第2話 必修を終えたい
後期の『古代日本語基礎2』、『古代日本語基礎演習2』は前期とはうってかわって、引き締まった空気で始まりを迎えた。内容は前期を踏まえてより詳しくなっていくし、前期落とした人たちは後期まで落とすとほぼ留年が確定してしまう(正確には3回生の演習科目と時間が被ってしまい、選択必修を回収できなくなる。こうなると研究室配属時に卒論着手要件を満たさない)ため、後期に取り返そうと躍起になっていた。
一般に、大学生は長期休暇には勉強をしようとしない生き物である。もちろん例外はいる。例えば理学部には長期休暇に入ると、ここぞとばかりに自主ゼミを開催したり、大学間での交流会などを主宰したりするガチ勢が一定数いる(特に理論物理と数学に多い)。しかし、大半の「凡庸な」学生はそんなことには見向きもしない。彼らは期末の試験やレポートで危機感を覚える。そして、夏休みに取り返そうとする。それくらいの計画性はあるが、残念ながらそこまでだ。その計画は実行されることはない。旅行に行き、バイトに勤しみ、朝日と共に眠り日暮れに目覚める生活を繰り返していくうちに、計画は危機感ともに忘れ去れれ、そして気づけば後期の履修登録の案内が来る。
大学生とはそういう生き物なのだ。それはここ、日本で有数の大学と言われるところでも決して例外ではない。
そんな事情もあるので、前期の古文と古文演習の単位を落とした人たちも、その危機感を時間で薄めていくものだと思われていた。ところが、単位を落とした彼らは、9月の上旬から文学部から古文が得意な友人を見つけてきて勉強会を開催していた。もちろん僕も呼ばれたので参加した。とりあえず古文の助動詞から始まり、その後に敬語の確認...といった具合で高校の頃の内容からみっちり復習することとなった。この話は長くなるのでこれ以上は触れないが、10月を迎える頃には概ねセンター試験を問題なく解ける程度の水準になった。
繰り返しになるが、長期休暇特有の怠け癖、それもおそらくこの学部では最も遊びたい盛りになるであろう2回生の夏休みにこれほどきっちりとした勉強会を完遂できたのは奇跡に近い。もちろんきちんと理由はあり、物理工学科なのに古文を落としたら留年、というのが大きいが、それ以上に8月の試験後すぐにあった集中講義で皆のモチベーションが上がったことに由来する。
ここで、少し学科について説明しよう。物理工学科では2回生になる際に、コース分属というものが行われている。ここで、機械工学だとか材料工学だとかの、より専門的な分野に分かれることになる(なお、単位が足りていなくても強制的に何処かに分属される上、成績弱者に選択の余地はないため1回生である程度頑張らないと卒業まで不本意な勉学に励む羽目になる)。10年前に大きなコース再編が行われ、元々人数も少なく影の薄かった原子核工学コースがなくなったりして大騒ぎになったらしいが、現在は6つのコースが存在している(6つしかないのに名前を全部覚えている人は希有らしい。僕も覚えていない)。
僕のいるコースは新設された小規模なコースで、人数も1学年40人くらいしかいない。その多くは大学院に進学し、その中の一握り、成績上位者は他学部と合同で設置された研究所に配属されることになっている、とガイダンス資料には書かれていた。ちなみにその成績要件で最も重視されている科目が古文である、という噂が尤もらしく囁かれていたりするが真偽は定かではない。
説明が長くなってしまったが、このコースでは必修としてその「エリートの分属される」研究所の研究見学が夏の集中講義として1週間ほど割り当てられている。とは言っても、同じ市内の西京区の一角にあるキャンパスのEクラスターという区画に1時間ほどバスで揺られていくだけなので、特に非日常感はない。しかし、それでも実際の研究を目の当たりにした衝撃は大きく、2回生の間には「真面目にやらないとここには配属されない(なぜなら成績は古文を重視すると噂されているから)。」という空気が醸成され、そしてみんなして真面目に後期の講義に取り組むことになった。
後期の古文は前期にも増して難易度が上がっていた。文法は理解していて当たり前、そこから当時の暮らしぶりや文化について理解すること、さらにくずし字なるものを読めるようにならなければならなかった。もうここまで来ると理不尽を通り越して暴力なような気もするが(源氏物語を多少読めるだけじゃあかんのか)、落としたら留年になるのだから食らいついていくしかない。夏の勉強会メンバーたちは、流石にここまで難しい講義になるとは思っていなかったらしく、努力の甲斐なく5回目あたりから一人また一人と脱落していった。
正直、2回生後期は散々なもので、古文の講義では単位取得率が2割を切ったらしいと聞いた。このコースに8割の人間を留年させるキャパがあるのかはわからないが、これが単位の実質化というやつなのだろう。もしかしたら愛国教育なんてものも兼ねているのでは、なんて噂も囁かれていたが、これは担当教員が政権をこれでもかとこき下ろしていたので多分違うと思う。
僕たちは、よくわからない都合で振り回されてよくわからない理由で理不尽に留年の危機にさらされている。
このときはそう思っている人が少なからずいた。考えれば当たり前の事実に、目を向けようともせずに。
この後、僕は留年することもなく、他人から見れば順調に進級し、卒業し、そして大学院で研究を始め、博士課程に進むことになった。
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