第3話 猫谷 恵留(ねこたに える)

猫谷ねこたに 恵留えるは不思議な少女だ。話しているときには決して姿を見ることは出来ないし、誰かから姿が見えている時は決して言葉を発することがない。触ってみれば柔らかいし、温かいものの、心臓の脈動を感じることはできない。日を置いて調べてみれば身長や体重は増えているし、髪の長さだって長くなっているから、生きていることは確かなのだろうと思う。たとえ体に一切の力が入っておらず、ぶつかったら死体のように椅子から転げ落ち、放っておいたら何時間でも微動だにしなかったとしても、彼女は生きているのだ。


「ねえ細井君、このノート猫谷さんに渡しておいてくれない?」

「別にいいけど……自分で渡した方が早くない?」

「無言で机の上に置くのもあれだし、返事がないってわかってるのに声かけるのもなんか抵抗があってさ……」


そう言って僕にノートを託すクラスメイト。同じクラスの仲間に対して酷い扱いだと思うかもしれないが、彼女に対するクラスメイトの扱いは大抵こんなものである。

話すことは普通にできるし、嫌ってるというわけでもない。しかし、あるいはだからこそ、返事がない前提で話しかけることや割れ物に触るような変に気を使った接し方をしたくない。

そんな、ある意味好意から生まれた壁が彼女とクラスメイトの間にはあった。


「猫谷さん、ノートここに置いておくね」


クラスの中で唯一の例外は僕だ。


「そういえばこの間お勧めしてくれた本、面白かったよ。主人公のヒロインに対する感情がだんだん暗くなっていっていく過程がすごくよかった。ああいう話はあまり読んだことがなかったから新鮮だったよ。もし同じかんじの本でおすすめのものがあったら教えてもらえないかな?」


彼女は反応しない。


「あれ、今日の髪形は編み込みなんだね。しかも一つ一つの編み目のバランスもいい。朝からセットしてくるの大変だったんじゃない?」


彼女の反応はない。ただ僕が一方的に話しかけ続けているだけ。


「そうだ、英語のテストなんだけどさ、猫谷さんが教えてくれたおかげで前回よかったでしょ?できれば次回のテスト前にも教えてもらいたいんだけどいいかな?」


返事がないことを、反応がないことを前提に、ただただ一方的に話し続ける。当然、彼女が反応することはないが、そもそも反応は求めていないので問題ない。

結局、この時間は先生が教室にやってきて授業を始める直前まで、僕は彼女に延々と話しかけ続けていた。


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「あのさ、細井君。いつも気になってたんだけど、どんなに話しかけても全くレスポンスがない私に話しかけてて楽しいの?」


誰もいない、と言うと少し語弊があるかもしれないが、僕以外の人の姿が見えない教室の中で少し落ち着いた印象のかわいらしい声が響く。


「私はあの状態のときでも意識自体はあるし正直やれることなくて暇だからありがたいんだけどさ、さすがにいつも話しかけてもらってるとなんか申し訳ない気分になってくるんだよね」


声の主はどこにも見当たらない。なので確実に猫谷さんだ。机のわきにかけられたままになっているカバンの存在もその裏付けとなる。


「僕は楽しく話させてもらってるし、迷惑に思うどかろか猫谷さんが迷惑に思ってないかちょっと心配してたくらいだよ」

「前もそういってたけど、いまいち信じがたいのよね……だって私に話しかけるなんてぬいぐるみに話しかけるようなものでしょ?しかも意識があるから人に話せないような悩み事とかも話せないし……。いいとこが全くないじゃない」

「……むしろそこがいいのになぁ……」

「…………え?」


表情が見えなくても口をぽかんと開けているであろうことが容易に想像できる反応を聞かせてくれた彼女に、そのまま話しかける。


「ぬいぐるみに話しかけることだってたまにするけど、やっぱり普通に人に話しかけるより話しやすいし落ち着くんだよね。相手がちゃんと話を聞いてくれるっていう安心感もあると思うんだけど、実際にはぬいぐるみは話なんて聞いてないでしょ?でも猫谷さんはちゃんと話を聞いてくれるし意識だってある」

「それに、こうして普通に話してるときは姿が見えないでしょ?確かに相手の表情を見ながら会話を進めたい人からしてみれば話しにくいんだとは思うけどさ、相手の顔を見ながらだと緊張してうまく話せない僕にとっては電話をしてる時みたいにストレスフリーで話せて楽しいんだよね」


僕にとっていかに彼女と話すことが楽しいか一つ一つ話していく。最初はいぶかしげな雰囲気を放っていた彼女だったが、次第にそれは和らいでいき、しまいには恥ずかしがっているような喜んでいるような雰囲気になった。


「そっかぁ……ほかの人と話すより私と話すほうが楽しいんだぁ……ふへへっ……」

「……ねえ細井君!前々から何となく思ってたんだけど、今ようやく決心がついたよ!どうか私とお付き合いしてください!」

「ずっと気になってたの!みんなからはいないものとして扱われるか必要以上に気を使われるかのどっちかなのに、細井くんだけが普通に接してくれるの!ほかにそんな人いないから、付き合うならあなたがいいの!おねがいだよ!スカトロと四肢欠損と死ぬかもしれないような危ないプレイ以外はなんでもしていいから!」


彼女は何を思ったのか、突然自分の思いを熱弁しだす。


「いや待って、そんな変なプレイを希望するようなやつだって思われてるなら心外なんだけど」

「え?しないの?」

「……するかもしれない」


やったとしても動かぬ肢体に欲情をぶちまけるのがせいぜいだろう。僕のこじらせている性癖なんてネクロフィリアとピュグマリオニズムくらいのものだ。


「……、細井君がどんなアブノーマルなプレイをやりたがるかは一旦おいておくとして。どうかな、私とお付き合いしてみない?」

「考えてみたら特に断る必要性も理由もないんだよなぁ……」

「ということは?」

「付き合ってみようか。とりあえず一カ月付き合って、問題なさそうならそのまま継続ってかんじでどうかな?」

「なんかロマンチックさに欠けてる気がするけど、まあいいやぁ……細井君、これからよろしくね♪」


そういった彼女の声はこれまでに聞いたことがないほど弾んでいて、素敵な笑顔を浮かべていることが見えなくてもわかった。僕が見ることのできない笑顔。それを思うと、喜んでいる彼女の傍らで、僕は何故かいいようのない寂しさを覚えた。



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「ねえ」


ある日の事後、プレイに使った豚の血液(滅菌処理済み)の後始末を終えて部屋に戻ると、全身洗ってきれいにした後の彼女の姿が消えていた。


「なに?」

「この間から言おうと思ってたことがあるんだけどさ……」

「ひょっとして血液プレイやだった……?前にも話したけどしっかり滅菌してるやつだからちゃんと洗い流せば感染症の心配もないし、何なら飲んでも栄養満点だよ?」

「飲むの!?」

「普通に料理に使ったりされることもあるし。ほらこれとか」


パソコンを立ち上げてブラッドソーセージの解説をしているサイトを開き、彼女が見やすいように半歩左にずれて読むスピードに合わせて下のほうにスクロールしていく。


「ほんとだ……こんなのあったんだ、今度作ってみるね」

「うん。楽しみにしてるね」

「……ってそうじゃなくて!血液プレイはいいの!」

「いいの?」

「ほんとはあまりよくないしぶっちゃけ最初はちょっと引いたけどなお君のことならなんでも受け入れるって決めてるからいいの!」


視界に顔を赤くして照れながら、もーっ!と怒る彼女の幻覚が見える。実際にどんな表情をしているのかはわからないが、想像だけでももうかわいい。ちなみになお君とは僕のことである。フルネームだと細井直哉。


「こほんっ!……それはともかく、大事な話があります」

「はい」

「実は…………デキました!」

「……はい?」


何か聞き間違えただろうか。出てました。水道の水を止め忘れていたのかもしれないが、それならこんなにもったいぶった言い方はしないはずだ。

それなら聞き逃したか。晩御飯の準備ができました。ついに卵を片手で割ることができました。ありえなくはないが、この状況を踏まえるとやっぱりあり得ない。


「だから、ついにできたのよ」

「……卵の殻を片手で割ることが?」

「そんなのなお君と出会う前からできたし……そうじゃなくて子供。赤ちゃん。ベビー。キャンユーアンダースタン?」

「なんでわざわざ煽るような言い方するの?それにしても子供かぁ……」

「なに?私との間にかすがいができるのは不満?」


ふざけた言い方をしてはいるものの、その声音からは若干の不安が感じ取れる。おおかた、拒否されるんじゃないかなんてありえもしない想像をしているのだろう。


「いや、それ自体は素直にうれしいんだけどさ。そもそも子供を作れるってことに驚いてた」


僕の見えないところでは家事やら勉強やらで活動しているし、なんなら食事だってしっかりとってる。それ自体は知っているものの、僕がいつも姿を見ている彼女は変な話等身大のお人形か、死後硬直が始まる前の死体のようなものであるので、あまり生きているという実感がない。彼女とは何年も一緒にいたし、これまで特に避妊したことがないにもかかわらずこのような話を聞いたことがなかったので、そもそも彼女との間に子をなすことができるとは思っていなかった。


「そりゃあ私だって子供くらい作れるよ。動けないときは体の機能も止まってるから下手したら一年以上開くとは言え生理だってあるし」

「そうだったんだ……そういえば、子供はどうなるの?止まってる時に一緒に止まるならいつ生まれるかわからないし、止まらないなら栄養足りなくなったりするんじゃない?」

「体感的、って言ったらいいのかわからないけどたぶん一緒に止まるほうだと思う」

「経験的?それはなんで?」

「たぶんそれ。てゆうか、一緒に止まらなかったらそもそも着床しないんじゃないかな?」


着床自体はしたとしても、たしかに育つことができずに流れてしまうだろう。育っている以上、彼女の直感は正しいのだろう。


「それでさ、できれば生みたいんだけどなお君的にはどうかなぁ~って」


それは父親になる覚悟があるかという問いかけで、彼女と籍を入れる覚悟があるかどうかという問いかけでもある。数年間、答えを出すことを躊躇っていたその問いかけに対して、


「そうだね、僕は………………




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とある日曜の昼下がり、仕事の疲れをいやすべく全開にしたカーテンの前でガラス越しの日光を浴びながら昼寝をしていた男の顔に影がかかった。男が目を開けて上を見ると、勝ち気そうな顔つきをした少年が男の顔を覗き込んでいた。


「なあ父ちゃん!おれ、かあさんみたいな忍者になりたい!」


少年はスポーツ選手の夢を語るように、キラキラしたまぶしい笑顔で言う。


「あー、息子よ。いくつか言いたいことや聞きたいことはあるがとりあえず一つだけ。お前のお母さんは忍者でも何でもないただの主婦だぞ」


起き上がって状況を把握した男、父親は頭を掻きながらそう言う。


「え~っ!そんなのうそだよ!だってかあさん隠れ身の術使ったりするし、死んだふりで心臓止めたりしてるじゃんか!そんなのできるのは忍者くらいだってたかし君が言ってたぞ!忍者じゃないならなんであんなことできるんだよ!?」


自分も忍者になりたい!という思いを前面に出して父親に言い募る少年。


「そうだなあ、正直父さんにもなんであんなことができるかはわからないし、多分かあさん自身もいまいちわかっていないことだと思うけどあえて言うなら…………」


父親はそういうと少年から一瞬目を離し、キッチンのほうを盗み見る。


「むかし猫だったせい、かな」


そう言って父親はきょとんとしている少年の頭をやさしくなでる。その視線の先には、父子やり取りを聞きながらクスクスと楽しそうに笑っている母親の姿があった。



















シュレディンガーの猫

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