第3話 過去へ続く鍵

僕は博士課程になった。大学院では、志望通りの研究所に行くこともできた。


工学研究科 時空工学専攻 時空転移研究所


これが今の僕の所属。そして僕は、時間遡行士になることが決まっている。


今からおよそ30年前、うちの大学の理学研究科を中心とした研究チームが新たな物理理論を提唱した。その理論によれば、現在には過去からの「情報」がレコードされており、そのレコードをうまく紐解くことでレコードされた時空を再現できる...端的には過去に行くことが事実上可能になるというものだった。この理論の基礎となる一連の方程式は今では時空方程式と呼ばれている。

この時空理論は世界的に注目され(当初はかなりオカルト扱いされたらしく、当時は学会でもオカルト系と一緒くたのセッションにされたらしい。今でも一定の懐疑論者は存在する)、早急な実験的な再現が望まれた。そしてそれは意外とすぐに訪れた。

21年前、小規模な時空転移に成功したというニュースが世界を駆け巡った。時空方程式を提唱したチームと工学系の分野との合同研究チームがおよそ0.1秒の時間遡行に成功したと発表したのだ。これを契機に、この大学では大規模な改革が起きた。時空理論と時空転移を実現する研究家横断チームを作ることとなったのだ。理学研究科、情報学研究科、工学研究科の協力で「時空転移研究所」が設置された。工学研究科では原子核工学専攻が解体され、その中の量子論を研究していた研究室を中心に「時空工学専攻」が新設された。ちなみに、それ以外の研究室は材料工学専攻、理学研究科、エネルギー工学研究科、にそれぞれ吸収されたらしい。同時に学部でも、原子核工学コースが廃止され、時空工学コースが新設された。


時空転移研究所のもとで時間転移の研究は積極的に進められた。0.1秒の時間遡行から半年経った頃には2分を超える時間遡行が可能になり、そして15年前には年単位での時間遡行に成功した。3年ほどの時間遡行に成功したのだ。

もちろん、この過程で様々な問題が顕在化した。いわゆるタイムパラドックスの回避というものである。時間遡行が現在にどのような影響を与えるかは、時空方程式と過去のレコードから(理論上)導くことができる。そうでなければ、危なすぎて時間遡行なんでできっこない。しかし、現実には遡行した人間のどのような振る舞いが時空レコードに影響するか、完全に評価することは極めて困難であったのだ。そのため、時間遡行倫理というものが定められ、専門家を招聘し、時間遡行倫理研究委員会なるものが組織された。


転移先の時空に極力干渉しない、これが時間遡行の大原則。そのために、時間遡行する人間は過去の人間と極力関わらない、仮に接触しても不自然に思われない、行動に干渉しない。そういった「ルール」の類いが大量に定められた。

だから、僕たちは過去のことを徹底して知る必要があった。現在、時間遡行は1000年単位で行う頃ができる。現在のトレンドは平安時代への時間遡行だ。僕たちはそのために、平安時代というものを徹底的に勉強した。2回生のあの地獄の必修「古文」はそのためにあった、ということに真面目に気づいたのは修士2回生で修論の題目の検討を行なっていたときだった。


時空遡行チームは大きく分けて、時間遡行士、技術エンジニアと研究スタッフ(歴史学者や文学者など)で構成される。時間遡行士は時間転移における要で、時空理論をおおよそ理解し(これには、現在の行動が時空レコードにどのような影響を与えるかの評価が含まれる)、現地での行動をほぼ自力で行えることが条件とされる。このため、時間遡行を行うスタッフはすべて時間遡行士の指示に従うことが定められている。僕は新人に時間遡行士で、担当時空は日本の平安時代中期、ということになった。


今や時間遡行を中心とした時空研究は世界の物理研究の最先端トピックだ。過去の事象から現在に至る因果律を理解することができれば、現在の事象から未来をより正確に推定できると考えられているからだ。文字通り、物理学は「未来を予言する」学問となるのだ。


未来をシミュレーションできれば、意思決定がスムーズに行われると、みんな素朴に信じている。果たしてそれが、良いことなのか悪いこと何かは、今は誰もわからない。それでも、今ある手がかりを求めずにはいられないのが、僕たち研究者という生き物なのかもしれない。


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古文が必修になってつらい 風花ふみ @Fumi-pine

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