虚ろの神子 10

 目を開いた時には、既に陽が差し込んでいた。いくつかの廃屋を転々とし、ここと定めて住み着いた建物にはまともな屋根がある。とはいっても管理を放棄されて久しい空き家だったから、そこかしこに建材が劣化して出来た穴があった。真上から届く光が俺のぼやけた視界を照らし出す。何度か目を瞬かせると、傍らに見慣れた少女の影が見えた。

「やっと起きたの? 相変わらず寝穢いぎたないんだから」

 身じろぎした俺に気付いて、少女が声を掛けた。少し呆れたようなその声音に、俺は安堵する。

「誰かさんが帰ってこないから夜中まで待ってたんだよ。いつ戻ってきたんだよ――」

 文句を言いながら寝床から身を起こす。その瞬間、これは夢だと理解した。呼びかけたはずの名前が聞き取れない。彼女の名前が、分からない。

「別に待ってなくていいわよ。どうせ起きてられないんだから」

 少女は肩を竦めてはぐらかした。肝心な質問には答えない。最近、ずっとこんな調子だ。陽が傾きだした頃にふらりと出掛け、夜中あるいは朝方に戻ってくる。何をしているのか、と尋ねても教えてくれた例がない。どんなことをしていたとしても彼女が俺の恩人であり、傍にいると決めた人であることは揺るがないが、日に日に顔色が悪くなっていた。たまに出掛けない日があっても夜にうなされている。薄らと隈も出来ているようだった。今にも倒れてしまうのでは、と俺が気を揉んでいるのを、彼女は分かっているのだろうか。

「……大丈夫なの?」

 投げかけた声は、自分で思ったより弱々しかった。もし彼女がいなくなってしまったらと考えると、世界が闇に覆われていくようだった。出会った頃に比べれば俺にも知恵はついているはずだが、彼女のいない場所で生きていける気がしなかった。一緒にいることに利があるだとか、いないと困るだとか、そんな理由ではない。もっと大きな何かだ。それを表現するために相応しい言葉を、俺は見つけられなかったが。

「あんたが心配するようなことじゃない。それよりちょっとこっちに来なさい。髪の毛爆発してるわよ」

 結局具体的なことは言わないまま、少女は俺を手招きした。はぐらかされていると感じながらも、俺はいざって少女に近寄り身を委ねる。伸ばしっぱなしで好き放題跳ねている俺の髪を、細い指が梳かしていく。頭を往復する感触が心地よく、いつしか俺は再び微睡み始めていた。重くなる瞼に逆らえず、眠りへと落ちていく――。

 そして、俺は今度こそ目を覚ました。

 ぴしゃり、と顔に何かが当たった感触がした。冷たいものが張り付いて鼻と口を塞ぎ、呼吸を妨げられる息苦しさでリューグの意識は覚醒した。背もたれにしていた木箱に頭をぶつけて呻きながら、顔面に張り付いていたものを引き剥がす。正体は濡れた手巾だった。目覚めの一部始終を見ていたらしい人物の忍び笑いが聞こえる。シェーラだ。

「おはよう。目覚めの気分はどう?」

「最悪だよ。窒息させる気か!」

「悠長に寝てるからよ。寝首を掻かれても知らないわよ」

 冗談とも警告とも取れる言葉を口にしながら、シェーラは麻袋を投げて寄越した。中には平たいパンと、干し果物が少量入っていた。本日の食事、である。リューグは先程の手巾を絞って雑に顔を拭うと、渡されたパンに齧りついた。固くて飲み込むにも苦労する代物だったが、腹には溜まる。食える物があるだけましというものである。

 カミルたち〈天使アンヘルの牙〉と約定を交わしてから、十日ほどが経つ。その間、リューグは地下倉庫から一歩も外に出ないまま待機、もとい、軟禁生活を送っていた。とはいえ、民の間で魔女の処刑騒ぎのほとぼりが冷めるまでは出歩かない方がいい、というカミルの言はもっともだったので、リューグも素直に従っている。入れ代わり立ち代わり訪れる〈牙〉の面々が鬱陶しいくらいなものだ。彼らは幾らか食糧を差し入れ、疑問や嫌味を思い思いに口にしながら、しばらく居座ったのち次に来る仲間を待って去っていく。監視の意味合いが強いのだろうが、訪れた中には医者だと名乗る者もいた。記憶を取り戻したいというリューグの思いを一応は尊重してくれたらしい。だが問診の結果、医者は早々に匙を投げた。曰く、意図的に記憶を奪うなど人間の業ではない。それが本当なら飲まされていた薬に〈聖呪〉が込められていたとしか考えられず、一介の医者にどうにか出来るものではない、とのことである。

 だがそれを聞いても、リューグは失望しなかった。教会を出奔して以来、例の夢――恐らくは記憶の欠片を垣間見る頻度が増しているからである。見える情景も、以前は同じ場面の繰り返しだったものが違うものを映し出し始めていた。つい先程もそうだったはずだ。目覚めれば霧散してしまうのは相変わらずだが、微かな残滓にリューグは変化を感じ取っていた。元凶から離れたことでそうなっているなら、いずれ断片だったものが一つになって戻ってくるのではないだろうか。希望が少しずつ形になりつつある。

 しかし、今は何か行動を起こせるわけでもない。となると現状で一番気にかかるのは〈牙〉の動向だった。納得したこととはいえそろそろ倉庫生活にもうんざりしているし、彼らが具体的に自分に何をさせるつもりなのかも分からない。

「……なぁ、いつになったら外へ出られるんだ?」

 パンの最後のひとかけらを嚥下し、何をするわけでもなくこちらを観察していた女に疑問を投げかける。シェーラは空になった麻袋を丸めながら、軽く首を傾げて見せた。実のところ、この質問をするのは今が初めてではない。何度か同じようなやり取りを交わしているが、答えはいつも同じだ。『私にも分からない』である。深々とした溜息と共に告げられたその言葉は、嘘を口にしている風でもなかった。

 ほぼ唯一といっていい女手であるせいか、シェーラがリューグの面倒を見る頻度は他の〈牙〉の面々より遥かに多かった。その分打ち解けた、とまではいかないが、他の人間よりは話しやすく、信用できるような気がしていた。少なくともリューグの不快感を煽るような言葉を敢えて吐きかけたり、逆に妙に怯えた目でこちらを見るようなこともなかった。彼女はただ静かだ。余計なことは話さない。かといって無視をするわけでもない。声を掛ければ何かしらの反応は返してくれる。この距離感は正直有難かったし、お陰で比較的平静を保てている気がする。

 ――初めて目にした時のような衝撃はあれ以来ない。今となっては何かの勘違いだったのかと疑うほどだが、もう少し彼女を知りたいという思いは常にあった。話をするうちに分かることも何かあるかもしれない。

「……あんたは他の奴らと違って随分と俺に甘いな。どうしてだ?」

 半身ほどの距離を置いて腰を下ろしたシェーラに、リューグは思い切って尋ねた。いつもなら静寂が流れるはずの時間に、こうやって話を振るのは初めてかもしれない。シェーラは暫しの沈黙の後、徐に口を開いた。

「別に、そんなつもりはないんだけど……まぁ、私もあんたと似たような立場だから。他の連中と感覚は違うかもね」

「似たような、って?」

 大して彼女のことを知っているわけではないが、果たして自分と共通点があるだろうかとリューグは首を捻った。少なくとも自分のように囚人まがいの待遇を受けているとは思えない。そんな言外の疑問に答えるように、シェーラは付け加えた。

「あいつらと同じ志があるわけじゃないけど、取引で協力してるってこと。便利な人材としてこき使われてるけど、同時に警戒もされてる」

 確かに、仲間になった覚えはない、という言葉を聞いたような気がする。ここへ連れてこられた時の遣り取りの中でのことだ。言われてみれば、似ているかもしれない。

「そのわりにあんたは自由にしてるように見えるけど。俺と違って」

 つい、恨みがましい台詞が口をついた。状況は理解し納得もしたが不満がないわけではない。外に出られるなら出たいのは事実である。そんなリューグに、シェーラは気怠そうに答えた。

「そりゃあね。私を閉じ込めたら意味がないもの。仕事ができない」

「仕事?」

 問い返すと、シェーラは少しだけ口角を上げて言った。

「情報屋、ってやつね。些細なものからきな臭いものまで情報を集めて、必要としている人間に売る。魔女の処刑は私が詳細を調べてやったし――今だって、神子から教会の情報を吐かせろって言われて来てるのよ」

 囁くようにシェーラが告げた事実に、リューグは軽く瞠目した。道理で彼女がよく訪ねてくるわけである。知らぬうちに罠にかけられた、というわけだ。といっても、教会でもリューグに自由はなかったから喋ることなど殆どない。ついでに、リューグとしては教会、ひいては教皇に何があっても些かの痛痒も感じなかった。回りくどいことをするものだ。

「へぇ。何か収穫はあった?」

「これっぽっちもなかったわね」

 そう言ってシェーラは白々しく溜息を吐いた。当然である。わざわざ自分の役割を明かしたからには、彼女も察しているのだろう。

「役に立てなくて残念だよ」

「ろくなこと知らないだろうって最初から分かってたわよ……けど、あんた」

 シェーラが何かを言いかけた瞬間、扉の軋む音が倉庫に響いた。反射的にそちらに目を向けると、現れたのはカミルだった。やけに多い荷物を背負ってきた彼は、並んで座るリューグたちを見て目を丸くした。

「知らないうちに随分仲良くなったみたいだな。結構なことだが」

「別に。それよりその荷物はなんなの」

 カミルに応えてシェーラは腰を上げ、リューグの隣には空白だけが残った。彼女は何を言いかけたのだろうか。水を差された会話を名残惜しく思いつつ、リューグもカミルを見遣った。シェーラとはいずれまた話をする機会もあるはずだ。

「いいか、よく聞け。ここを出る」

 背負ってきた荷物を下ろすなり、カミルは神妙に告げた。落ち着いたから出掛けていい、という話でないことは、彼が帯剣していることですぐに察した。

「唐突だな。外の様子はどうなんだよ」

 平静に返したつもりだったが、声に不機嫌が滲んだ。カミルは脅しをかけてきた人物としての印象が強いし、外部の情報もろくに与えず閉じ込めていたかと思えば急に移動するというのだ。せめて情報を寄越せと思うのは自然なことである。

「兵が動き出した。まだここが見つかったわけじゃないが、そろそろ潮時だ」

 リューグの不機嫌など気に留めた素振りもなく、カミルは荷を広げ始めた。それ以上の説明はない。代わりに説明を引き継いだのはシェーラである。

「これまで教会に大きな動きはなかったのよ。神子の行方不明は伏せたまま、魔女の処刑に関しては神子によって浄化されたとか説いて回ってた。でも目が覚めた連中が思ったより多くて、神子の足取りも掴めず、そろそろ焦り始めたってところでしょうね。なら、さっさと逃げるべき」

「そういうこと。というわけで着替えろ」

 シェーラの言葉に同調しながら、カミルは何かを投げて寄越した。反射的に受け取ったそれを広げてみると、簡素だが丈夫そうな衣服一式だった。着古した風の上衣チュニック下衣ズボン、頭巾付きの外套。大荷物の中身はこれだったようだ。リューグだけでなく、カミル自身やシェーラの分もあるようだ。酒場の出入りを誤魔化すためらしい。

「身動きが取れなくなる前に、隊商に紛れて王都を出る。どの道そのつもりだったから、少し日がずれただけだ。お前を頭目に会わせなきゃならないからな」

「頭目?」

 聞き返したがカミルに答える気はないらしく、着ていた服を脱ぎ捨て始めた。お前もさっさとしろ、と視線で急かされる。

「……仕方ない、話は後で。こっち見ないでよ」

 シェーラには剣呑な目で睨まれ、リューグは慌てて背を向けた。彼女が物陰に隠れるのを気配で察し、いたたまれない気分になりつつもリューグも着替えを手に取った。その先で、揶揄するような笑みを浮かべたカミルと目が合う。

「うぶだねぇ」

「うるさい」

 頬に差した朱を隠すように、リューグは脱いだ服をカミルに投げつけた。

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