「葵先生の『作り話』」について

 私は塾講師をしているのですが、数年前、高校生の指導をしていた時に古文の質問に来た男子生徒から、

「先生、大学で日本語学の准教授をしてたんでしょ?」

 と言われて驚いたことがあります。

 全くもってそんな事実はなかったので、その生徒に詳しく話しを聞いたところ、『日本語学の准教授として大学に勤めていたが、大学の権力抗争や派閥争いに嫌気がさして辞め、塾講師になったらしい』という話がその生徒の周りの共通認識になっていたそうです。

 恐らく、大学院を出たということがねじれにねじれまくってそんな感じになったのだと思いますが、『私、権力抗争とか派閥争いが嫌いそうに見えるんだ~』と思えて面白かったです。 絶妙に的を射ているなと思いました。

 また、日本語学は教員免許を取る過程でかじった程度で、専門ではないんですよね。

 確かに、生徒へ漢文の構造の説明をする時に、「中国語は、インド・ヨーロッパ語族といって英語と同じ語系統だから、基本的にSVOの形になるのは一緒で」とか話した気がするので、その辺から日本語学だと思われたのかもしれません。

 その噂を話してきた生徒に「その話に一つも事実はないよ~」と笑って答えたら「えっ!? 違うんですか!?」と物凄くびっくりされて、それも大変面白かったです。

 入社4年目くらいの事でした。(というか、一体いくつだと思われていたんだろう……? というのは謎のままです。)

 そういう経験もあり、部署が変わってここ何年か中学生の集団授業に入るようになってからは「授業であれだけ言ったのに全然伝わってねぇな」みたいな答案を見ることも多々あり、話の“意図通りに”伝わらなさというものを日々感じております。


 そんな中で、「小説はどこまで遠くに行けるか」という裏テーマの第二回遼遠小説大賞に参加させていただくにあたり、「物語がどこまで遠くに行けるかは受け取り手にもよるのでは」という方向性で書かせていただいたのが「葵先生の『作り話』」(https://kakuyomu.jp/works/16818093081400150781)です。

 お読みになった方は、ジェンダー問題の方を主題として捉える方が多いかもしれないのですが、分かりやすく多様な受け取られ方をするテーマだと思ってそれを選んだので、私の認識として、ジェンダー問題の方は副次的なものになります。

 あらすじとしては、授業中に男子生徒から「結婚してるんですか?」と聞かれた古典教師の葵が、その理由にあたる自分の過去を『作り話』として語り、それが生徒に色々な受け取られ方をするという話です。

 ひとつの出来事も、人によって印象や記憶に残る部分は違うし、気になる部分も人それぞれだし、となると語られた『作り話』の真偽なんか正直どうでもよくて、幾通りにも解釈が分かれた状態で、それぞれの人が受け止めたり受け止めなかったりするので、結局受け取り手の問題も大きいよね? という考えを形にしたのがこの小説になります。


 以前、第一回遼遠小説大賞に参加した時は「小説はどこまで遠くに行けるか」の「遠く」の定義として「『遠くに行こうとするもの』を描いた小説」というものが上がっていたので、「蚕は空に羽ばたけない」(https://kakuyomu.jp/works/16817139555084215680)という、遠くに行こうとする(ように見えて結局どこにも行けない/行かない)少女の話を書いたのですが、今回は規定にその文面が無かったのです。

 遼遠小説大賞における「遠く」はこれまでの常識や小説の型からの遠さというのが主な意味ではあろうと思いますが、単純に「遠く」というと、距離か時間の離れ具合なわけですよ。

 より遠い所に住む人にまで届く小説、遥か遠い未来まで残る小説、となった時に、やっぱり受け取り手の問題は素通り出来ないのではないか、という気持ちが捨てられませんでした。


 受け取り手の問題となると、理解ができる/できない、共感できる/できない、というような単純な話ではまとめられないのが厄介なところです。

 理解・共感できないからこそ、ずっと心に残る小説だって、皆さんいくつか思い当たる節があるのではないかと思います。

 私は小五くらいで読んだ宮沢賢治の『やまなし』がそれです。

 当時、クラムボンって何? かぷかぷ笑ったと思ったら死んだ!? それを蟹が話してるだけってどういうこと!? と、マジでほとんど理解も共感も出来なかったのですが、なんかインパクトがあって覚えているんですよね。

 話の中心にいる「クラムボン」について「作者が作った架空の生物。何を指すのかはよく分かっていない」みたいな注釈が教科書に載ってて、いや分からんモン載せんなや! と幼心に思ったのですよ。

 あれ、登場人物(生物?)への共感を主体にしようとしたら、光村図書の小六の教科書に長いこと載るわけがないんですね。

 でも長らく教科書に載っているわけです。

 自分の理解を超えるものに直面した時に、どう理解しようとするか、もしくは理解できないなりにどう受け止めようとするか、みたいなものが問われる単元だと思います。

 教育目標的には自然の循環や自然との共存についてを読み取るような感じではなかったかと思いますが、教える側からしたら前述のことに向き合わずにはいられない単元です。


 で、話を戻しますが、「遠くに行こうとする小説」を書いても、読み手がいなければ、その「遠さ」は認識されないという点で、やはり受け取り手の感じ方の問題はあるだろうと思いまして。

 じゃあ、まあ一人くらい「物語」の受け取り手側の話を書いても良いのかなと思って書いたのがこの作品です。

 文体としては、他に参加された方々のように斬新なことは一切しておりません。

 構成だけ、全く同じ出来事を同じ場で見ていた四人の高校生の視点から書くという、普通やらないというか、普通だったらする必要のないことをやってみました。

 意図的に、人によって興味や関心の対象から、『作り話』について記憶や印象に残っている部分をバラけさせて書きました。


 一話目の葵先生に憧れている山岸晴香は、葵先生の見た目についても細かい部分まで詳しく、自分なりの解釈をしています。

 それでいて、安直な周りの噂(という解釈)には忌避感もあって、やや独善的なところもある生徒です。

 また、LGBTQ+的なことへの多少の配慮はありつつも、3話目の佐山祐樹ほどは裁判の話は印象に残っていない。

 これは彼女が「ジェンダーとしての女性」に求められる役割に辟易しているせいで、「子供が産めないのは非生産的である」の方に憤っているからですね。


 二話目の竹原翔也は、悪意はそんなに無いつもりで地雷を踏み抜く、考えの足りない男子生徒として書きました。

 私は塾講師ということもあってか、プライベートなことについての質問をされたことがほぼないのですが(せいぜい何歳ですか?くらい)、まあ高校生とはいえこういうことを言うやつも居るやろ、と思って小学生のようなことを聞かせました。

 葵先生のことは全然興味がないし、どちらかというとうっすら嫌いかつ、吊し上げられて頭真っ白なので、そもそも彼は葵先生の話をあまり覚えていません。

 一番、覚えておいて欲しい生徒に限って覚えていない典型例です。

 あと、そんな感じの発言をしてしまう原因である、子供に甘い親も書きたかったので、あんな感じになりました。

 竹原が普通に親に葵先生から怒られた話したのは、そういう発言のことで親から怒られることがこれまでほぼ無かったからです。


 三話目の佐山祐樹は男性が好きな男子生徒です。

 ここで前の二人は覚えていなかった「同性婚には生産性がないので認められない」という裁判の判決の話が出てきます。

 彼の興味の対象はそっちなので、葵先生の結婚しない経緯の話などはあまり印象に残っていないのです。

 話の受け入れ方の指向性としては佐山が一番偏っているかなと思います。

 佐山が疎外感を感じている『周囲が異性愛者であることを前提に話を進める』ということについては、東大が出している「東京大学における性的指向と性自認の多様性に関する学生のための行動ガイドライン」(https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/actions/sogi.html)に避けるべき事例として載っていて、確かに普段意識されていないな、と思ったので導入しました。

 上記のガイドラインは、色んな具体例が細かく載っていて大変興味深かったです。

 最近、私が住んでいる市でもパートナーシップ制度が導入されたという話を回覧板に入っていた地域情報誌で読んだので、それも入れました。

 住んでいる所はそこまで都会でないのでそういう面に関して疎いのかもと思っていたのですが、見直した案件でした。


 四話目の河島陽菜は、もうちょっと上のレベルの公立高校に行く学力があったけど、メンタルが弱くて第一志望校に落ち、滑り止めの私立高校に受かったタイプの気弱で大人しい系の真面目な女子生徒です。

 そのため、緊張感のないクラスの様子に対してうんざりしているんですね。

 葵先生に対しては、ちょっと変わった格好をしてるけど授業は分かりやすいなあくらいの『学校の先生の一人』と一番フラットな捉え方をしている生徒です。

 そのうえ、根が真面目なので、ちゃんと全部話を聞いています。

 誰か一人が叱られている時にも、きちんとそれを自分事として受け止めて、叱られている本人よりもショックやダメージを受けてしまうタイプの生徒です。

 今回の件は、まさにその典型の事件でした。

 最終話で答え合わせ的に葵先生の話を全て載せたかったので、こんな感じのしっかり話を聞く生徒にしました。

 本当は、三話目と四話目の間に、葵先生に事の真相を尋ねに行く生徒を入れようかとも思っていたのですが、ちょっと冗長になるなと思ってやめ、三話目の佐山の話の最後にそれっぽい話を入れる程度に留めました。


 小説は主体的に読むもので、この話の中の『作り話』は受動的に聞かされた話なので、受容側の話として一緒くたにするのはどうなの? と思われた方もいるかもしれません。

 昔、生徒向けのスピーチの上手な先生から「話し手は大体『話してぇ』と思っているが、聞き手は『聞きてぇ』とは必ずしも思っていない。というかあんまり聞きたいとは思っていない」という話を聞いたことがあります。

 小説はその点、読み始めた時点で、読み手に『読みてぇ』という気持ちが多少はあるので、そこが人の話を聞くのとは訳が違うというのは承知の上です。

 だからこそ、受容する側の指向性がさらに上がるのではという気がしているので、今回その辺はあまり分けずに書きました。

 この小説自体も、その人が普段抱いている問題意識などから、ジェンダー問題に対して未来をよくしようという視点で「遠く」を書いた話だと捉える人もいるだろうし、構成について新しい書き方を模索した点で「遠く」を表現しようとしたと考える人もいるだろうし、コンプラ意識しすぎて説教臭いと思う人もいるだろうし、小説の中で書かれている「当たり前」の嫌さ具合に共感したという方もいるだろうし、受け取り方は様々だと思います。

 いわば、受け取り方で普段の問題意識が出るリトマス紙的に、色々な受け取り方がしやすいように書きました。

 ありがたいことに、SNSでいくつか感想をいただいておりまして、それらを読んでいても、結構、感想がばらけているので、概ね狙い通りの書き方が出来たかなと思っております。


 遼遠小説大賞の良いところは、講評について、主催の辰井圭斗さん(@guyong)が、

「評議員一同は作品が目指す可能性をできるだけ読み取ります。「この作品に可能性なんかないじゃないか」と切って捨てる態度は、この企画が最も忌避するところです(それはそれとして気になるところは講評で書きます)。」

 と、自主企画の概要で明記なさっているところです。

 遼遠小説大賞は挑戦的な書き方をされている作品が多くて、ともすれば『よく分からない』と切り捨てられる可能性だってあるわけですが、読み手(少なくとも評議員の五名)はそれをしないことを前提にしているので、書き手が安心して書けているわけです。

 小説が遠くに行けるような体制を整えてあるのが、素敵だと思います。

 私もたぶん2/3くらい読んでいますが、作品によっては、材料が何か分からないけどすっごく美味しい煮凝りを出されて、これ何使ってんだ? 何をどう調理したらこんな味になるの? いや美味い、美味いんだけど一部どうにも飲み込めない塊があるぞ何これ? と、ひたすら考えながら食べ続けている気持ちで読みました。

 評議員の方が、どんな解釈をされたのか今から楽しみにしています。

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常々草 佐倉島こみかん @sanagi_iganas

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