塔と鏡


 太古全地は一の言語一の音のみにして、人衆は此処シナルの地に移りて、煉瓦を積み、土瀝青を固め、天を目指さんと欲せども、天主、此を望まず、怒りて言語を乱し給ひし所、今言語相通ぜずと伝ふ。所謂バベルの塔なり。然れども、人の望は堅く、なほ人を求め、人に求められんと欲す。されど其処に相通ず言葉なかりき。言の葉は心の鏡なり、と云へり。されば、人みな言の葉なくば、心姿映し得ず、人を求むも、人に求めらるゝも空しく成り果てん。此より始むるは人の慾、望の交々とした、一つの言葉の物語なり。


 太古全地は一の言語一の音のみにして、人衆は此処シナルの地に移りて、煉瓦を積み、土瀝青を固め、天を目指さんと欲せども、天主、此を望まず、怒りて言語を乱し給ひし。されど人の心の未だ枯れず、人と相通ざんと欲す。若し此の望無くば、今、人は各々相違ふ言葉を用ふべからん。今、我と汝と、同じき言葉用ふるは、個人の努力無くば、叶はぬ物なり。今此処に言葉ありて云ふ。

「コキ、クヨ、エリセバ。ケプ、ソラ、ミメヨシ」

(此処へ来たまへ、エリセバ。今日の空は美しいぞ)

 答へず。此はエリセバのヘベルを悪む所ならず、無論エリセバの、へベルが言語を解せずに他ならず。主は己の怒りに従はれて言語を乱し給ひしかども、昨日迄、心を通ぜる二人の間を繋ぐ鏡壊されり。悲しみあり。また慾も動けり。互の間に鏡無くとも、互の互を求む心は消えざりき。目もて語れり。互に言語の相通ぜずを識る。虚しけれ、悲しけれ。されど愛しけれ、恋しけれ。故に悲しけれ。エリセバ云ふ。

「ヴァ、ドラレイ、ファドラスフォス」(君と話したし)

 されど通じ得ず。悲しみは更に深まれり。当に言葉、己の物のみと成りて、鏡と相成り、心を反射するものと至る。寂しけれ。此処にエリセバ叫ぶ。

「ヴァ、ドラレイ、イソシュ」(君恋し)

 ヘベル此の声に打たれて感涙す。否、ただ音波に打たれたのみならず。ヘベル気附けり。二言語に対応あり。主の怠慢に感銘せり。ヘベル返して曰く、

「ワ、ナリ、イトシ」(君恋し)

 エリセバ泣く。此処に鏡あり。鏡と云ふも、玻璃の鏡、所謂レンズなり。心の発する光、屈曲して向かふに至れるなり。

 二人は互の言葉を打ち合へり。而して音韻、統語の対応を磨けり。例へば、ヘベルのはエリセバの、ヘベルのはエリセバのなり。(事実独語dreiの如し)ヘベルのと言ふをエルセバはと言ふ。互の言葉を知りて、己の言葉を返す。而して再び返り来ぬ。なほ複雑の光学機器の如し。不自由なれど心の通ふ悦楽、此に勝る。二人は止む事無く語らへり。二人の間に此を妨ぐ者無し。


 斯くして新しき共通語を得たり。

「わ、な、え、はなす、ほっす」(君と話したいのだけど)

「わ、はなす」(話さう)

 二人は笑ひ合へり。二人の言語なり。二人の世界あり。此処に幸せあり。主の望み給はくは蓋し此の道ならんや。


 一つの言葉と二人の愛の話は、此にて。

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思いつくままに 針谷諒太 @yasusho

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