虚ろの神子 2
起き抜けはいつも、夢と現実の境目が曖昧だ。柔く身体を包む寝具と紗の天蓋、碌に使われない文机に書棚、微かに鼻腔をくすぐる香の匂い。それらを徐々に認識して、ようやくリューグは自分がいる場所を思い出す。ジスアード神聖国、王都アンヘル。リディム教の総本山たるアゼリア教会の、自分にあてがわれた一室である。路地裏の腐臭も、泥と埃に塗れた手足も、ここにはない。既に見えぬ世界まで遠ざかっていた。あの少女――いや、少女だったっだろうか。それすらもう思い出せなくなっている。分かるのは、あの夢が自分にとって大切な何かだったということ。それだけだ。
ぼうっと中空を見つめていると、夢の残滓を遠ざけるかのように扉を叩く音が聞こえた。リューグは窓の外に目を向け、随分と日が高くなっていることに気付いて舌打ちした。この後のことを考えるとそれだけで気が滅入る。胸の内に苦いものが広がるのを感じながら、リューグは寝台から足を下ろした。その間にも痺れを切らしたらしい訪問者が、再度扉を叩く。
「神子様。ヨルクでございます」
「……起きてるよ」
名乗りを上げる声に渋々ながら応えると、ほどなくして扉が開いた。先頭に立つ痩せぎすの司祭に続き、三人ばかりの男女が荷物を抱えて入って来る。彼らは部屋に踏み入るなり、いそいそと荷を解き始めた。出てくるのは煌びやかな布、仰々しい杖、鮮やかな色彩の装飾品の類などだ。それらに顔を顰めるリューグにおもねることもなく、ヨルク司祭は目を細めて急き立てる。
「お召替えを。あまり時間がありません」
「着替えくらい自分で出来る。こんな派手なの着なくたっていいだろ」
「今日という日に、そういうには参りません。お分かりでしょう」
淡々と、しかし有無を言わさぬ語調で迫られ、リューグは溜息を吐きつつ従僕たちに身を任せた。
寝衣を剥がされて身を清められ、肌着の上に足元まで覆う長衣を纏う。そこから更に金糸銀糸の縫い取りがされた分厚い外衣を羽織り、同じく細やかな刺繍と鮮やかな染色が目を引く帯を肩にかける。半端に伸びた髪は丁寧に梳って撫でつけられ、頭には宝石のついた金の額飾りが嵌められた。全ての装飾の基調となっているのは、青だ。部分的な差し色や濃淡の違いはあれど、青に統一されている。リューグ自身の持つ色に合わせて仕立てられたのだろう。髪も目も、夜空を薄めたような色をしていた。神聖なる青き神子――一部では、そんな渾名もあるらしい。
「……よくお似合いです。神子様の麗しき姿を拝謁できることに、民も喜ぶことでしょう」
一通り仕上がったリューグを見てヨルクは賞賛したが、リューグは姿見の中の自分に吐き気を覚えた。衣装の作りこそヨルクが着ている司祭服と似ているが、飾りが多すぎて目が痛くなりそうだった。体重も倍になったような気分だ。
「神子様」
どこか棘のあるヨルクの呼びかけは、リューグの心中を察してのことだろうか。文句の一つや二つも言いたいところだったがすんでのところでそれを堪え、リューグは足にまとわりつく布を蹴飛ばすように歩き出した。
「時間ないんだろ。さっさと行って終わらせる」
「御意に。参りましょう」
慇懃に頭を垂れるヨルクを一瞥して、リューグは歩を速めた。そう、気が進まないことは早々に終わらせてしまうに限るのだ。神子と呼ばれるのに気乗りしたことなど、一度もなかったけれど。
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