虚ろの神子 6

 他ならぬ自らの叫び声で、リューグは目を覚ました。伸ばした手の先には何もない。まるで全力で走った後のように息は上がり、顎には汗が伝っていた。先程まで自分は誰かに呼び掛けていた。必死に追いかけていた――いや、違う。リューグは確かに寝台に入ったはずだ。夢だ。夢を見ていた。鮮やかなまでの光景が今し方までそこにあった。なのに瞬きの間にそれは跡形もなく消え失せてしまう。いつもの、夢。

 そこでふと、リューグはおかしなことに気付く。

「あれ、なんで」

 逃げていく夢の端を掴もうと手を突き出したまま、リューグは立ち尽くしていた。右手には規則的に窓が並んでいる。その向かいの壁には厳めしい扉が同じようにいくつか鎮座していた。暗くはあるが一定の間隔で火が灯されているようで、辺りの様子を窺い知れる。弓形の天井では装飾性のある梁が交差し、柱に繋がる部分には誰とも分からない女の彫刻がリューグを見つめていた。教会の中なのは間違いないが、どう見ても自分の部屋ではない。ヨルクが出ていったあと寝台に倒れ込み、一歩も動いた記憶はなかった。服装も眠る前のものと変わらない。誰かに連れてこられたのだろうか。それにしては状況が奇妙で目的が見えない。もしや、これも夢の続きだろうか。だが、汗でべとつく服と未だ落ち着かない動悸があまりに生々しい。だとすればリューグが自分でここまでやってきたことになるが、自室の周りには監視の兵がいる。奴らが何事もなくリューグを外に出すはずがない。そもそも意識がない状態でどうやって歩いてきたというのか――そこまで考えて、リューグは一つの可能性に思い至った。

「……〈聖呪〉?」

 半信半疑の呟きに応えるように、右手が熱を持った。薄闇の中でやけに赤々と紋章浮かび上がる。あらゆる奇跡を具現化する、神の恩寵。夢の中で何かを追いかけるリューグの願いを叶えるように、こんな場所へ連れ出した。直感でリューグはそう確信した。だが普段は沈黙している〈聖呪〉が、なぜ今になって。

「――ああ、まったく忌々しい!」

 不意に闇を震わせた人の声に、リューグは思考を止めた。誰かに部屋の外にいるのを見咎められたか。しかし辺りに人影は見当たらない。代わりに目に付いたのは、近くの扉の隙間から漏れ出る光だった。微かにだが物音が聞こえる。声はそこから響いたようだった。一抹の興味を引かれ、リューグは息を潜め恐る恐る扉に耳を寄せた。聞き間違いでなければ、先程の声はマリウスだ。

「どいつもこいつもさして役にも立たん牙を剥きおって。計画は崩れずとも面倒が増える一方だ。奴はどうなっている」

「混乱に乗じて市民の中に紛れたようです。追わせていますが、未だ足取りが掴めず……申し訳ございません」

 不機嫌を隠しもしない声はやはりマリウス、応じるのはヨルクだろう。一瞬自分の話かと身構えたが、どうも違うらしい。話の流れからすると彼らにとって都合の悪い人物が逃亡したようだ。ふと、名も知らぬ無実の『魔女』の姿が脳裏をよぎる。混乱というなら十中八九リューグが台無しにしてやった儀式のことだだろうし、そうとなれば思い浮かぶのは彼女である。悪趣味な茶番に付き合わされた同士が教会に意趣返しをしたというなら、これほど愉快なことはない。しかし、面白がっていられたのは僅かの間でしかなかった。

「よい。目障りであるのは確かだが、正体にも見当はついている。処刑が行われなかった以上、奴らも派手なことはできまいよ。神子に絡めた美談の一つでも流布すれば、民衆は納得しよう」

「御意。ところで猊下……その神子様のことですが」

 今度こそ己のことが話題が及び、リューグは身を強張らせた。浅くしていた呼吸を更に抑え、耳を澄ます。

「日毎に反発が強くなっています。このまま閉じ込めておくのは難しいかもしれません。方法を改めるべきなのでは?」

 憂うようにヨルクは声を落として告げた。対してマリウスは、大したことではないと部下の諫言を一笑に付す。

「何のために秘薬まで持ち出したと思っている? いくら気に食わなかろうとどこにも行けまい。〈聖呪〉を扱うこともままならず、頼るあてもない。飢えず、凍えずにいられるだけ教会の方がましとあやつも考えるだろう。目的を達してしまえば後はどうとでもなる」

「ですが、あれを神子として立ててもう一年になります。記憶を奪ったとはいえ、十六、七ともなれば自我も強くなる年頃でしょう。秘薬も残り少ない。もし記憶が戻ってしまったら――」

 腹の底が急激に冷たくなった気がした。ざわついていた感情すら一瞬で凍りつく。記憶。薬。ヨルクの発する言葉で全てが符合していく。夢の断片。思い出せない名前。それらは単に失ったものなのだと思っていた。だが違う。失ったのではなく、奪われていた。

 反射的に一歩後退り、爪先が扉を掠めた。響いた音は微かだった。人の気配のある日中なら、気に留める者はいなかっただろう。しかし今は夜半だ。些細な物音が驚くほど際立って聞こえる。リューグがマリウス達の声を拾ったように。

「今、何か物音が」

「おい、そこで何をしている!」

 扉を隔てた場所でヨルクが首を傾げたのと、巡視でやってきたらしい男がリューグを見て声を上げたのはほぼ同時のことだった。心臓が大きく跳ねる。飛びのくように扉から離れると、荒々しく足音を立ててやって来る男と視線がかち合った。男の目が見開かれる。

「なっ、神子!?」

 リューグは思わず舌打ちした。教会の紋章の入った皮鎧は上層の人間の装いには見えないが、向こうはこちらの顔を知っていたらしい。だが、問題はこちらではない。

「ああ、なんということでしょう。どうやって部屋を抜け出したのですか」

 よく知った声だった。元々抑揚の少ない、ともすれば無愛想とも取られる喋り方の男だ。けれど、これほど怖気が走ったのは初めてだった。

「やはり、薬を飲まなかったのですね」

 廊下より少しだけ明るい光を背に、ヨルクはリューグを見下ろした。そこには怒りも呆れもなく、感情が消え失せたような眼差しがあるだけだった。その後ろにはマリウスがいる。リューグからは見えないが、そちらも大差ないか、また面倒が増えたとでも言うように顔を顰めているに違いない。いずれにしても、リューグの取る選択は一つだけだった。

 ――逃げなくては。大切なものが眠っているはずの記憶。それを奪ったというなら、彼らは明確にリューグの敵だ。

 伸ばされたヨルクの手を払いのけ、リューグは全力で駆け出した。背後で叫び声が聞こえる。増援を呼ぶのだろうか。数で囲まれればひとたまりもない。なにせリューグは、今いる場所が教会のどの位置にあたるのかさえ把握できていないのだ。気が付いたらここにいた。無意識の奇跡に運ばれただけのこと。

 〈聖呪〉、〈聖呪〉よ。ここまで導いたのならば道を作れ。衝動のままに駆けながら、リューグは強くそう念じた。ままならない力。だが今宵は、夢を追う宿主に応えるようにここへ運んだ。それならば。

「俺を、連れて行け……!」

 息を切らしながら、見えない力に命じる。ただ、あるべき場所へ戻るために。

 闇雲に廊下をひた走る。だが気持ちに身体がついていかない。床の微かな凹凸に引っ掛かり、リューグは宙に投げ出された。浮遊感に呑まれるその瞬間、右手の紋章が熱を帯びた気がした――。

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