アムルとハルワ

大澤めぐみ

アムルとハルワ

 わたしは廃墟で目を覚ました。

 起き上がり周囲を確認すると、おびただしい数の死体に囲まれていた。

 両側に石造りの建物が並ぶ、石畳の狭い路地が、くまなく死体で覆われていた。

 夕闇が近づいているのだろう。空は暗く、死肉を求めて旋回するカラスの群れが、ガアガアと耳障りな鳴き声をあげていた。生きた人間の姿はなく、かわりに大量の鼠が素早く這いまわる、さざ波のような気配があたりに充満していた。

 徹底的な虐殺の跡だった。この場所でそれが行われてから、それなりの時間が経過しているのだろう。石畳に流れた大量の血はすっかり乾き、どす黒く変色していたし、死体はどれも腐敗し、痛み、食い荒らされていた。

 わたしは、自分がなぜここにいるのかを思い出そうとして、そして、諦めた。

 わたしの頭の中は驚くほどにからっぽで、自分がなにも覚えていないのだということがすぐに分かった。散らかった部屋から目的のものを探し出すのは大変だが、なにもない部屋になにもないことは一目で分かるのに似ている。

 いや、周囲を埋め尽くしているのが人間の死体であること、空を飛び回っているのがカラスであること、それらが死肉を貪ることなどは理解していたので、なにも覚えていないということはないのだろうけれど、ここがどこなのか、自分が何者なのか、といった事柄は、なにひとつ思い出せなかった。思い出せないというよりも、そもそもなにもないのだ。わたしは今、この瞬間にここで発生したのだと説明されたほうが、まだしも納得できそうな気がした。

 そのままそこでぼんやりとしていると、不意に背後から「アムル!」と、声を掛けられた。振り返ると、大荷物を抱えた旅装束の少女が立っていた。全身くまなく薄汚れていたけれど、それでも損なわれないくらい美しい顔立ちをしていて、一種の超然とした雰囲気を発していた。

 あまりにも周囲の光景から存在が浮いていたし、着ているものも、わたしの漠然とした感性ではいくぶん奇妙に見えたから、少女が駆け寄ってきてわたしを抱き締めたときには、すこし驚いた。この奇妙な少女が、わたしにだけ見えている幻覚や、実体を持たない霊体などではなく、温かく柔らかい肉体を持つ、生きた人間であったことに。

「よかった、アムル。ちゃんと出会えた。やっぱり、この時代で人を探すのは、なかなか大変ね。久しぶり……と言っても、今のあなたはまだ、わたしを知らないのだから、初めまして、かな? わたしはハルワよ」

 ハルワと名乗った少女の言葉は、意味は理解できるものの、発音やリズムが、わたしのよく知るそれとは若干異なっているように思えた。訛りがあるのかもしれない。

 わたしにとってはハルワは見知らぬ少女だったけれど、ハルワはわたしをよく知っているようだったし、その態度から、ハルワがわたしに好意を寄せてくれていることや、心からわたしを心配してくれていること、そして、わたしを助けようとしてくれていることが素直に伝わってきたので、わたしはすんなりとハルワを受け入れることができた。そうか、この子はハルワで、わたしの名前はアムルというのか、と。

「とにかく、場所を移りましょう。ここは、たぶん当面は危険ではないと思うけれど、さすがに居心地が悪いわ」

 ハルワに導かれて、わたしは死体に溢れた路地を進んだ。進んでも進んでも、街道はどこまでも死体に埋め尽くされていた。

「いまは十四世紀で、ここは大陸西岸イルヘルミナの港町ハンザよ。だった場所、と言ったほうがいいかしら? 一週間前、バークワースの鉄血皇帝が攻め滅ぼしたの。歴史に残るイルヘルミナの大虐殺の現場ね。いまはまた別の街を滅ぼしに行っているところだから、ここは相対的に言えば安全なはず」

 ハルワの話す内容はよく分からなかったので、わたしは曖昧に頷くしかなかった。

「こんな風にいっぺんに言われても、なにも分からないわよね。いつもは会えばお互いの情報のすり合わせから始まるのに、なんでも、初めてって大変だわ」

 本格的に夜闇が下りてきて移動もままならなくなり、わたしとハルワは比較的損傷の少なそうな一軒の家に入り込んで休むことにした。台所で抱き合うようにして死んでいた元の住人らしきふたつの死体は、ふたりで協力して表の通りに運んだ。

 倫理的に問題のある行動をしているのではないか? といった疑念は、記憶を持たないわたしの頭にも浮かんだけれど、さすがに死体と同じ空間でくつろぐ気にはなれないし、地を埋め尽くすほどの死者たちをいちいち弔ってやれるほどの余裕も、わたしたちにはなかった。

 タフな旅を続けてきたのだろう。ハルワは荷物から火打ち石を取り出すと、非常に手際よく竈に火をおこし、湯を沸かした。温かい湯を口にするだけで、いくらか身体が落ち着いた。ハルワに分けてもらい、乾燥した果実をすこし齧った。

 一息つくと、ハルワが「順番に説明するわね」と言った。言ってから「さて、どこから説明すればいいのかしら」と、思案顔でしばらく黙り込んだ。

「アムル。あなたは不死なの」

 ハルワはまず、そう話を切り出した。

「歳をとらないし、驚異的な再生能力を持っていて、切られようが潰されようが、決して死なない。けれど、脳を破壊されてしまうと、肉体じたいは再生するものの、そこに格納されていた情報は、記憶は失われてしまうの」

「なるほど、つまり――」と、わたしは頷いた。「わたしはあの場所で、他の人たちと同様に虐殺に巻き込まれて頭部を破壊され、そして、然るべきのちに再生したということか。だから、記憶のすべてが失われていると」

 荒唐無稽な話ではあるけれど、わたしはあっさりと納得した。わたしが直面した不可解な状況を、よく説明できている。

「そのせいで、君はわたしのことをよく知っているようなのに、わたしは君のことを知らないんだ。わたしは以前に君と会っていて、その記憶を失ってしまったんだね」

 わたしが言うと、ハルワは顎に手を当てて「うーん」と、首を捻った。

「わたしもまだ全ての過去、未来を見たわけではないから、その可能性もなくもないし、そういった理解でも問題はないかもしれないけれど、正確ではないわね」と、ハルワは言った。「アムルにとっては、これが初めてのわたしとの出会いのはずよ。この時点のアムルが、わたしが把握している中では最も古い。たぶん、アムルはこれ以前にも何十年、何百年、もしかしたら何千年も、変わらず存在してはいたのだろうけれど、でも、わたしにはこれ以前の情報がないから、今より過去のアムルに出会うには、驚異的な偶然に頼るしかないわ」

 やはり、ハルワの言うことはよく分からなかった。

「君も、わたしに会うのはこれが初めて?」

「時間軸上で言えば、そうなるわね。この時点が、わたしとアムルの一番古い出会い」

「過去に会ったことがないのに、どうして君はわたしを知っている?」

 わたしが訊くと、ハルワはいたずらっぽく微笑んで、言った。

「わたしはアムルに、未来で会ったのよ。わたしは時間を彷徨う女なの」

 言っている意味がよく分からなくて、わたしが黙り込んでいると、ハルワが続けて説明を始めた。

「わたしは色んな時間を跳び跳びに生きているの。この時代で一年を過ごして、次に目を覚ましたら四百年後の世界にいる。そこでまた一年を過ごして、寝て起きると今度は千年前に飛んでいる、といった具合に。わたしは未来のアムルから、この時代のこの場所でわたしに初めて出会ったという話を聞いていたから、この時代に飛んでしまったと気付いて、アムルに出会うために、ここまでずっと旅をしてきたのよ」

「時間だけでなく、その度に場所も移動してしまうということ?」

「そう。いつも別の場所に突然出てしまうの。たぶん、この惑星が自転しているからじゃないかしら」

 一晩で何百年もの時間を行き来してしまうハルワにとって、他者は常に期間限定の存在でしかないのだが、わたしだけは例外的に継続的な交友を持っている存在なのだそうだ。この時代以降であれば、いつに飛んでも、わたしは世界のどこかで、今と変わらないこの姿のまま生き続けているからと。

「ずいぶんと長い旅をしてきたみたいだね。いったい、どこから?」

「東の山脈を越えて、その先に広がる大草原の、そのまた向こう。言葉も文化も人種もまったく違う、遠い国から。でも、陸路で繋がっている場所でよかったわ。この時代にはまだ、航海術はそれほど発達していないから」

「それは、大変な目に遭わせてしまったね。わたしのために」

 わたしが言うと、ハルワは「ううん」と、笑って首を横に振った。

「アムルが今までわたしにしてくれたことに比べれば、これくらいは大したことじゃないわ。いつもはだいたい、アムルがわたしを迎えにきてくれるから。でも一番最初だけは、わたしがアムルを見つけないと、どうしようもないものね」

「どういうこと?」

「うーん。つまり、アムルはいつも、わたしから、次にわたしたちが会うことになる日時と場所を聞いて、そこでわたしを待っていてくれているの」

「どうして君は、次にわたしたちが会うことになる日時と場所を知っているんだ?」

「だって、それはアムルにとっては未来の話だけど、わたしにとっては過去の出来事だもの」

 つまりはこういう話だ。いまここにいるハルワは、未来でわたしに会って、わたしから過去の話を聞いている。主に、いつどこで、わたしがハルワと会ったかだ。この時間軸のわたしは、ハルワからわたし自身が語っていた話を聞いて、その情報を元にハルワに会いに行く。そのようにして、わたしたちは様々な時代、様々な場所で出会うのだと。

「でも、それでは――」と、わたしが言い淀むと、ハルワは「ええ」と、頷いた。

「因果が循環してしまっているわね」

 わたしたちが出会った、という事実を元に、わたしたちは出会うのだ。それはもう、出会うべくして出会っているということか。

「そうね。まるで運命のように」そう言って、ハルワはまた微笑んだ。「けれど、その運命はとても過酷なものになるわ。次のわたしたちの出会いは七十年後。大陸の果てからさらに海を越えた先、東洋の小国セウォルでよ」

「セウォル?」

「この時代のこの国の人たちは、まだその存在も知らないような遠い国。アムルはこれから七十年以内に、そこに辿り着かなければならない」

「七十年か……。まあ、それだけ時間があれば、さすがに間に合いそうだな」

「本当に遠いのよ。でも、次の出会いはとても重要なの。今度は、わたしが初めてアムルに出会うことになるはずだから。まだすごく小さかったから、わたしもよく覚えていないのだけど。たぶん、三歳くらい。自分自身のことも理解しないまま、わけも分からず泣いているはず。きっと、アムルが迎えにきてくれなければ死んでいたわ。だから、どうかお願い。必ずわたしを迎えにきてね、アムル」

 それからわたしは、ハルワから今後の大まかな予定を聞いた。今後、わたしたちが出会うことになる日時と位置。それに、この時代にはまだ知られていない世界の地理や、戦禍や災害の影響の少ない相対的に安全な場所の情報などだ。

 わたしはそれを逐一書き留めたが、ハルワはすべて諳んじているようだった。

「わたしが時を跳ぶときに持っていけるのは、ほとんど、わたし自身と情報だけなの。だから、書き留めたりすることはできないのよ。すべてを覚えておくしかない」

「それは大変だね」と、わたしが言うと、ハルワは「そうでもないわ」と、答えた。

「別に意識しなくても、わたしは全部覚えているもの。アムルとの思い出は、すべて」

 夜明けと共に、わたしたちは旅に出た。この時代のハルワは、わたしを探すために既に長い時間を使ってしまっていたので、それから長く留まることはできなかった。

「だいたい平均して一年程度だけれど、数か月でまた跳んでしまうこともあるし、数年留まれることもある。極端な場合は、数時間ですぐに別の時代に跳躍することもあるから、一概には言えないの。けれど、もうすぐだなっていう気配はなんとなく感じるから」

 街を抜け、荒野を北へ北へと向かう途上で、ハルワは言った。

「あの遠くに見える北の山脈を越えると、海に出るわ。そこからは、海沿いに東へと向かうのが安全だと思う。一番こわいのは戦乱だけど、あの山の向こうは比較的牧歌的な文化圏のはずだから。わたしもこの時代のことは歴史の本でしか知らないから確かなことは言えないけれど、未来のアムルもそういうルートを辿ったと言っていたし」

 次の朝、目覚めるともうハルワの姿はなかった。

 それから、わたしの長い長い孤独な旅が始まった。黙々と足を前に進め、荒野を抜けて山に足を踏み入れた。幸いなことにわたしは不死身なので、碌に食べ物のない寒い山脈を何日も歩き続けても、飢えて死ぬことはなかったし、凍えて死ぬこともなかった。しかし、腹が減らないわけではないし、寒くないわけでもない。夜は長く、寒く、暗くて孤独で、辛かった。

 山の頂を越え、眼下の雲海の向こうに黒く輝く北の海を見たときは、なかなか感動した。左手に海を見ながら歩いていると、ときどき細々とした漁村があった。ハルワの言ったとおり、山のこちら側の人々は総じて牧歌的な性格で、旅人のわたしを戸惑いながらも受け入れてくれた。しばらく滞在して求められるまま漁を手伝ったりすることもあったし、ときには永住や結婚を勧められることもあったが、すべて断り、わたしは東を目指し続けた。大陸の果てで青く輝く大洋に行きついたとき、ハルワとの出会いから三十年が経過していた。

 そこから海を渡るのは、また大変だった。この周辺の文明水準は総じて低く、船と言えば、丸太をくり抜いて作った筏に近いものだった。しかし、海を渡るために巨大な船を建造している暇も、技術も、わたしにはなかった。貧相な筏で海に出るしかない。もちろん、そう簡単に上手くはいかないのだが、わたしは不死身なので、何度も船が沈んでも、浜に打ち上げられるだけで済んだ。

 繰り返し外洋に挑んでは、数日から数週間で浜辺に打ち上げられるわたしを、地元の住民たちは面白がっているようだった。船の改良に力を貸してくれる者も現れ始めた。船を造り、外洋に漕ぎだしては転覆して浜に打ち上げられる生活が十年ほど続いた。住民たちとはすっかり馴染みになり、お祭りの時期には豊漁の他に、わたしの成功も祈念してもらえるようになった。

 不意に生きることに飽いてしまったような気がすることもあったけれど、ハルワと会う約束があったので、なんとか生きていた。

 あるとき、いつものように改良型の船で外洋へと漕ぎだし、帆を張って風に乗り、例によって嵐にあって海に投げ出されて目覚めると、わたしはセウォルに流れついていた。

 約束の場所を見つけるのは、海を渡る苦労に比べれば簡単なことだった。周囲に人家も見当たらない、ただの未開の山奥だったが、ハルワに教えられた特徴と合致していたので、おそらく間違いはなかった。

 しかしハルワの話では、この場所には広大な畑と牧場があり、豊かな自給自足の生活が成立していたのだそうだ。

 つまり、これからハルワがやってくるまでの残り三十年ほどで、わたしはそれを成し遂げるのだろう。わたし自身は不死身なので食べ物がなくても困ることはないが、ハルワはそういうわけにはいかない。彼女は時間を彷徨っているというだけで、わたしと違い、死ねば死んでしまう。

 来る日も来る日も、木を伐り、切り株を引っこ抜いて、大地を耕した。捕まえてきた山羊は、気が付いたら勝手に増えていた。最初は大変だったが、一度うまく回りはじめると、ひとりでは到底食べきれないほどの食糧が収穫できるようになった。余った食べ物は街に売りにいき、かわりにロバや牛を買ってきた。それでも消費しきれない食物は家畜たちの餌になり、牛も山羊も、また際限なく増えた。

 そうして、住環境を整えることに熱中していると、不意にちいさな女の子の泣き声が聴こえてきた。声のするほうに向かうと、ハルワが居た。いつの間にか三十年が経過していた。

 懐かしかった。けれど以前のハルワが言っていた通り、このハルワはまだ三歳か四歳くらいの小さな女の子だった。彼女にとっては、わたしはまだ見知らぬ他人だ。

 わたしが「こんにちは」と声を掛けると、小さなハルワは泣き止んで、不思議そうに首を傾げた。

「わたしはアムル。ハルワの友達だ。怖くない。お腹は空いていないか? 食べ物はたくさんあるんだ。なにしろ三十年くらい、ひたすら畑を耕していたからね」

 入念に準備を整えていたから、このときのハルワとの生活は穏やかだった。食べ物の心配もなく、戦争にも災害にも巻き込まれずに、四季の移ろいを楽しみながら、平穏のうちに一年を過ごすことができた。

 わたしはハルワに、ハルワが時間を彷徨う体質であること、これからもときどき、不随意に時間を跳んでしまうこと、けれど、自分は不死身なので、どの時代に跳ぼうとも可能な限り一緒にいるということを伝えた。まだ小さいハルワにどこまで理解できたかは不明だったが、またいつか、もう少し成長したハルワにちゃんと教えればいいと思った。

 冬を越え、山桜の花も散った頃、ハルワの姿は消えていた。せっかく築き上げた自分の畑を放棄するのは忍びなかったけれど、わたしはまた、次の約束の場所を目指して旅に出た。再び海を越え、今度は西に向かって歩き出した。ハルワと出会い、別れ、また次の約束を目指して旅を続けた。数年後に会えることもあれば、百年以上会えないこともあった。

 稀に、予定外の偶然にハルワと出会うこともあった。ひとり街道を歩いていると、不意にハルワに「アムル!」と呼び止められるのだ。最初は、孤独のあまり幻覚を見ているのかと訝しんだ。

「だって、アムルに予定を伝えたわたしだって、それまで自分が経験したことしか知らないんだもの。それより未来のわたしが、また過去に跳ばされてくることもあるの。それが時間を彷徨うということなのよ」

「でも、ここでわたしに会えるということを、ハルワはどうして知ってたの?」

「それはもちろん、アムルに聞いたのよ。ここで偶然、わたしと出会ったって」

 やはり、わたしたちが出会ったという事実が、わたしたちを出会わせているのだ。それはもはや偶然でもなんでもないが、ふたりを引き合わせる因果の原初がどこにあるのかは、やはり分からなかった。

「まあ、いいんじゃない? すごい偶然だとか、素敵な運命だとでも思っておけば」

 もちろん、すごい偶然や素敵な運命は、歓迎すべきことだった。わたしたちはしばらくの時間を共に過ごし、そしてハルワはどこかの時間に跳び、わたしは旅を続けた。その間に、人類の文明は飛躍的に進歩していった。特に、蒸気機関と貨幣の普及は、わたしの生活をずいぶんと楽にしてくれた。移動は楽になったし、財産を持ち歩いたり、どこかに預けておいたりできるので、毎回すべてを放棄して、旅先でゼロから財産を築く必要がなくなった。

 ハルワは出会うたびに、少女であったり、妙齢の女性であったりした。ハルワは時にはわたしが庇護し教育すべき娘であり、また時には虚無感に覆われたわたしの人生を照らし導いてくれる母だった。そして、当たり前の話ではあるのだけど、時には老婆のハルワと出会うこともあった。

「久しぶりだね」

 なるべく平静を装って言ったつもりだったけれど、長い人生を積み重ねてきたハルワには、簡単にわたしの動揺が見通せてしまったようだった。

「驚いた? こんなおばあちゃんになっちゃってて」と、ハルワは楽しそうに笑った。「なにも悲しいことじゃないのよ。わたしが、この妙な体質を抱えたまま、この歳まで生きてこられたという証なんだから」

 ハルワは時間を跳ぶだけで、決して不死や不滅の存在ではない。いつか、普通の人間と同じように死んでしまう。そんなことは分かり切っていたはずなのに、それでもやっぱり、老いたハルワを見ると、わたしはすこし悲しくなった。

「そうね。いい機会だし、そろそろアムルにも伝えておくわね」と、ハルワは言った。

「伝えるって、なにを?」

「わたしが死ぬときのこと」

 ハルワの声はとても穏やかだった。

「わたし、未来で自分の墓石を見たのよ。そこに没年が刻まれていたから、わたしがいつ死ぬのかは知っているの。だから、そのときは必ず、アムルがわたしの最期を看取ってね」

「約束するよ」と、わたしは答えた。しばらく一緒に時を過ごして、老婆のハルワは去った。わたしは次のハルワと出会うために旅を続けた。幾度かの出会いがあり、いくらかの平穏な時間があり、戦禍が世界中を覆い尽くす激動の時代があった。

 二十世紀に入り、郵便や電話が一般化すると、わたしたちはますます簡単に会えるようになった。ほんの少しだけ未来の出来事を知っているということが、そのままお金に変わる仕組みもたくさんできたので、生活の心配もほとんどする必要がなくなった。わたしはハルワに、自動車や機関車や飛行機を利用して会いにいく。かつての数十年掛けの過酷な旅がまるで嘘のような、楽しい時代だった。

 そして、その時はきた。

 そのハルワに出会った時点で、もうそれほど長くないことはすぐに分かった。かつては超越的に美しかった顔もすっかり深い皺に覆われ、手足は枯れ枝のように細かった。抱き上げて車に乗せるとき、そのあまりの身体の軽さに驚いた。

 わたしはかつてハルワから得た情報で馬券を買い一財産を築いていたので、そのお金で静かな山奥の別荘を買った。ハルワの最期のときを、一緒に穏やかに過ごすために。

「とても楽しい人生だったわ。アムル、あなたのおかげよ。あなたがいなかったら、わたしはきっと、もっと早い段階で、どこかの時代で野垂れ死んでいたわね」

 ウッドデッキのカウチに腰掛け、熱いお茶を啜りながらハルワが言う。わたしは首を横に振る。

「わたしのほうこそ。ハルワに会うという目的があったから、何百年という長い時間を、今まで生きてくることができたんだ。あなたは本当に、わたしの人生で、唯一の光だった。ありがとう、ハルワ」

「最期に、あなたに伝えておくことがあるの」と、ハルワがわたしの目を見た。「あなたの生は永遠じゃない。あなたの生にも、いつか終わりは来るわ。ものすごく遠い未来で、わたし、あなたの最期を看取ったのよ」

 咄嗟には声が出なかった。

「あなたは最期に、とても楽しい人生だったと言って、満足そうに笑って、眠るように穏やかに死んでいったわ。何百年後か、何千年後かは教えてあげないけれど、でも、とても遠い遠い未来。あなたはちゃんと、自分の人生に満足して死んでいくことができるの」

 だから、どうかそれまで、健やかに生きていてねと、アムルが言って、わたしは、約束する、と返事をした。

「いくつも約束を守ってくれて、ありがとう。最期も、アムルがいてくれるから、なにも怖くないわ。じゃあ、そろそろいくわね」

 そう言って、ハルワがスッと目を閉じた。冗談だろうと思っていたら、本当に死んでいた。

 わたしはハルワの亡骸の前で、丸一日茫然と過ごし、それから弔った。ウッドデッキから見える木陰に埋葬して、その上に墓石を置いた。墓石にはちゃんと没年も刻んだ。

 来る日も来る日も、ウッドデッキのカウチに座り、ハルワの墓石を眺めて暮らした。太陽が昇ったり沈んだりして、何日か、あるいは、何十年かが過ぎ去った。

 不意に背後から「アムル!」と、懐かしい声がした。振り返ると、少女の姿のハルワがいた。猫のように軽い足取りでわたしの隣にきて、カウチに腰掛けると「久しぶりね。あまり元気がなさそうだけど、大丈夫?」と言って、綺麗に笑った。

 わたしが驚きで声を失っていると、ハルワはウッドデッキを下りて墓石に近づき「あ、ひょっとしてこれがわたしのお墓ね!」と、嬌声をあげた。「よかった。素敵な場所で。ここならゆっくり眠れそうだもの」

 そうだった。とっくの昔に知っていたはずなのに、すっかり失念してしまっていた。ハルワの最期を看取ったとしても、ハルワの過去は、まだまだわたしの未来のいたるところに散らばっているのだ。ハルワがハルワのお墓をお参りしにくることだって、当然ありえる。

「どうしたの、アムル」と、心配そうに首を傾げるハルワに、わたしは「いや、なんでもない」と、笑いかける。

「さて、次はどこに行こうか」

 わたしたちの旅は続く。

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アムルとハルワ 大澤めぐみ @kinky12x08

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