虚ろの神子 4

「よくもやってくれたものだな、小僧。これまでの準備が水の泡になってしまった」

 部屋を訪れて開口一番に、不機嫌を隠そうともせずマリウスは告げた。神子に対して大袈裟なほど敬意を示し、慇懃に接していた昼間の顔は影も形もない。だが、リューグとしてはこの方が幾分か気が楽だった。腹の底で嘲りながら丁寧に扱われるのも気味が悪いし、こちらも彼を敬う気など更々ないからだ。

「あれは処刑じゃなくてただの人殺しだろ。寧ろよく止めたと褒めてもらいたいもんだ」

「反教会派の人間だ。罪人であることに変わりはない」

「結局は都合の悪い人間を消したいだけだ。リディム教が聞いて呆れる」

 災いなき日々のために神に祈りを。隣人の幸福を願い、悲しみに手を差し伸べよ。さすれば来るべき日に神の恩寵は我らに等しく降り注ぐ。リディム教の教義はそんなものであったはずだった。リディム教の起源は災厄の魔女の伝説と時期が重なるため『来るべき日』は魔女の復活を指すのだという説もある。解釈についてはさて置くとしても、民にそう教えを説く教会の最高位にある人間が、野心のために弱者を魔女に仕立て上げた挙句殺そうとしていた。そのあまりの滑稽さには、乾いた笑いが漏れ出るばかりである。だがそんな言い様にも、マリウスに堪えた様子はまるでなかった。

「これは教義に則った行いだとも。全ては民を守ることに繋がる。それが分かれば王と――王女もお喜びになることだろうよ」

「……あんたの地位も盤石になることだしな?」

 リューグの皮肉にも、マリウスは鼻息をひとつ鳴らしただけだった。殊更に王女を強調したような物言いなのは、彼女がリューグの婚約者としてあてがわれているからだろう。リーシャ・ラル・ジスアード――ジスアードの宝石姫とも渾名される美姫は、当代の王コンラートの世継ぎとなりえるたった一人の人物でもあった。彼女の上にも兄弟はいたようだが、第一王子は剣術の稽古中に事故で、第二王子は病を得て帰らぬ人となったという。そうして残った、王家の血と他国にも噂されるほどの美貌を持つ女。それをリューグにくれてやるとマリウスは言った。教会に従う褒美だ、と。欲しいと言った覚えもないのに、いつの間にやらリューグとリーシャの婚約は公に発表されていた。あまりの段取りのよさに呆れた果てたものである。マリウスの陰謀がどこから始まったのかは定かではないが、リューグという駒を手にした彼には、これとない好機だったのだろう。

 民は度重なる災害と飢えに不満を募らせている。国の危機 に王は何をしているのだと批判する下々を、マリウスは利用した。王も所詮は人である、未曽有の事態に救いを求めるなら神に祈りを捧げよ、と扇動したのだ。人心は驚くほど容易く傾いた。世情を見た一部の有力貴族も味方につけ、マリウスは彼らの財で私兵を蓄えた。言葉巧みに民の心理を操り、暴発しそうな怒りには『魔女』という的を与えて置く。既に王家の権力は形骸化した。あともう一手、ジスアードを手中に収めるのに足りないのは血筋のみである。

 それを補うための駒がリューグだった。教会の神子と王家の血が交われば、リューグの後見人であるマリウスの影響力は一層強くなることだろう。救世主として祭り上げられた神子と国の宝と称される姫の結婚ならば、世間の印象も悪くない。もちろん様々な問題が持ち上がるだろうが、それをどうにかするだけの気概も権力もこの男にはある。ジスアードがマリウスの手に落ちる日はそう遠くないだろう。唯一、不確定な要素があるとすれば。

「私の地位など民を救う副産物に過ぎぬよ。全ては些末なこと……そう、今日のこともだ。ある意味では今日の儀式も成功と言えよう。民に〈聖呪〉の力を示すことが出来た。大いなる力は畏怖の対象となりうるが、自らを庇護するものと思えば信仰も厚くなろう」

 そこでマリウスは言葉を切り、含みのある笑みを浮かべて先を続けた。

「いくら私と言えど、あの〈聖呪〉は真似できませぬ。とはいえそれは不安定なもの。民の信仰を守るために我々は協力せねばならないのですよ……神子様」

 揶揄の響きを宿して『神子』を強調し、マリウスはリューグの右手を一瞥した。咄嗟に反対の手で甲を覆い、舌打ちする。マリウスにとっての不確定要素となるならば、それはリューグの力に違いないだろう。しかしそれすらも恐るるに足らぬと、マリウスは言外に告げていた。自分でも分かっていた。今日処刑を妨害できたのは本当にたまたまだ。強力な〈聖呪〉を身に宿していたとしても、使いこなせなければさしたる意味はない。

 〈聖呪〉は奇跡の力だ。人の子が神より賜った祝福なのだと、誰もが口を揃えて言う。火も水も風も、この世に存在する全ては〈聖呪〉によって操ることが出来る。死人を蘇らせることすら不可能ではないと伝えられていた。但しそれは、十全に力を使いこなせればの話である。実際のところ〈聖呪〉を扱える人間はごく僅かしか存在しない。古い時代には多くの者が奇跡を発露させていたが、魔女との戦いで多くが命を落とし数が激減したそうである――というのが教会で教えられた話だ。今となっては、扱える者でも仰々しい呪文を長々と唱えてようやく蝋燭の火が灯せる程度のものである。更にはひどく体力を消耗する。仮に蝋燭ではなく薪を燃やそうとするなら、その者の寿命は三年は縮むことだろう。〈聖呪〉は奇跡と引き換えに命を削るのだ。それでも、いやそれ故にか〈聖呪〉を示した者は畏れ敬われ、殆どが聖職者として教会に籍を置く。結果的に、魔女の復活が騒がれるこの時世で教会は強大な権力を得ることとなった。大いなる〈聖呪〉を持つ神子の存在があればなおのことである。

 神子、即ちリューグの〈聖呪〉はあらゆる面で特異な性質だった。まず扱える力が他者とは比べものにならないほど大きい。蝋燭どころか、村ひとつほどなら容易に焼き尽くすことが可能だろう。力の代償も殆ど必要としない。まさに神の子と呼ぶに相応しい力だった――己の意のままにできないことを除いては。リューグは自分の意志で〈聖呪〉を発動させることが出来ない。過去に数度力を振るったのは偶発的なもので、いくら修行を重ねても思う通りに扱えたためしがなかった。今日の出来事は稀有な例だ。牙を剥いても、所詮は見掛け倒しにすぎないのだ。それをマリウスはよく理解している。初めこそ〈聖呪〉を扱えるようになれと口出ししてきたものだが、今は手駒として動かすには好都合とでも思っていることだろう。

「今回のことは適当に処理をしよう――次は余計な真似をしないことだ」

 言葉に詰まったリューグを見て満足したのか、マリウスは微かに口元を歪めて席を立つ。どうやら最後の一言を告げたいがための訪問であったと見える。偽の魔女と同じように水でも浴びせてやろうと念を込めるが、やはり〈聖呪〉が応えることはなかった。憎々しい後ろ姿を見送るしかない腹立たしさにテーブルの足を蹴りつけると、神子様、と咎めるような声があった。

「……お前か」

「お慎み下さい。神が見ておられますよ」

 マリウスと入れ替わりに入ってきたのはヨルクだった。部屋の外で控えていたのだろう。その手に携えられた銀の盃を見て、リューグは憚ることなく顔を顰めた。

「またそれか」

「神子様の気が乱れるであろうからと、猊下からの仰せです」

 悠々と立ち去ったマリウスの姿を思い出し、舌打ちする。乱した張本人が何を言うのか。とことん気に障る男である。

「……必要ない」

「そうは参りません。神子様の御心が平静でなければ、信徒たちの不安を煽ります」

 拒否の姿勢を取ってはみるが、ヨルクがこちらの意思を尊重することはないのは分かっていた。どうせ神子など形だけだし、彼は世話係という名の監視役だ。教皇の忠実な僕である。

 さあ、と盃を目の前に差し出され、リューグは渋々それを受け取った。磨かれた銀を曇らせるように、濁った液体がどろりと揺れる。精神の乱れを整え、安眠を誘う薬湯だと聞かされている。しばしば供されるこれを、リューグは嫌っていた。だが盃の中身を飲み干すまでヨルクはこの場を動かないだろう。鼻を摘まんで口をつけ、一気に喉に流し込む。空になった盃を押し付けると、ヨルクは満足気に頷いた。

「これでいいだろ。お前もさっさと帰れよ」

「……ええ。それでは、神子様に良き眠りが訪れますように」

 一揖したヨルクが退室するのを確認して、リューグは窓を開け放った。喉の奥に指を突っ込み、込み上げて来たものを窓の外に吐き出す。遥か上空から降ってきた吐瀉物に被害を受けた者がいたかもしれないが、知ったことではない。どうせ文句をつけに来る人間もいない。誰もここには寄り付かない。人と顔を合わせるといえば、今日のようにマリウスが聞きたくもない話をしに来るか、定期的にヨルクが出入りする時くらいなものだ。部屋の外は見張り、窓の外は足場のない高所。飼い主様の許可がなければろくに身動きも取れない、ここは檻だった。

「くそ、何が良き眠りだ」

 毒づきながら寝台に身を投げる。身体からかき出してもなお、薬湯とは名ばかりの毒に意識が侵食されていく。頭痛がした。安眠どころか、あの薬を飲むたび魂が千々に引き裂かれるような心地がした。眠気が訪れはする。けれどそれは底のない泥沼に沈んでいくような感覚で、断じて快いものではなかった。足を取られ、視界を奪われ、呼吸もままならない闇の底へと落ちていく。自分の存在が泥で塗り潰されてしまう。いや、塗り潰されるのは世界だろうか。微かに見えていたものが見えなくなり、触れられたはずなのに触れられない。朧な夢さえも、掻き消える。

「最悪だ」

 濁っていく意識の中で吐き捨て、シーツを手繰り寄せる。せめて着替えておけばよかった。礼装の上着を脱いだだけで、ひどく息苦しい。本当に最悪だった。ここに来てから最悪でない日などない。神への祈りも民の嘆きも、リューグにとってはどうでもいいことだ。口調だけは丁寧な信徒に利用される日々は苦痛でしかない。彼らが自分に何をしてくれたというのだろう。飢えることはないかもしれない。けれどこんな場所は己の居場所ではないはずだった。本当はもっと土に近く、風の強い、呼吸のしやすい所だった。そしてここは決定的に何かが足りない。毎日、瞬きひとつの間でさえ、泣き出しそうなほどの喪失感を覚えているのに、リューグにはその正体が思い出せない。曖昧な夢の中にしか、記憶を見いだせなかった。自分の本当の名前さえも。

「どこに、いるんだ……」

 ――その手さえ掴めればどこへだって逃げ出して、なんでも出来る気がするというのに。

 限界が近かった。リューグは自覚せぬまま譫言を漏らし、そのまま泥の眠りへと落ちていった。

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