わたしに見える世界

 扉を抜けた先は四角に切り取られた世界。

 わたしが日常的に見ていた世界が、たった数時間余りの時間でこんなにも懐かしいものになるなんて。まるで異世界だ。わたしはもうしばらくの間はあんなところには戻りたくないという一心で、階段を駆け下りていった。

 後ろから扉を開く音がしたかどうかは気が付きたくなかった。

 どれほど歩いたかわからない。ふと目に留まったベンチに座って息を整えた。風のさわさわとした感触がわたしの肌を優しく包んでくれる。それはわたしの高鳴った鼓動と熱くなった顔の火照りを冷ましてくれる。

 なんなの・・・

 急に呼び出したと思ったら、いきなり同棲みたいな状況でわたしはずっと仕事のことを考えてないと要のことが目に映って落ち着かなかった。それはあの不可思議な空間も作用していたと思う。どこにいても、どこを歩いていても視界に必ず要が映る。どうしたって意識してしまう。

 わたしははぁ、と深く息をつくと顔を手にうずめた。

 何してんだろ。

 つい声を荒げてしまった、それに部屋を出て行ってしまって。どうしよう、でも今帰ってもなんて言えばいいのか。

 だらりと体の緊張を解いて考えてみたが、頭は眠ってしまっているみたいになにも浮かばなかった。たくさんのどうしよう、という感情から身を遠ざけるように首を脱力させて真上を向いた。もしタバコなんて吸っていたら、こうして真上に煙を吐いていたと思う。それこそ真夏の積乱雲をつくるみたいに。

 でも今のわたしにはタバコも酒も、それを買う金もない。無一文ではあまりに過酷な現状が、むしろわたしの絶望的な現実から目をそらさせてくれる。

 足先を太陽に温められて気持ちがよくなってきたとき、膝上の手になにかがポトリと落ちる感覚があった。見るとそれはどこからか飛んできた小さな蟻だった。

 まるで新たな大地に降り立ったかのようにわたしの腕の上を散策するその小さな黒い粒に、わたしは小さかったころの勝気な自分と蟻にすら怖がっていた要との記憶を思い出した。

 びくついた要の腰、振り上げたチラシの棒、一緒に覗きこんだ穴のなか、そこにいたのは天と地を無視するように紙面の上を闊歩する二匹の蟻。

 そんな筒の中の蟻を見て、要が・・・なにかを・・・・

 その瞬間、わたしはずっと忘れていたことを思い出してベンチから立ち上がっていた。そっか、そういうことだ。要が言っていたのはこのことだったんだ!

 わたしはそのまま走り出すとうろ覚えの道を遡って要が待つあの部屋へと向かった。振り落とされた蟻だけがそんなわたしの後ろ姿を見ていた、多分。

 

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