虹は羽ばたく


 長かった雨季が明け、王女が帝国へ嫁いでから二度目の春が訪れた。

 紫蘭宮の外では、宮の名前にもなっている紫蘭の花が鮮やかに咲き香っている。

 前夜に降った雨を受け、星のごとく旭日を照り返す朝露をまとった姿は、あまりにまばゆく美しい。颯々さつさつと吹く風は皇宮の池にきらめく波紋を生み、間もなく花開くであろう水上花のつぼみをそっと撫ぜた。

 新しい季節を謳歌おうかする小鳥たちのさえずりもまるで春の宴のよう。

 されどそんな祝宴の只中で、紫蘭宮だけが重く暗い悲しみのおりに囚われている。


「皇太后陛下。残念ですが……」


 と暗澹あんたんたる声色でうなだれた宮医ぐういの前には、もうひと月近くも意識のない蝶の国の王女が横たわっていた。枯れ木のように変わり果てた姿は見る影もなく、肌は白を通り越して青く透けているかのよう。

 不用意に触れれば折れてしまいそうな指先には、もはや生者のぬくもりはない。

 息を引き取るのは時間の問題。むしろ今日まで生き永らえたことが奇跡だと宮医に告げられてから、もう三日が過ぎていた。医術の心得などあるはずもない皇太后ですら分かる。王女の命の灯火が、ついに吹き消されようとしていることは。


「間に合わなかったのね……」


 そう言って王女の髪を撫でる皇太后の瞳には、無念の涙が浮かんでいた。

 されど彼女は微笑みを絶やさず、なおも王女をいたわるように黒髪をいてやる。


「それでも今日まで、陛下のご帰還を信じて……よくぞ頑張りましたね。ありがとう……」


 ねやの隅に控えた侍女たちが、声を呑んで泣いていた。

 宮医も己の無力を恥じているのか、うつむいたまま顔を上げない。

 どこまでも穏やかで暖かな、よき日和だった。

 陽光の滴る窓の外を、蝶が楽しげに舞っている。

 彼女もまたああして天へ旅立つのだ。


 誰もがそう確信し、静かに最後のときを待っていた。ところが俄然がぜん、窓辺の蝶が何かに追われるように飛び去っていく。宮の外が騒がしかった。

 異変に気づいた皆が何事かと振り向けば、見えざる廊下を粗暴な足音が近づいてくる。次の瞬間、にわかに扉が開け放たれ、皇太后は驚きと共に腰を上げた。


「陛下」


 と思わず声を放った先には、半年以上国を離れていた若き獅子の姿がある。

 衣服を整える間も惜しんで駆けつけたのか、血と旅塵りょじんにまみれた鎧姿のまま、小脇にはかぶとも抱えていた。国を発つ以前よりさらに研ぎ澄まされた眼光がぐるりと室内を見回して、寝台に横たわった王女とその傍らに佇む母の姿を捉える。


「只今戻りました、母上」


 唯一にして絶対の王の帰還を祝うべき場面でありながら、誰もが驚愕のあまり言葉を失い、立ち尽くしていた。何しろ皇帝の行方は出陣以来ようとして知れず、戦況などの知らせも本国には何ひとつ届いていなかったのである。


「へ、陛下……ご無事のお戻り、誠に重畳ちょうじょうでございます。ですがまさか本日ご帰還になるとは……事前に知らせのひとつでも下さればよかったものを」

「申し訳ありません。早馬のための馬を私自ら乗り継いで戻ったもので、知らせを出す暇がありませんでした。妃は」


 問われた皇太后はまぶたを伏せて答えの代わりとした。

 彼女がすっと身を引けば、途端に変わり果てた王女の面輪おもわがあらわとなる。

 束の間、閨に沈黙が降りた。その静寂しじまは皇帝の脇から滑り落ちた兜が床を打つ音で破られる。甲冑かっちゅうの擦れる音を鳴らして、皇帝は寝台へ歩み寄った。

 指先までもを覆う鋼鉄が、痩せ衰えた王女の頬に触れる。


「……すまない。待たせた」


 絞り出すような声でそう告げて、若き獅子は寝台の傍らへひざまずいた。


「おまえの祖国を滅ぼすのはたやすかったが、おまえを救う薬を手に入れるのに手間取った。許せ」


 そう告げた皇帝はふところから、綿と布地で何重にも包まれた小瓶を取り出す。

 それはほんのわずかに粘性のある、薄紫色の液体によって満たされていた。

 傍目に見ればいかにも毒々しい見た目の液体だが、その小瓶の中身こそが王女をむしの呪いから救う唯一の手段であると言う。


「し、しかし、陛下。殿下のお体はもう限界で……体内の蟲を殺すほどの劇薬ともなれば、飲ませたところで体力が持つかどうか……」

「馬鹿を言え。放っておいたところで助かる見込みがないのなら、わずかでも希望のある方に賭けるべきだろう。薬を飲ませる。妃の体を起こせ」


 吼えるような皇帝の勅命に、宮医は竦み上がり、侍女たちは慌ただしく動き出した。寝台の左右から意識のない王女の体を慎重に支え起こし、栓を開けた小瓶を皇帝が口もとへ持ってゆく。刹那、皇太后は見た。

 王女の顎を支え、薬を飲ませようとする我が子の指先がわずか震えているのを。

 祈りの時間はゆっくりと過ぎた。

 少しずつ、少しずつ、一滴もらさぬよう傾けられた小瓶の中身が空となる。


 閨は静謐せいひつに満たされた。そうしてどれほどの時間が流れただろうか。

 薬が胃の腑へ届くよう、横になるのではなく、いくつも重ねられた枕に身をもたせて眠っていた王女の睫毛まつげが微か震えた。

 真っ先に気づいた皇帝が身を乗り出し、皆もあっと息を飲む。

 王女の瞼が開かれた。

 長い眠りからめた眼が、朧気おぼろげながらも傍らの獅子の姿を見つけて揺れる。


「……陛、下……?」


 乾き切った唇から掠れた王女の声が洩れた。

 感極まった侍女たちが再び涙ぐみ、抱き合うようにして口もとを押さえている。


「陛下……やっと……お戻りに……よくぞ、ご無事で──」

「馬鹿者。それはこちらの台詞だ」


 口角を持ち上げてそう言うが早いか、皇帝は力強いかいなを伸ばして王女を抱き寄せた。少しでも力を込めすぎればもろく壊れてしまいそうな肩に顔をうずめる。

 むせく侍女たちの声が聞こえた。宮医すらも涙を浮かべて唇を結んでいる。

 奇跡は起きた。誰もがそう思った。

 王女の細い細い腕が震えながら、懸命に獅子を抱き返そうとする。


「すまなかった。俺がもう少し早く戻っていれば……」

「いいえ……いいえ、陛下。私は、もう一度……陛下の……ご無事な、お姿を……見られただけで──」


 そう答えた王女の頬を、涙が伝うかに見えた瞬間だった。

 突如ぐっと声が詰まり、王女が全身を硬直させる。

 異変に気づいた皇帝が体を離した。が、どうした、と尋ねるよりも早く、口もとを押さえた王女の指の間から、にわかに鮮血が噴き出してくる。


「殿下!」


 きぬを引き裂くような侍女たちの悲鳴がとどろわたった。

 血を吐いた王女は寝台の上にうずくまり、苦しげなうめきを上げている。

 動転した宮医がすぐさま駆け寄ったが、状態をるよりも早く、王女がこの世のものとは思えぬ叫びを上げて暴れ出した。

 衰弱し切った体のどこからそんな力が湧いてくるのか、寝台の上をのた打ち回り、止めようとした皇帝の手すらもけてしまう。


「おい、しっかりしろ! まさか薬の製法が誤っていたとでもいうのか……!?」


 暴れ苦しむ王女の姿は薬を飲まされたというよりも、毒をあおったときのそれに近かった。髪を振り乱し、喘ぎに喘いだ王女は唇を血で濡らしながら、やがて全身を痙攣けいれんさせ始める。


「殿下! 殿下、どうかお気を確かに……!」

「頼む、死ぬな! おまえを失えば、俺は……!」

「……へ……陛、下……わた、し……は……」


 ついに暴れ回ることをやめ、腹部を押さえた王女は何か告げようとしたようだった。されど彼女は再び激しく嘔吐えずき、苦しみ始める。

 もはや誰もが茫然と立ち竦んでいることしかできなかった。

 しかし、王女が次に吐き出したのはどす黒い血の塊ではなかった。

 彼女の白く細い喉を、何か得体の知れないものがうごめき上ってくるのが分かる。


 次の瞬間、王女はを吐き出した。王女の血と体液にまみれて生まれ出でたは、汚泥で染めたように真っ黒な、繭状まゆじょうのぬらぬらした物体だった。まるで腐った臓物が吐き出されたかのような光景に、侍女たちがまたしても悲鳴を上げる。


 だが皇帝はひと目で理解した。


 


 十九年もの長きに渡り、運命にもてあそばれた哀れな王女を苦しめ続けた──


「こいつが……こいつがすべての元凶か……!」


 皇帝はそう叫ぶや否や、白絹の上に転がった醜い蟲を掴み上げ、容赦なく床へ叩きつけた。果たして蝶の国の先人たちは何を見てを〝蟲〟と断じたのか、そこにはも口も触角すらもない。本当にただの芋虫状の物体だ。

 されどさえ始末してしまえばすべてが終わる。

 皇帝はかつて不死蝶ふしちょうに愛された地で、かの地の王族を拷問にかけ知ったのだ。


 蝶の国の王室に代々隠されてきた〝蟲〟は人に寄生し、宿主が死ねば遺骸を苗床として卵を生む。そうして生まれた新たな蟲は、内側から宿主の屍肉にくを食い破り、再び地上に生まれ出る。蟲が大きく育てば育つほどその子孫は毒性を増し、生き延びた宿主をより強力な生ける兵器へと変えてゆくと……。


「おい、誰か火を持て! この忌々しい蟲を地上から消し去ってやる……!」


 そして数百年に渡り続いた、おぞましい歴史に終止符を打つのだ。

 燃え上がるような激情いかりと共に皇帝はそう命じた。

 扉のすぐ傍に待機していた侍女のひとりが、すぐさま閨を飛び出そうとする。


「待って!」


 ところが突如悲鳴に似た絶叫こえが響き渡り、皆の視線が寝台の上に集まった。

 そこには青白い顔をしながら、自力で体を起こした王女の姿がある。

 痩せさらばえた自身の体重を支えることもできず、今にもくずおれてしまいそうな気配をまといながら、されど王女の視線は床の上の蟲に釘づけだった。

 かと思えば彼女は震える手を伸ばし、寝台の上をう。

 一歩一歩、まるで何かにかれたように。


「おい、何を……!」

「陛下」


 只事ならぬ様子に顔色を変えた皇帝が、すぐさま王女の奇行を止めようとした。

 ところがそんな皇帝を、皇太后が制止する。

 彼女の眼差しはひたすらに、蟲へ這い寄ろうとする王女へ注がれていた。

 もう半年も寝たきりでいた王女は、当然ながら立ち上がることもできない。

 すっかり肉の削げ落ちた手足では、這って進むのさえひと苦労だ。


 されど王女は懸命に自らの体を引きずり、やがて寝台から転げ落ちた。慌てて駆け寄った侍女のひとりに助け起こされても、彼女の姿など見えていないかのように床を這い、とうとう打ち捨てられた蟲に手が届くところまでやってくる。

 喘ぐように息をしながら手を伸ばした。床に転がった蟲は動かない。

 やはり腹の中で、とっくに死んでしまっていたのだろうか。

 けれど恐る恐る触れた体表は仄温ほのあたたかかった。今まで触れたこともない、奇妙にして不気味な手触りだったが、王女は構わずそれを抱き上げる。


「ああ……やっと……やっと、会えた……」


 血と体液にまみれた塊を腕の中に抱き、王女は喉を震わせた。

 蟲はやはり動かない。十九年、文字どおり生まれたときから寄り添ってきた唯一の友のむくろを前に、王女はさめざめと涙を流す。


「ごめんなさい……今日まで私を生かしてくれたおまえを……最後に裏切り、殺してしまった。本当にごめんなさい……ありがとう……」


 そう言って身を屈め、嗚咽おえつを零す王女の姿は見る者の心を打った。頬を伝う涙は窓の外の紫蘭がまとう朝露のごとく、輝きながら蟲の骸へと降り注ぐ。

 ところがそのとき、王女の腕の中で何かが動いた。

 初めは気のせいかと思ったが、もぞり、もぞりと確かに蠢いている。


 王女は涙をいっぱいに溜めた目を見張り、腕の中の蟲を見た。

 途端に黒々とした蟲の体表に亀裂が走る。まるで見えざる刃物が蟲の体の表面をすうっと走ったかのようだった。されど王女はそこで気づく。

 違う。これは蟲ではない。根拠など何もないはずなのに、本能で理解した。


 これはさなぎだ。


 長い長い時間をかけて、王女という名のゆりかごの中で育った──


「陛下」


 思わずそう呼びかけたときには、皇帝は既に傍らにいた。

 肩を抱かれた王女の腕の中で、黒い蛹が羽化していく。誰もが言葉を失った。

 禍々まがまがしい皮を破って現れたのは、蝶のはねだ。伝説の不死蝶を思わせる虹色の。


「ああ──」


 王女の唇から震えた声が洩れる。ゆっくりと天に向かって伸びゆく翅は、玉虫色のつやを持つ黒い翅脈しみゃくに縁取られていた。されどその翅のなんと美しいことか。

 不死蝶を模して作られたという蝶の国の羽衣などもはや比較にならない。

 まるで神話だ。触れるのもはばかられるほど醜悪な蛹の姿からは想像もつかない虹色の翅が、今、力強く羽ばたいていく。


「なんということ」


 陽だまり色の鱗粉りんぷんをまとって飛ぶ蝶を、誰もが唖然と見上げていた。

 すると開け放たれた窓の外から、野生の蝶が呼び寄せられたかのように集まり、一際大きな虹色の蝶と共にくるくるとあたりを舞い始める。

 王女の閨はあっという間に色とりどりの蝶で埋め尽くされた。


 ああ、恐らくこれは宴だ。


 神なる蝶の誕生と、新たな時代の幕開けを祝福するための。


「……驚いた。おまえは本当に不死蝶に愛された王女だったのだな」


 座り込んだままの王女の肩を抱き、蝶たちの饗宴を見上げた皇帝が笑った。

 ふたりを見下ろし、誇らしげに羽ばたく虹色の蝶を見て、王女もまた濡れた頬に微笑を浮かべる。


 ──それから数年ののち。


 長らく戦乱の世が続いた大陸は、金の獅子の旗を掲げた帝国により統一された。

 大陸平定ののち、再び皇帝の夢に現れた黄金の獅子は、以後数百年に渡る帝国の繁栄と平和を予言したという。同じ頃、金獅子帝国の皇宮では後宮が取り壊され、皇帝の妻は皇后ただひとりと定める新法が欽定きんていされた。


 新たな法の下では初となる皇后に迎えられた蝶の国の王女の名は、遥か海の彼方にまで知れ渡るほど優れた良妻賢母の手本として、後世まで語り継がれている。








(了)

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蟲の王女 長谷川 @es78_

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