番外編

戸谷優真の厄日

 その日戸谷優真はご機嫌がよろしくなかった。とある仕事絡みの事情から、仲の悪い実の弟と会って話をしなければならなかったからである。

 その弟との会合が終わっても、イライラは収まらなかった。別に憎いとか嫌悪感があるわけではないが、人間的に合わないのだろう。その不機嫌が伝わったのか、職場の上司にやるべきことが終わったと連絡したところ「直帰していい」とまで言われた。自分は職場に戻って本来の仕事をする気満々だったのだが。

 移動している間に、ランチタイムも過ぎてしまった。苛立ちは昼食を食べ損なったせいもあるのかもしれない。こんなことがなければ、今日はよく行く馴染みの食堂で昼限定の日替わり定食を食べ、仕事帰りにペットショップに寄り書店に寄り――


(今からすればいいじゃないか)


 はっとする。急遽決まった早めの退勤、普段できないことができるではないか。いつもは行かないような店でゆっくり遅めの昼食をとり、仕事帰りの時間帯では閉店してしまっている店にも行ける。そうだ、そうしよう。

 少し機嫌がよくなり、現在地から近い距離の飲食店を検索しようとスマートフォンを取り出す――と、タイミングよく着信音が鳴り、振動した。

「わっ」

 驚いて思わず取り落としそうになりながら、液晶画面で通知を確認する。電話ではなくメッセージアプリのようだ。

「…………笠松?」

 高校生の頃から付き合いのある友人だった。




 確か、笠松はメッセージで相談したいことがあるのだと言っていた。今夜久しぶりに飲もう、奢るから、と。



 そのはずなのだが。


「ねー? 実在したでしょー? 顔がいい俺の友達ー! しかも銀行員ー!」

 待ち合わせの店の前で笠松に肩を抱かれ、優真は硬直した。目の前には自分たちよりも少し年齢層が下であろう若い女性が三人。優真の顔を見て何やら騒ぎ立てている――謀られた、と確信した。

「笠松」

 名を呼ぶと、笠松は声を潜めた。

「ごめんて。一人キャンセルしやがったんだって」

「奢るって言ったな?」

「奢る奢るちゃんと奢るから、とりあえずいて! 頼む!」

 にぃ、と優真は笑顔を向けた。

「今日の俺は機嫌が悪いぞ」



 何が哀しくて合コンなどに参加しなければならないのか。

 目の前の若い女の子たちは、メイク補正もあるかもしれないが、全員そこそこ可愛らしい容姿をしている。しかし彼女たちとのトークもそこそこに、優真は飲食に集中した。笠松は奢ると言っていた。兄弟の仲が悪いことをよく知っている母の、「今夜は優ちゃんの好きなもの作ろうか」という気遣いの申し出を断ってわざわざ出てきてこの仕打ちなのだ。好きに飲み食いしたって罰は当たるまい。

 と、そのうち、一番明るい髪色、一番派手な化粧の、一番若いだろう娘がきゃらきゃらと愉快そうに笑った。

「めっちゃ食ってるし! ちょっとー話そうよおにーさーん」

「奢るって騙されて連れてこられたんだ、飯食うくらいさせてくれ」

 素っ気なく応えるが、更に面白そうに笑う。

「正直か! そっかそっか、ごめんねぇいっぱい食べなー? ダメじゃんまっちゅ、おにーさんめっちゃ怒ってんじゃんちゃんと謝んなよー?」

 一瞬言葉に詰まった笠松は、優真の横腹を肘で突く。

「てめぇ覚えてろよ」

「今日は機嫌が悪いって言っただろ。何が相談だ、人を餌に合コンなんて」

「あれ、戸谷今彼女」

「いないけど」

 言った瞬間、優真の自棄食いに突っ込んでこなかった女性二人が色めき立った。しかし、

「仕事が忙しくて構っていられないからな。前の彼女もそれで別れた」

 優真が店員の呼び出しボタンを押しながら言い放つと、一気に消沈した。突き放すような言葉の調子と表情から、望みはないと察したのだろう。先程絡んできた娘がまた、正直かと笑った。嘘は言っていない。優真も口元だけで少し、笑う。

「あ、ハイボールと焼き鳥盛り合わせ、十本の方と、あとふんわりチーズオムレツとカリカリベーコンシーザーサラダとおにぎり梅と鮭一個ずつ」

「まだ食うのかお前!」

 笠松の一言に、派手な娘がまたまた笑った。




 ひたすら食べて、飲んで、食べて、食べて。

 ちゃんと笠松に奢らせた、そこまでは覚えている。



 喉が渇いた、と思ったら、知らない天上が見えた。

 薄暗い。ここはどこだ?


 ゆっくり身を起こすと、胸元が少しはだけた。質があまりよくない、薄くて堅いタオル地のバスローブ。

 周囲を見回す。


 広いベッド。二人掛けの小さなソファー。大きなテレビ。一般的な住宅にしては派手な柄の壁紙。


「えっ……これ、ラ、ブ……」



 嘘だ。何故。誰と?



 何とか記憶を辿ろうと思考を巡らせていると、

「あ、目ぇ覚めたー?」

 軽いトーンの若い女の声。はっとして部屋の入り口の方を見ると、居酒屋で斜め前の席に座っていた、派手でよく笑う娘がいた。

「……あ、あの、俺、その」

「あー!」

 青ざめる優真の横に、笑いながらぽすっと座る。

「だいじょーぶ、何もしてないよぉ。おにーさん完全に潰れちゃってたもんね、覚えてないっしょ? はいこれ飲みな!」

 スポーツドリンクのペットボトルを差し出され、言われるままに受け取る。成程見てみれば、彼女には着衣の乱れもない、元々着ていた服のままだ。

「今服乾燥機かけてっから。明日も仕事あるんでしょ? 始発で帰りたいよねー」

「えっと、その」

「あー、服? 盛大にゲロ吐いてたから洗濯したの。ぃやー、乾燥機まであるホテル探すの苦労したわー!」

 失われた記憶の恥を抉られ、優真は顔を覆った。何という醜態、しかも年下の女性に介抱されて。やはり今日は厄日なのか。

 その背を力強く、二回、叩かれる。

「気にしなさんなってぇ。よくある話じゃん!」

「あ、あの……ご迷惑おかけしてすみませんありがとうございます……」

「めっちゃ飲んで食ってたもんね、店入る前から機嫌悪そーだったし。何かあった? ……って、初対面のあたしに言うこっちゃないかー」

「…………昼間、弟と、会って」

 顔を覆っていた手をゆっくり下げながら、優真は小さく吐き出した。彼女の言う通り、数時間前に初めて会った人間に話すことではないのかもしれない。が、何故か言葉はぽろぽろと零れ落ちていく。

「弟、昔から仲良くなくて。っていうか……俺、結構余計なこと言っちゃうから、嫌われてて」


 顔を合わせれば、その瞬間必ず表情が変わる。目の前に敵がいる、お互いそういう顔になる。


 優真は、ずっと暢気に生きてきた弟が心配だった。きっと母も姉も、離れて暮らす父も、何年も前に死んだ祖父も、みんな心配している、していた。


 父は職務上滅多に帰ってこられない。休暇は勿論、仕事で近くに来たとき等、理由を付けてはできるだけこまめに帰ってきてはいるのだが、それでも戸谷家は、ほぼ母子家庭に近い環境だった。

 だから優真は、母や姉の手を煩わせないようにと気を遣った。成績トップとまではいかなくとも、勉強も運動も頑張ったし、その甲斐あってそれなりにいい職場――比較的安定している大手銀行に就職もできた。順風満帆。これなら不在がちな父も、ずっと家や自分たちのことを任されている母も、嫁いだ姉も、不安にさせることはない。


 ところが弟が恐ろしい程に自由奔放だった。


 勉強は辛うじて赤点は取らない程度、運動もさほど得意ではない。

 図太いようでいて臆病で、難しい局面にぶつかれば、すぐ逃げる。

 母と姉に可愛がられているのに、家に居着かない。


 そのくせ、全部、何故か“何とかなってきた”。


 ふらふらと、海中を漂うクラゲのように生きているようにしか見えなかったのに、何故か恋人も何度もできていたし、別れるのに揉める様子もなかった。大学も一発で志望校に合格。懸賞や福引きはちょくちょく当たっていたし、挙げ句、異能の力・ギフトに目覚めて国の指定する施設に入るという栄誉を得た。


 見る限り、何の努力もしていない。誰からも、そんな話は全く聞かない。

 ゲームをしているか、家で飼っている犬や猫と遊んでいるか、寝ているか、寝てしまわないようにと子どもの頃に始めて得意になった手芸で何かを作っているか、はたまた知人の家に入り浸っているか。そんなことしかしていない。


 弟は、特に何を苦労するでもなく、失敗のない人生を送っている。


 父は言う。「そういう星回りに生まれたんだろ」と。

 姉は言う。「特に問題もなく平和に生きてるんだからいいじゃない」と。


 果たしてそれでいいのか?


 確かに弟は運がものすごくいいのかもしれない。


 それでも、もし何か失敗したら?


 きっとあいつは耐えられない。ずっとずっと、怖がりの甘ったれのままだから。


 それだから、口を挟まずにはいられなかった。弟は、あまりにも不安定な足場の上に立っている。その上施設を抜け出して。一体何をやっているんだ。


 ――そんなことを考えていたら、また腹が立ってきた。いつまで経ってもふらふらふらふら、二十七にもなって本当に何を考えているのか。

「……まぁ、俺もあんないい加減なの好きじゃないけど」

 ぼそりと小さく放つと、横に座る娘は声を上げて笑った。

「そっかそっかー、大変だねぇ兄弟仲悪いと」

 本当によく笑う。が、深刻に受け止められるより、軽く笑い飛ばされてよかったと思った。実際些末な問題だ。互いに殺意を抱いているわけでもない。

「理不尽なもんだよ、口喧嘩になるといつも俺が姉ちゃんに怒られる」

「はー、お姉さんもいるんだ。真ん中っ子は辛いねぇ」

「兄弟は、いる?」

「あたし? ちょっと歳離れた弟と妹がね」

「だから面倒見がいいのか」

「あと父親がたま~に酔っ払って帰ってくるからね。暴れたりしないだけいいんだけどさ、ゴキゲンなままゲロゲロ吐くんだわこれが」

「お互い身内で苦労しますな?」

「それな! ……って、おにーさん、こういうのさっきの席で話すやつー」

「ほんとだ」

 図らずも弾んだ会話に思わず笑う。と、彼女は優真の手を取った。両手で持って、親指を使ってぐにぐにと揉み始める。形の良い薄桃の爪が、暗く落とした間接照明の光に艶めく。

「おにーさん折角顔がいいんだから、もうちょい笑いなよ。笑う門にはーって言うじゃん」

「楽しいことがなかなかなくてね…………上手いな、そういう仕事?」

「ふっふーん、これでもネイリストだよん。うわ、指先めーっちゃガサガサじゃん、手入れしてぇー。……楽しいことかぁ、大人んなると、仕事もあるしなかなか難しーよねぇ。水族館とか行きてぇなー、癒やされたいわぁー」

「……行こうか」

「へっ?」

 ぼと、と優真の手が布団の上に落ちる。取り落とした彼女は、大きな目をぱちぱちとさせた。

「えっ…………なに、あたし今口説かれてる⁉」

「や、そうじゃなくて」

「違うんかーい!」

 ノリがいいな、と内心感心しながら、優真は続ける。

「こんなに手厚く看護してもらったからさ。ちゃんと御礼をさせてほしいなって。ちょっといいとこで飯とか……それとも、何か物品の方がよかっ」

「行くっ! 行きたい、行こう水族館! いいじゃんいいじゃん、おにーさんも浄化されようぜ! リラクゼーショントゥギャザーよ! あ、じゃあ連絡先教えて」

 一人で盛大に盛り上がり、テーブルの上に置いてあった優真のスマートフォンを投げて寄越し、自分もバッグの中から探り出してきて再度優真の横に腰を下ろした。

「何か、いいね。人脈広がるーって感じ」

 にこにこしながら言う彼女の顔を見て、優真も少し、自身の表情筋の緊張が緩まるのを感じた。

「うん。いい、な」

「おにーさんずっとむーっとしてたし銀行勤めって聞いてたからさ、すーっげえカタい人なんかなーって思ってたけど、全然とっつきにくくないじゃんね。他の二人さ、職場の先輩だったんだけど、おにーさんのこと顔はいいけど怖ぇーって……うん、そっか、優真。優しく真面目な子に育て、かー。いいじゃん」

 液晶に映る自分の名前を見る。

「真面目に生きてきた自覚はあるよ」

「だよねー! そんな感じするー!」

「皆山さん、は、これ、花の名前?」


 確か、真夏の日差しの中、鮮やかに咲く――彼女によく似合っている気がした。


「よく知ってるねぇ。かんな、でいーよ」



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「戸谷くんっ!」

 皆山かんなと知り合って数日経った、昼休みが終わる直前、突然上司に肩を叩かれた。スーツも髪型も乱れることなくビシッと決まってはいるが妙に明るくポジティブで、職場のムードメーカーのようでもあるこの上司は、先日優真に半休を与えた人物でもある。優秀でいい人なのは知ってはいるが、優真は正直少し苦手だ。

「……はぁい」

 小さく低く返事をすると、またバッシバッシと肩を叩かれる。力強さのあまり体が揺れる。

「へーんじ小さい! ……あのさ、戸谷くん」

 急に声を潜めたので、優真は怪訝な顔をした。

「何ですか」

「うちの娘を宜しくねぇ~?」

「は⁉」

 上司はにこにこと笑う。



 その笑顔、カラッと明るいノリ。どことなく覚えがある、というより、そうだ。上司の名前も「皆山」だ。


 職場の飲み会でもしこたま飲んで、暴れるわけでもなくご機嫌に、べろんべろんに酔っ払う。かんなの言っていた通りの人じゃないか。まさか、そんなことが。顔から血の気が引くのを感じた。


「ちょ、ちょっと待って下さいしてんちょっ、まっ、えっ⁉」

「うっふふっふ~♪」

「支店長! そういうんじゃないです! つっ、付き合ってないですからっ、違いまっ、してんちょぉ!」



 やっぱりあの日は厄日だったんだ。

 優真が肩を落としながら溜め息をつくと、午後の業務が始まる時間になった。






 ――後に戸谷優真は皆山かんなと交際することになるのだが、それはほんのちょっと未来の話。



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戸谷秀平の難儀 J-record.1 半井幸矢 @nakyukya

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