虚ろの神子 8
整然としているようでアンヘルは随分と入り組んだ街だったのだと、リューグはこの日初めて知った。表通りならば目印となるものも多く分かりやすいが、少しでも横道に入れば路地は不規則に折れ曲がるし、不法に建てられた小屋が景色を乱すし、壁が崩れて通れない箇所もあった。仮にリューグが地図を持っていたとしても、役立たずの代物だったことだろう。もっとも、アンヘルに限らず栄えた街ならばどこも似たようなものなのかもしれない。豊かな文化の中で生活できる人間と、それが出来ない人間の世界は隔絶されているものだ。富める者はわざわざ足元を見たりしない。だからこうなる。
そんな雑多な道を、案内人の後ろについてどれほどの間駆け回っただろうか。何度も同じような場所を通り、時には穴を潜り抜け、先を行く男がようやく足を止めたのは酒場と思しき建物の前だった。そうと判断できたのはおざなりにぶら下がった看板と漂う酒気のお陰で、外観はその辺の寂れた民家と大差はない。塗装の剥がれた屋根に黒く汚れた壁。底辺の労働者がささやかな快楽を得て溢れるほどの不満を吐き出していくのに相応しい、陰気な店だった。
「さて、着いた……が、ちょっとこれ
しげしげと酒場を観察してた視界が、唐突に遮られた。案内人の男は自分の外套をこちらに被せると、千切れそうなほど頭巾を強く引っ張りリューグの顔を隠した。
「これじゃ前が見えない」
「少しの間だから辛抱しろ。無関係な客がいるかもしれないから」
有無を言わさずリューグの外套を整えると、男は酒場の扉に手をかけた。仕方なしにリューグもそれに続く。
外観から想像できる通りの音を立てて開いた扉の内側は、酷い臭いがした。外にまで漏れ出ていた酒の臭いと汗と埃、あとは吐瀉物か何かだろうか。視線だけで店内を見回すと、臭いの元であろう男たちが酔い潰れているのが見えた。小さな卓に所狭しと酒瓶が置かれ、飲食した後の皿が汚らしく積み上げられている。仰向けに椅子に凭れた一人の手には、物騒にも抜き身の剣が握られていた。それを見て、リューグは酒場の印象に一部情報を付け加える。底辺の労働者が集うのは間違いないが、脛に傷を持つ者が特に多いようだ。
「親父さん、今戻ったよ」
案内してきた男はといえば、カウンター越しに店主らしき人物に話しかけていた。見慣れた光景であるらしく他の客には目もくれない。店主は億劫そうに返事をして振り返ると、男を見て瞠目した。次いでリューグに視線をやり、今度は眉を顰める。
「……遅かったじゃねぇか。そいつはなんだ?」
「あー、新人、かな。ほら、雑用が一人使えなくなって困ってるって言ってただろ」
「ふん。だったらひとまず倉庫の掃除でもさせておけ」
そう言い放つと、店主はこちらを手であしらいカウンターを出ていってしまった。すれ違う間際、男に何か囁いたようだったが、聞き取ることはできなかった。男はリューグをカウンターへ招き入れ、奥の扉へと向かう。
「ほら、親父さんは客の相手をしてるから。行くぞ新人」
「……どういうことだ?」
いつの間にここで働くことになっているのか。そう目で問うと、男は黙ったまま肩を竦めただけで先へ進んでいく。カウンターの奥の部屋の更に奥、扉とも呼べないような古めかしい板を動かすと、地下へと続く階段があった。男はその階段を数段下ると、ついて来い、と手振りでリューグに示した。階段は狭く、下るにつれてじっとりと空気が重くなっていくのが分かったが、意外にも塵が溜まっているようなことはなかった。それなりの頻度で人に使われている場所なのだ。
思ったより長かったその階段を抜けると、開けた空間に辿り着いた。先程言っていた倉庫がここなのだろうか。店の規模の割には広い気がする。雑多に積まれた木箱や樽の上には、いくつか角灯が置かれている。その光に照らされて数人の男女がたむろしているのが見えて、リューグは思わず息を呑んだ。闖入者の足音に、彼らが一斉に振り向く。
「おいおい、そんなに怖い顔するなって。俺だよ、遅くなって悪かった」
張り詰めた空気を意に介さず、リューグを案内した男は軽く手を上げて笑った。その仕草を見た彼らの緊張が、見る見るうちに解けていく。そのうちの一人が張顔し、男に駆け寄った。
「カミル! もう戻って来ないかと思ったぞ」
「まぁ、色々あってな」
仲間に肩を叩かれながら、カミルと呼ばれた男はリューグに目を向けた。合わせて、その場にいる人々の視線がリューグに集まる。敵意、とまではいかないが針で肌を撫でられているようだった。歓迎されているとは言い難い雰囲気だ。匿ってやると言っていたが、どうも雲行きが怪しい。
「これ、もう取っていいぞ」
身構える暇も与えられず、リューグは頭巾を剥ぎ取られた。目の前を遮る布が消え、視界が広がる。お陰でその場にいた面々の動揺がはっきりと見て取れた。座ったまま後退る者、口元を覆う者、中には無反応や首を傾げる者もいたが、大半の人間はリューグの顔を知ってると見えた。これは、いよいよ不味いのではないか。
「おい、どういうことだ! なぜ神子がこんな所にいる!?」
「まさか教会と繋がっていたのか!」
薄暗く寂寞としていた空間が、にわかにざわつき始めた。宥めようとしたカミルが何度か口を開きかけたが、半端な唸り声にしかならない。どういうことかなどこちらが聞きたいくらいだ。非難や疑問の声が飛び交う中、リューグは少しずつ後退する。教会の追手ではなくても、関わらない方が無難な相手と見えた。混乱している隙に抜け出せるだろうかと、機を窺っていた時だった。
「――うるさい」
その一声で、不思議と場が静まり返った。女の声だ。高すぎず低すぎず、落ち着いた、それでいて芯の通った声だった。その強い響きの元を探すと、壁際で佇む一人の女が目に付いた。腰ほどまで伸びた黒髪。角灯の光を反射する、切れ長の琥珀の双眸。服装は少し丈の長い上着と男が着るような素っ気ない造りの
「……助かったよ、シェーラ。やっぱり美人の言葉は効くな」
「軽口はいい。経緯と目的を説明して」
カミルの愛想笑いを彼女がそう跳ねのけた瞬間、目が合った。心臓が大きく脈打つ。全身の血潮が騒ぎだし、リューグに何かを訴える――なのに、その声が聞き取れない。身体が内側から喰い破られるような衝動があった。喉が痙攣し、自分でも分からない何かの音を叫ぼうとする。けれどそれは、彼女が目を逸らしたこととカミルが再び口を開いたことで形になり損ねてしまった。
「あの後どうにか逃げ出したんだけど、戻る途中で出くわしたんだよ。なんだか知らないが教会に追われてるみたいだから、上手くいけば取り込めるんじゃないかと思って連れてきた」
「どうして神子が教会に追われるのよ。取り込める保証はあるわけ?」
「さあ? 少なくとも、お忍びの神子様を迎えに来たって雰囲気ではなかったし、こいつは自分の意志で『魔女の処刑』をぶち壊した。賭けてみるのは悪くないだろう」
そこで一度会話を区切ると、カミルはリューグに向き直った。
「そういう訳で、匿う代わりに俺たちにご協力頂きたいんだよ。神子様」
神子様、と呼びかける声には揶揄するような響きが含まれていた。教会の人間たちと同じだ。口先だけでリューグを敬い、その裏ではこちらを侮っている。不快感が沸々と湧き上がってきたが、どうも抜け出す機を見失ってしまった。逃亡を手助けに多少の恩は感じていることもあり、渋々ながらリューグは口を開いた。
「……お前らは何者なんだ。俺に何をさせたい。話を聞かないことには答えられない」
「おっと、確かに。まずはそこからだったな。心して聞けよ」
どこかおどけた口調で言ったかと思うと、次の瞬間カミルの周りの空気が変わった。軽薄さは消え、碧眼に鋭い光が差す。浮ついたような印象は一変して、まるで爪を研ぎ狩りを待つ獣のような眼差しだった。挑むようにリューグを睨み、カミルは仰々しい動作で仲間たちを示しながら告げた。
「俺たちは〈
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