第二章 春霞の中で 01
甲府盆地を、ゆったりとした空気が包んでいる。
深い残雪を残す山脈に四方を囲まれた甲府盆地は今、淡い紅色の海の中に浮かんでいた。遙か空の上から見れば、きっと純白のキャンバスの中にピンクの点がぽつんと記されているように見えるかも知れない。
周囲よりも少しだけ高台に建てられた校舎からは、まるで花の大波が次々と岸辺に押し寄せているようにも見える。ニュースによると、今年は二月から三月にかけての冷え込みが長く続いたために、ソメイヨシノの開花が例年より一週間ばかり遅かったそうだ。
おかげで新年度の授業が始まって三日が経ったこの時期にも関わらず、校舎は満開となった桜や桃の花の淡紅色で十重二十重に囲まれていた。
日差しはぽかぽかと暖かく、開け放たれた窓から吹き込む風の息吹はどこまでも柔らかで、窓際の白いカーテンをそっと揺らしている。迷い込んできた桜の花びらが数枚、木のタイルで覆われた床の上で小さく渦を巻きながら踊っていた。
否応なく眠気が誘われる風景。しかし、居眠りするわけにはいかない。
県立甲斐杜高校二年一組は今、新年度始まっていきなりの小テスト中である。
春休み中にちゃんと予習復習を欠かさなかったのかを確かめるため、というのが表向きの理由だが、本当は〝できる〟生徒と〝できない〟生徒を新学年早々に振り分けておこうという意図があることを、当の生徒達は薄々ながら勘付いていた。
昨年末の統一模試で県内平均ワースト三という不名誉な結果を残した県立甲斐杜高校では、春休み突入前の全校集会で教頭がブチ上げた教育改革案に全校生徒が騒然となっていた。
いわく「これからは、勉強レベルが一定の水準以上に達している生徒にはのびのびと、そして達しない生徒には可能な限り親身になって、教育を行っていく所存である」
つまりは、出来ない奴は出来るようになるまで補習授業しなきゃならないのか。生徒達は、教頭の意図を正確に見抜いていた。
そして今日の英語の小テストは、そんな教頭への点数稼ぎのために教師が打った一手なのは間違いないだろう。この英語教師は、普段から教頭の腰巾着として生徒の間で噂になっていた人物だった。
その真意がどこにあるのかはさておいても、長期休み明け、しかも新学年始まって早々にいきなり小テストというのはいささか常識外れと言える。生徒としては、一学期の最初の一週間とは新学年への期待に胸躍らせるハレの日々であり、同時にこの先一年間の学校生活を楽しく過ごしていく上で重要な情報収集の期間なのだ。
そんな時期にいきなり押し込まれた小テストは生徒にとって余計な苦労というより他になく、せっかくの晴れやかな気分に水を差す悪意ある異物なのである……。
……と、そこまで夏海がぶちぶちぶちぶちと考えていた矢先、教卓の上の時計が軽やかな電子音を響かせた。
「はい、終了。後ろから答案を集めて」
ごん。
英語教師の声と夏海が机に頭を打ち付けるのはほぼ同時だった。
後ろから背中をつつかれ、机に顔を伏せたまま後ろ手でプリントを受け取り、自分の答案用紙を重ねて前に送り出す。ショックを受けるので、クラスメイトの答案用紙の内容など見たくもなかった。
間の抜けた終鈴が響き、答案用紙を抱えた教師が出て行くのと入れ替わるようにして、二人の女子生徒が夏海の机へと近付いてきた。
「おーおー。打ちひしがれておるねえ若人よ」
長いポニーテールを振りながら夏海の肩をぽんぽん叩くのは、小学校以来の付き合いである
「春休みに入る前にあんな事があったんだから、この展開も予想できたろ? どれくらい書けたんだ?」
「……ぜ………」
「ん?」
「全然、出来なかった……!」
机に顔を伏せたまま、うめくように夏海がつぶやく。
夏海の答えに、桜子の首がカクンと倒れた。
「全然って、全然? まったく?」
「うん……」
「事前に雪乃の山かけ、伝えといたろ。あれバッチシ当たってたってのに……なあ、雪乃?」
「う、うん。大体カバーできてたと思うんだけど……」
桜子に振られ、
いつ見てもふわふわ柔らかそうな長い髪に、透き通るような色白の肌。同じ女でも羨ましくなる
「もしかして夏海ちゃん、身体の調子でも……」
「違うよなー? せっかくの雪乃の山かけも、時間無くて見てなかったんだよなー?」
覆い被さるような桜子の言葉に、ビクリ、と夏海の頭が揺れ動く。
その様子に、雪乃が小首をかしげる。
「……そうなの?」
「……っだあああっ! ごめん、雪乃! その通りなんです!!」
突然、ガバッと跳ね起きた夏海は、傍らに立つ雪乃の細い腰にすがりついた。
「ごめんよう、雪乃ごめんよう。ここんとこ仕事が忙しくて、桜子から貰った雪乃の山かけメモ、ほとんど見る時間無かったんだよう!」
「え、えっと……?」
おいおいと泣きわめきながら腰にがっしりとしがみつかれ、雪乃は目を白黒している。
「な、夏海ちゃん……!?」
「大体だな! ここは日本ですよ、英語圏じゃないんですよ。なのに何で海の向こうのジム君が友達のキャサリンちゃんと町に買い物に出たときの会話を事細かに説明しなきゃならんのか。そんなの知るか、適当にガムでも買って風船膨らませながらキャサリンちゃんとよろしくやってろよ、そうは思いませんか皆さん!!」
天井に向かってがっしりと拳を振り上げ、夏海は高らかに演説する。
何事かとクラス中の視線が集中するなか、その高潔なる宣言を面白そうに見ながら、腕を組んだ桜子が先を促した。
「ほうほう、そりゃ確かにそうかもな。それで?」
「日本の公用語は日本語です、英語じゃないんです! 普段使う必要もない言語を汗水垂らして学ぶ必要なんかどこにもない、あたしはそう思うわけですよ!!」
「おい、商業パイロット……」
呆れた桜子の冷静なツッコミに、雪乃がクスリと笑った。
「空の上じゃ英語が基本なんだろ。なのにどうして英語の小テストくらい出来ないのさ」
「管制用語って基本的に定型文だし、それ覚えとけば後は適当でもどうにかなるもんなのよ。それに英語が必要になるのって東京航空交通管制部とやりとりする時くらいで、玉幡の管制相手だと日本語でも大体いけちゃうし」
「そんなので、これからパイロットとしてやってけるのかよ……」
「だいじょぶ! 必要になったら気合いで覚えるし!!」
「出たよ、夏海の一夜漬け癖が。それに付き合わされる私らの身にもなれってーの」
ぽこん、と夏海の頭のてっぺんにチョップを落とす。
「あいたっ」
「今回は連絡無かったから、てっきり一人で出来るんだって安心してたのに。何で一人で蹴っ躓いてんだこいつめ」
どちらかと言えば直感と気合いと体力技で生きている夏海にとって、基本的に勉強と名の付くもの全般が苦手である。中学では体育を除いてオール二なんて成績を取っていた夏海が、この県立甲斐杜高校に入学できたのも、そして一学年をつつがなく過ごすことが出来たのも、ひとえに傍らに立つ桜子と雪乃の協力があってこそだった。
テストに際しては、学年でも常に首位を連取している雪乃が範囲の山かけを行い、それを使って桜子がみっちりと夏海に指導する。そんな友人達から垂らされた蜘蛛の糸に縋って、夏海は赤点という釜の底から抜け出してきたのだ。
二人のやりとりを耳にして、雪乃は首を傾げた。
「でも、今日の小テストってそんなに範囲が広くなかったはずなんだけど。夏海ちゃん、そんなにお仕事が忙しかったの?」
「ここんとこ、毎日空を飛んでるよ」
頭をさすりながら夏海は溜息をつく。
「学校が終わったらその足で飛行場に行って、すぐにパイロットスーツに着替えてステラに乗り込んで……てのがずーっと続いてるね。そこから仕事終わって後片付けして、家に帰ってくるのは夜の十時過ぎになっちゃうもんだから、とても勉強してる暇が無かったんだよ」
「学校がお休みの日も、朝からお仕事なんだよね。それって身体を壊しちゃいそう」
「あ、いや、仕事自体は近場の簡単な仕事ばっかだし、そんなに大変でもないんだよ。あたしも空を飛べる方が嬉しいしね」
両手をぱたぱたと振って、夏海は言う。桜子がしれっと、
「体力バカの夏海が疲労とか、有り得ないから。こいつの脳みそにゃ、疲れるって感情がどこにもないから」
「ひっど。桜子それひどくない!?」
「事実だろ。午前中に陸上部の県大会に助っ人出場して十km走で優勝、午後からソフトボール部の四番で出場して長打量産とか、あんた以外に出来る奴いないっての」
「は~~」
二人の会話を聞いて、雪乃が目を丸くする。
「何度聞いても凄いよねえ、夏海ちゃんの大活躍。一年の時は、あっちこっちの体育会系クラブから引っ張りだこだったもんね」
「いや、あれはあれで大変だったんだけどね……」
「でも、だったら何でそんなに調子が悪そうなの?」
雪乃の問いかけに、夏海は両手を頭の後ろに回して天井を見上げる。これまで何人もの生徒の体重を支えてきた椅子の背もたれが、酷使に耐えかねるようにギシッと鳴った。
「何で、って理由も特に無いんだけど……強いて言うなら、飽きた、かな」
「飽きた?」
「毎日飛べることは確かに嬉しいんだけど、お姉が持ってくる仕事っていっつも近場の仕事ばっかりでさ。それも畑に農薬を撒く仕事オンリーで、いい加減他の仕事もやってみたいなーってね」
「素人商業パイロットが贅沢言うな」
辛口な桜子の言葉に、夏海の首がカクン、と折れる。
「いやーまーそーなんだけどさー、もっとこーワクワクするような体験をしてみたい訳なんですよあたしゃ。せっかく商業パイロットになったんだから色んな仕事が出来ると思ってたのに、来る日も来る日も薬臭いステラで空飛んでて、いい加減身体から農薬の臭いがしてきそう」
「だったら今からでも辞める? あんたが商業パイロットになって助っ人に入れなくなるって聞いて、体育会系クラブの連中がどんだけ嘆いたことか。ソフトボール部なんか今年は長打力不足で悩んでたから、多分すごく喜ぶぞ」
「……冗談」
夏海は天井を見上げながら、口元に小さく笑みを浮かべた。
「商業パイロットになるのは、ずっと夢見てた事だからね。こんな事くらいで投げ出したりはしないよ、あたしは」
勿論、二人は夏海がそう答えることを最初から判っている。
彼女が商業パイロットを目指して、これまでどれほどの努力を重ねてきたのか。そのことをこの学校で一番よく判っているのは、陰に日向に彼女の試験突破を手伝い続けてきた桜子と雪乃なのだ。
桜子は目の前にある頭をわしゃわしゃと掻き乱した。
「おおおお……!」
「だったら、もうちょい上手くやんなよ。まだ二年生始まったばっかだけど、あんたこの調子だとすぐに教師に目ぇ付けられて、補習授業の常連組に名前入るぞ」
「それどころか三年生に進級もできなくなるかも……」
さらっと怖いことを言う雪乃である。夏海は髪をボサボサに逆立たせたまま、情けない表情を浮かべた。
「うわ……そうなるとお姉ちゃん、怒るだろうなあ……」
「そういえば夏海ちゃん、高校卒業したらどうするの? 大学行くの?」
「行かないよ? 卒業したら、このままウチの会社でパイロット続ける予定だし。まあ、もうステラエアサービスの社員なんだから、卒業したら肩書きから『高校生』ってのが削られるだけかな。本当は商業パイロットになったら、すっぱり学校辞めるつもりだったんだけど」
「……それってすごく寂しいと思う……」
「あ、いや。そう言ってみたんだけど、お姉が高校だけはどうしても出ろって許してくれなかったんだよ。だから辞めない辞めない」
寂しそうな表情を浮かべた雪乃の両手を取って、ぶんぶんと上下に振る。
桜子は顔をしかめながら、その頭にもう一度、今度は強めにチョップを食らわせた。
「あだっ!」
「だーかーら。あんたは何でそう極端から極端に走るんだ。高校通いながら商業パイロット続けるって話もいきなりだったけど、実は高校辞めるつもりだったってのは今初めて聞いたぞ」
「だって……」
「だってじゃない。そういうのは前もって私らに相談するもんだ。何でもかんでも自分一人で決めてちゃ、あんたの友達のつもりだった私らの立場がないってーの」
「……ごめん」
しゅん、としょげかえる夏海を見て、桜子がふっと微笑を浮かべる。こういう正直な性格が夏海の憎めないところなのだ。
桜子はコホン、と一つ咳払いした。
「ん、まあ反省してるなら良し。あんたが同じような仕事ばっかさせられてるのだって、何か理由があるんじゃないの。美春さんにも何か考えがあるのさ」
「……考えって?」
「いや、そりゃ私に聞かれても知らんけどさ……」
その時、三時限目開始の鐘がスピーカーから流れた。校内に長々と余韻を残して響く鐘の音に、生徒達の動きが慌ただしくなる。
「ほれ、次の授業始まるぞ。次の古文もあんたの苦手な科目じゃなかったっけ?」
「──そうだった! 桜子、ノート貸して。宿題ぜんぜん出来なかった!!」
「もう遅いっつーの!!」
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