第二章 春霞の中で 06
*
「──わたしが!?」
ちゃぶ台を拭いていた手を止め、秋穂は水音が響く台所に向かって叫んだ。
時刻は午後十時過ぎ。作業を終えて帰ってきた冬次郎と美春が、残り物で遅い夕食をとった後。
食卓の後片付けを手伝っているところに上の姉から聞かされた話は、秋穂にとって寝耳に水の内容だった。
「なんで!?」
「あーちゃん、中学校でクラブに入ってないでしょう? だったら学校が終わってから、こっちを手伝って貰おうと思って」
「ウチの学校って運動系のクラブが多いし、何が楽しくて放課後まで身体を動かさなきゃ──って、そうじゃなくって!」
身体を動かすことがとことん苦手な秋穂はツインテールの髪をぶんぶん振って、脇に逸れそうになった話を修正する。
「どうしてわたしが、夏ねえのサポートなんかしなきゃならないの!」
「これからなっちゃんが空でお仕事していく上で、どうしても必要だからよ」
台所と居間を隔てる暖簾の向こうから、美春の声が聞こえる。
「今日お爺ちゃんとステラを点検して、なっちゃんの弱点に気付いたの。それを克服しないことには、なっちゃんは安心して空を飛ぶことが出来ないわ」
「夏ねえの、弱点……?」
「そう。そして弱点克服のためには、なっちゃんの飛行をサポートする人間がどうしても必要なのよ」
長姉の言葉に、秋穂はぶつぶつと文句を垂れる。
「だからって、何でわたしが……他にもいっぱい人いるのに…………」
「玉幡で働いてる人ぜんぶ見渡しても、あーちゃん以上にサポート役として適任はいないわよ」
どうしてわたしが適任なのか、そう聞き返す前に、愛する長姉は驚くべき言葉を口にした。
「あーちゃん、たまに管制塔の方へ見学って名目で遊びに行ってるみたいだけど、本当は組合の管制課からお願いされて内緒で管制官やってること、お姉ちゃんが知らないと思ってるの?」
「……な…………」
近所の雑貨屋の紋が染め抜かれた暖簾を、驚愕の面持ちで見る。秋穂の視線を受け止めてなお、暖簾は室内を流れる風に気怠げに揺れるのみだった。
「なんでその事を……!?」
「そりゃあ、月に何度も管制塔に行っていたら疑問に思うわよ。最初は管制の仕事に興味があるんだって思ってたけど、もうすでに管制業務に関わってたなんてね」
「どうして!? 管制課の人達には、絶対に言わないように頼んでたのに!?」
「前から薄々は気付いてたんだけど、決め手になったのはこないだのなっちゃんの初飛行の時ね。管制塔の中で背丈の小さい人影がちらちら動き回ってたのが見えたんだけど、あれくらいの背格好の人は管制課にはいない。すぐにあーちゃんだって判ったけど、見学してるだけなら管制塔の中を自由に動き回れるのはおかしいわ。あれであーちゃんが、管制課の業務のかなり深いところまで関わってることを確信したの」
──そうだった。
あの時は、夏海の商業初飛行を特等席で見ようと管制塔に登った秋穂だったが、甲府盆地の上空を夏海一人に使わせるため、方々からやってくる航空機の整理に忙殺されていた管制官達に、そのまま夏海の飛行管制すべてを押しつけられてしまったのだ。
管制を手伝うときはいつも、秋穂は声音から年齢が悟られないように特注の変声機を使っている。いくら何でも肉親相手には通用しないだろうと思っていたけれど、幸いにしてどこか抜けたところがある次姉にバレることは無かったようだ。
だが、茫洋としているようでいて実は抜け目のない上の姉には、見事に看破されてしまったようだ。
秋穂はちゃぶ台の上に突っ伏して呻いた。
「あああぁああぁあ────ッ! お姉達には絶対に知られたくないって思ってたのに────────────ッ!!」
秋穂が玉幡の管制を手伝うようになったのは今から一年前、ちょうど中学生になった頃だった。
くしくも美春が言った通り、最初は単に興味があって様子を見に行っただけなのだ。
だがその際に、ちょうど玉幡への着陸機を誘導していた管制官の後ろから、ちょっとした一言を挟んでしまったのが運の尽きだった。
『──そこだと横からの風で流されちゃいそうだけど、何か理由があるんですか?』
秋穂の頭には、甲府盆地周辺の地形がすべてインプットされている。
ずっと子供の頃から引き籠もり体質だった秋穂は、代わりに外の世界を知る手段として地図帳を絵本代わりに過ごしてきた。最初は道路と街の名前だけが描かれた簡単な略図だったが、すぐにそれは細かな道路地図となり、等高線が年輪のようにうねる地形図となり、やがて水路図や航空図といった専門的な地図まで読み込むようになっていった。
そして読み込んだ地形を、頭の中に立体像として描き出す。季節毎の風を起こし、時間毎の陽光を差し込ませ、雨や雪や霧で装飾していく。
そうやって完璧な姿で脳内に組み上げた〝もう一つの世界〟へ自分を置いて、誰には憚ることなく自由に旅をするのである。子供が抱えるには誠に辛気くさい性癖で、家族以外の誰にも言ったことはないけれど、秋穂にとっては数少ない趣味の一つだ。
そんな秋穂が見たところ、その航空機が通過している空域は南アルプスの谷間から吹き込んでくる強い横風があるように思えてならなかった。もう少し右に針路をずらせば、横からの風と進行方向の釣り合いが取れるはずなんだけど……。
管制官は、秋穂のふとした質問に目を剥いた。確かに、進入機からは横風が酷く、針路の維持が難しいという報告が上がってきていたからだ。
最初はちょっとした遊びのつもりだったのだろう。
『今から、上空を低い高度で通過する貨物機が一機いる。試しにそいつを誘導してみるかい?』
管制官としては、自分達の職場へ遊びに来た女の子を少しだけびっくりさせてやろう、という程度の認識だったに違いない。愛すべきならず者として知られる玉幡飛行場の住人は、パイロットから管制官に至るまで等しくこういう茶目っ気がある。
しかし、甲府盆地周辺の地形と風の流れを正確に見極め、機体の振動を最小限にしつつ安全かつ効率の良い方角へと貨物機を誘導してみせた秋穂に、管制官たちは腰を抜かす程に驚いた。
そんな芸当を軽々とできるのは、この道何十年というベテラン管制官以外にいない。
しかもこの女子中学生は、誰からのアドバイスも受けず、見よう見まねでこの芸当をやってのけたのだ!
それ以降、万年人手不足の管制課はたびたび秋穂を呼び出して、管制のイロハを教え込む傍ら、内緒で業務の一部を手伝ってもらうようになった。
最初は簡単な誘導だけだったが、やがて本職も尻込みするほど難易度の高い管制も任されるようになっていったのである。
ちゃぶ台に突っ伏したままモゴモゴ呻く末妹に、美春は笑いかける。
「どうして? お姉ちゃん、あーちゃんが管制官として頼られてるって聞いて嬉しかったわよ? しかも『甲州ウィッチ』なんて名前まで──」
「うわあああああああああああ……!!」
美春の言葉に、秋穂は頭を抱えて悶えた。
たとえ視界ゼロの濃霧の中でも、機体がでんぐり返るような暴風の中でも、まるで目の前にいるかのように正確な誘導をしてみせる女性管制官に、いつしかパイロット達は畏怖に近い感情を抱くようになっていく。
彼女が管制業務に就くのは月に一、二度あるか無いかだったが、彼女が現れるのは決まって飛行すら困難な天候の時であり、そして神が福音を述べるかのような正確無比の誘導を与えてくれるのだ。
玉幡飛行場には、神業に近い腕前を誇る謎の女性管制官がいる──。
中には玉幡まで彼女を訪ねてくる者もいたが、管制官達はひたすらシラを切り通し、その正体に触れることができた者は未だかつて存在しない。しかし、それ故に玉幡の女性管制官の噂は尾鰭を加えつつ、半ば伝説に近い形で航空業者の間に膾炙されていった。
そして──付いたあだ名が『
花も恥じらう女子中学生に魔女とは、失礼にも程がある。
日々の安寧こそ無上の喜びとし、一人の凡人として社会に埋没することを良しとする秋穂にとって、『甲州ウィッチ』の二つ名は彼女の平穏な中学生活を乱す危険因子であり続けた。
だって普通の中学生が管制官なんて仕事をするはずがないじゃん!
てゆーか、わたし十四歳の中学生だよ!? 十四歳に仕事任せるとか、しかもその仕事が他人の
わたしは! ただの! 中学二年生だ────ッ!!
「──でも、楽しかったんでしょう?」
「…………は?」
「だって、本当に面白くなくて辛いだけなら、管制課からお願いされても断るはずでしょう。どうして断らなかったの?」
「うっ…………」
痛いところを突かれた。
そう、確かに最初は楽しかったのだ。
頭の中に完璧なもう一つの世界を描き出し、そこに自分を置いて俯瞰できるという秋穂の特技は、いまだに彼女自身では上手く説明が出来ないままだ。
単なるジオラマというにはリアルな世界の中に透明人間となった自分を置いて、あらゆる動きを上から俯瞰しているイメージ、とでも言うべきか。家族の誰に言っても首を傾げるばかりだが、それ以外に説明のしようがなかった。
おかげで、市立
本人としては、地理の成績だけツノが生えていても受験には何の関係もないと思っていたけれど、そんな時に降って沸いた管制官の仕事は初めて自分の特技を活かすことができる得がたいチャンスだったのである。
最近でこそ嫌々やっている管制手伝いだったが、そんな中にも確かな充実感があるのは間違いなかった。
「勘違いしないでね。お姉ちゃん、あーちゃんが管制課を手伝ってるのをダメだって言ってる訳じゃないの。わたしが会社を作ったときに、あーちゃんも自分に出来る範囲で手伝うって言ってくれたじゃない? だから、あーちゃんが管制で使ってる力を少しだけこっちにも分けて欲しいだけ」
「あ、あの手伝うってのは、お掃除とかお茶汲みとかそういう方向での手伝いって意味で──!」
「あら、それなら先に自分の部屋の片付けを先にやってもらおうかしら。あーちゃんに任せてたら、いつまで経っても綺麗にならないんだもの」
「それはわたしが片付けた先から散らかしていく夏ねえに言ってよ!」
言いがかりも甚だしい。
秋穂は同じ部屋を夏海と分け合っているが、整理整頓のスキルが絶望的に無い次姉のスペースはいつ見ても散らかり放題だった。
最近になってその範囲はじわじわ秋穂のスペースを侵しつつあり、何とか部屋の見栄えを整えようとする秋穂との間で終わりの見えないイタチごっこが続けられている。
ちなみに、当の夏海は早々に夕飯を終え、今はひとっ風呂浴びている真っ最中である。
居間のやり取りなぞ露知らず、さっきから僅かにエコーがかった鼻歌が小さく聞こえてきていた。まったく、いい気なもんである。
秋穂は、深く、深く溜息をついた。
まるで魂まで抜け出していくような溜息だった。
「判った、わかったよ……手伝えばいいんでしょ、手伝えば…………」
諦めきったような秋穂の言葉に、美春は暖簾からにゅっと首を出して満面の笑顔を浮かべる。
「流石はあーちゃん、そう言ってくれると思ってたわ」
「でも夏ねえのサポートって具体的にどんなことするの? わたし、飛行機の飛ばし方なんて何も知らないよ?」
「ああ、そういう技術的な事じゃなくてね」
きゅっ、と蛇口の水を止めて、エプロンで手を拭きながら美春が台所から出てくる。
「今はどちらの方向からどれくらいの風が吹いてるのか、とか、もしかしたらこちらの方角から風が吹くかも知れない、とか、そういうことを逐一なっちゃんに伝えてくれたらいいの」
「……何それ」
どんな無理難題を押しつけられるかと身構えていた秋穂は、予想外の言葉にきょとんとする。
「そんなのパイロットなら誰でも出来ることでしょ。そもそも風向きくらいある程度読めるようにならなきゃ、飛行機を飛ばすことなんて出来ないんじゃないの?」
「ええ、そうは思うんだけどね」
美春はちゃぶ台の上に置かれた籠からミカンを取りながら苦笑する。
そろそろ時季が終わりそうな固いミカンを両手で揉みながら、
「あーちゃんにやって欲しいのは、それに加えて飛行計画の作成ね。お仕事をするときに、どのルートを使えば効率よく安全に目的地まで辿り着けるか、これからなっちゃんと二人で考えていって欲しいの」
「あの……わたし、ただの中学生なんですけど。そういうのってちゃんと資格を持った人がする仕事じゃないの?」
資格も無いのに内緒で管制官させられてたわたしが言う事じゃないけどさ、と心の中で付け加える。
「大丈夫よ。だってあーちゃんは家の仕事を手伝うだけなんだもの。サインするのは私となっちゃんだし、外にバレなきゃ何にも問題ないわ」
……そういうもんだろうか。
前から思っていたけれど、玉幡の住人は誰も彼もが国の意向とか法律なんてのを鼻にもかけないところがある。
その誕生の頃から当局と丁々発止のやり取りをしていたが故なのか、玉幡の甲斐賊のみならず空輸業者は一般に、自分たちの間にある暗黙のルールを国の法律よりも重視しているような気風があった。
自分勝手で危険な慣習といえばそれまでだが、長い年月のあいだ日本の厳しい自然条件と戦いながら培われたものだけに、ともすれば机上で編まれた法律よりも安全で効率的な点があるのもまた確かだった。
──でも、それってヤクザ屋さんのシノギと何にも変わらないんじゃないかなあ。
根が真面目な秋穂はそんなことを思っている。
まあ、確かに自営空輸業者なんて非合法スレスレのところを綱渡りしていかなきゃ成り立たないヤクザな職業ではあるのだけれど。
外面こそ純真無垢な上の姉ですら、法律の抜け穴を突く方法を簡単に口にするのだから、この世界に長く浸かっていると考え方まで染まっていくものなのかも知れない。
「染まりたくないなあ……真面目に生きていきたいんだけどなあ………」
「染まる? 何に?」
「ううん、こっちの話……それで? いつから手伝えばいいの」
「あーちゃんさえ良ければ、明日から」
「明日!?」
秋穂は姉の言葉に目を剥いた。
確かに明日は土曜日で午後からの授業はない。クラブ活動をしていないから半日まるまる空いているし、それはそれで都合が良かった。
しかし今日聞いたばかりで早速明日から、というのは幾ら何でも急過ぎやしないだろうか。こういうのは事前にしっかりと勉強してからやる事なのではないのか。
「ま、待ってよ、わたしにも心の準備ってものが……!」
「こういうのはぐじぐじ考えるより、実地で体験するのが一番理解が早いわよ。明日、学校が終わったら真っ直ぐ事務所に来てね。段取りはそこで説明するから」
……間違いない。
長姉は、玉幡の住人の考え方にどっぷり染まりきっている。
事前の準備をさせることなく、いきなり実戦に放り込んで学ばせようとする所なんて、まんま甲斐賊のいい加減な思考法のそれだった。
学校の勉強では予習復習をきっちりとやるタイプの秋穂は、玉幡の住人が持つユルい考え方にどうにも馴染めない。失敗から学ぶより、失敗しないように学ぶ方がずっといいと考える、どちらかといえば慎重な性格なのだった。
──あの時、管制の真似事なんてしなきゃこんな事にはならなかったのに!
返す返すも一年前の自分が恨めしい。
あの時、いつもの慎重さを忘れて管制の仕事を体験してしまったことが全ての間違いだったと思う。あの時から真面目で慎重な自分という印象がかき消され、どこまでも適当でいい加減な甲斐賊の世界に組み込まれてしまったんだ。
きっと、いや間違いなく、そうに違いない。
廊下の向こうから引き戸を開ける音がする。汗を流した真ん中の姉が脱衣所に出てきたのだろう。
夏海の鼻歌はいよいよ興に乗り、家中に響くような大きさで一拍外れた『空の神兵』が歌い上げられる。
女子高生のくせに鼻歌が軍歌とか、あんた本当は酒に酔ったオヤジじゃないのか。
「うるせえ、何時だと思ってんだ! アサリみてえに口塞いでさっさと寝ろ馬鹿野郎!!」
「あっ、ごめ~ん!」
鼻歌よりも余程大きな祖父の怒鳴り声が響き、緩みきった次姉の返答が後を追う。
どこまでも近所迷惑な二人のやり取りを聞きながら、秋穂は深く溜息をついた。
──平穏、欲しいなあ。
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