないようにしろよ」


「了解。上昇中にトラブルが起きたら?」


「その時は大人しく戻って来いってさ。今日は夏海のために昼の時間帯をぜんぶ押さえたらしいから、滑走路や周りの空で他の連中とぶつかることはないって訳」


「うわ。それってお爺ちゃん、もしかして組合の特別顧問って立場を使って無理強いしたんじゃないの?」


「知らないけどさ、冬ジイって特別顧問なのにいつも組合の仕事ほったらかしじゃん。たまには特別顧問らしいことしてみるかって、えらく喜んでたからね」


 そう言って陸生は呆れたように笑う。玉幡飛行場の黎明れいめい期を支えた元祖・甲斐賊の言葉は、ここではそれなりの重みを持つ。

 それでも、かき入れ時の昼の時間帯を押さえられてしまっては今日の飛行計画にも大きな支障が出ただろう。自分のためにそんな時間帯を譲ってくれた他の甲斐賊たちに、夏海は心の中でびておいた。


「どうしても戻ってこられないようなら、そのまま釜無川の川原にでも降りたらいいよ。一応、秒速四メートル以上の向かい風さえ捕まえられたら、こいつなら四〇mの距離があれば着陸できるはずだから。砂地に車輪が埋まってでんぐり返るかも知れないけど、機体が軽いから死ぬことは無いと思うよ」


「ちょちょちょ! 痛いのはやだよ!!」


「だったら上手にやりなよ。こいつはこれから夏海の機体になるんだ。夏海自身で手懐けないで、誰がやるのさ?」


 呆れたような陸生の声を残して、扉が閉じられる。

 緊張で口から心臓が飛び出しそう。わずかに静けさを取り戻した機内で、夏海はフッと息をついた。

 もう後戻りはできない。ここからは自分一人で何とかしなければならない。

 残された選択肢は、本当に飛ぶのか、飛ばないのか。そして、ここまでお膳立てをされた中で飛ばない選択というのは、夏海の中にある訳がないのだ。

 さっ、と目の前で両手を払った。『車輪止め外せ』の合図だ。

 前方に立った陸生が綱を引いて、主脚のタイヤの下に嵌め込まれていた車輪止めが外された。

 操縦桿のてっぺんにある無線機の送信ボタンを押し込む。レシーバーの中に響いていた小さな空電の音がフッと掻き消え、無線機が繋がった。


「管制塔、こちらステラ・11ワン・ワン……」


 上ずる声を、生唾を飲んで押さえ込む。


「離陸準備すべて良し。タキシングの許可をください!」

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