筒の中の蟻
やっとのことで要が待つ部屋の前にたどり着いた。
あがった息を整えるのと扉を開ける勇気を振り絞るのに時間が掛かって、やっと自分のなかで行けると思った瞬間もタイミングが悪く、扉を開けるのにもう少し待たなくてはいけなかった。
きっかり10秒後、わたしは回ってきたチャンスを掴むべくドアノブに手をかけた。
扉を開け、小声で「要・・いる?」と声をかけると咳き込む音がして影から要が顔を出した。その手には湯気が沸き立つコーヒーカップが握られていた。
わたしは思わず呟いてしまう。
「え?よくカップで飲める・・・ね?」
それを非難と勘違いした要の顔がより蒼白になるのがよく見えた。要の「ごめん・・・」という響きはまるであの頃と変わっていない。
「ち、違うの!ごめんごめん、この部屋だとなんだか飲み物とかこぼしちゃいそうだなって思ってたからつい!いいんだよ、べつに・・・ここは要の部屋なんだし・・さ?」
わたしは慌てて弁解しつつも、そんな要と自分とのやり取りに少しだけ安心感も抱いていた。やっとあの頃と同じように話せた気がした。それがなにより嬉しかった。
ようやく要の誤解を解いたところでわたしたちは、お互いの顔がもう他人行儀に硬くなってはいないことに気が付いた。わたしもつい要の表情をよく見ていなかったが、緊張していたのはわたしだけではなかったみたいだ。
要が大きく息を吸い込んで、改まった表情で口を開いた。
「怒ってはいないの・・・?」
「怒って・・・?あぁ、さっきはごめんね。あたし、なんか気が張ってたみたいでつい、強く当たっちゃった」
「そっか、怒ってないってことだよね・・・?」
一回言ったくらいじゃ安心して納得できないのは、要の昔からの特徴の一つだった。
「もう・・・怒ってないって言ってるでしょ?それにあたしにはまだ、やらなくちゃいけないことがあるし」
わたしも改まった表情をつくると、要もその表情を引き締めた。まるで一生の誓いをたてる瞬間みたいに。
「もう一度聞くわ。どうしてこの部屋の設計をこんな形にしたの?」
「それは、み・・道子が見せてくれた景色だからだよ。子供のとき蟻に怖がってたぼくにきみが見せてくれたあの瞬間を、ぼくは再現したかったんだ」
やっぱりそうだ。
蟻を怖がる要にわたしは、手に持っていたチラシを丸めた棒で蟻を捕らえてみせた。
「『ほら見て?こうすれば蟻はどこにも行けなくなる。』ってあたしが言って」
わたしの呟きに呼応するように要も口を開く。
「ぼくは恐る恐る近づいて覗き込んで、『ほんとだ。すごい!二匹も捕まえたの!?』ってはしゃいでた」
「そしたら蟻が壁を登り始めて、『うわっ!?こっち来る!』って要ったらその場でまた腰抜かしちゃってた」
わたしが笑うと要は恥ずかしそうにはにかんだ。
「チラシってツルツルしてるから登ったりしてこないって思ってたんだよ。ぼくが怖がってるのに道子は腹抱えて笑ってたよね」
要が自然とわたしの名前を口にした。わたしはこの気持ちを要に気づかれないよう少し俯きながら笑った。
「そうそう、それであたしもつい出来心でチラシの筒を持ち上げてね。『ほら見て!?蟻がどこまでも追ってくる~』なんてはしゃいでたな」
「あれはあれで結構怖かったんだからさ、もう二度とやらないでよね」
「分かってる。でももう蟻くらいじゃ怖がったりしないんじゃないの?」
「どうかな?道子がまたチラシの筒を手にしていたら、ちょっとは警戒するかも」
「なにそれ?あたしが大きな虫でもいれて驚かそうっていうの?」
「そうかもしれないし、なにかのサプライズかもしれない。あのとき道子が見せてくれた景色みたいにな、ずっと頭を離れない思い出をくれるかもしれないと思って」
そういって昔を懐かしむ表情を見せた要は、急に大人びて見えてちょっとカッコよかった。わたしは「そ、そうだね」と返事をして要の顔から視線を外した。話している間ずっと気が付かなかったけど、互いにかなり近づいて話していた。子供のころはこんなの全然平気だった。けど、目の前でかつての思い出を語る要をわたしはただの友達としてではなく、一人の女性としてつい見てしまう。
「最初はさ、きっとぼくを驚かせようとしているんだと思って疑ってたんだ。でもいつもなら目を細めてフフフって笑うはずなのに、そのときばっかりは目を見開いて面白いものを見つけたみたいな表情をしててさ。ぼくは気になってその筒の中を覗いたんだよ、そして・・・」
そして、わたしたちは二匹の蟻が筒の中を自由に歩き回る様子を見ていた。一方は地面を下に、もう一方は空を下にし互いに背中を向けあうようにして。それはいつも見ている地球をひっくり返したような不思議な光景だった。地球も、この筒の中もどっちも繋がっている。必ずもうへと続く道が続いている。
一匹が近づけばもう一匹はなぜか離れる。かと思えば今度はそっちから近かづこうとしてるみたいに動く。ドラマや映画で恋ってものを知ったばかりのわたしたちにそれは、近づいたり離れたりする恋人同士みたいに見えたのだった。
わたしは、あの頃のわたしはそんな気持ちをそのまま口にしていた。
「『この二匹の蟻が恋人同士だったら、ちょっとひどいって思うな。だって、こんなに近くに見えるのに真っ直ぐ進めないって、もどかしいと思わない?』って、きみが言ったんだ。覚えてる?」
要がわたしが頭に思い浮かべたことをそっくりそのまま口にした。
「うん・・・。そうだったね」
わたしは二度と忘れたりしないよう嚙み締めるように応えた。でもきっとわざわざ意識しなくたって忘れないと思う。こんなに温ったかい気持ちは、二度と忘れない。忘れられないと思う。
「だからなんだね」
わたしはこの部屋の全体を見渡して言った。
「この部屋が、丸めた筒状になってるのは」
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