人生で最高の一日が、

@yu__ss

人生で最高の一日が、

 ここに来て勝負手が入った。

 ビッグブラインドポジション。アンダーザガンから順番にフォールドを示すようにカードを投げていくが、真正面に座る一人だけがチップを積んだ。スモールブラインドがフォールドを宣言してハンズを確認する。エースキングのクラブのスーテッド。常ならほぼ無条件で行くような手だ。ヘッズアップの形になり、随分と考えたフリをしてから、抑揚のない声でコールを宣言した。

 思えば今日は一日良くなかった。想像していたよりもベッドが硬くてよく眠れず、ベッドから落ちて目が覚めた。ホテルのシャワーからはお湯が出ず、諦めてタオルを濡らして体を拭く羽目になった。目元には隈が残っていてコンシーラーでは誤魔化しきれていない。持ってきたと思っていたお気に入りのタブレット菓子はボストンバッグに入っておらず、望みをかけて遠目のコンビニまで足を伸ばしたが手に入らなかった。

 会場に入ってからもそうだ。入った席には尽く録でもないプレイヤーばかりで、突然歌ったりするようなヤツ、大きな声で叫ぶヤツ、ポロポロとチップをこぼすヤツ、煩くて集中出来ない。

 クイーンズが入ったと思ったら相手にエーシズが入っていたり、フリップにセブンハイで参加するようなブラフを読み切ってレイズすれば、ターンとリバーでツーペアを作られたり、そんなバッドビートばかりだ。

 このテーブルでだってずっと我慢の時間が続いていた。前に出れるようなハンズにならずブラインドだけ取られ続ける。不意にブラフで出れば強気なハンズに潰されたりでジリジリと削られていく展開。ブラインドは大分高騰し、参加費を払い続けるだけでも辛い。最終日に残れるかは、このポットを取れるかが鍵を握ることになりそうだ。

「みーちゃん、入った?」

 くつくつと嫌らしい笑みを浮かべ、口元を隠すように右手をあてる。光の陰影が強い会場内で、ぎらぎらと下品に光る装飾が指にも手首にもついている。

「ずーっとつまんなそうだったもんねぇ」

 真正面に座る射干玉のような黒髪をした女が、他の誰にも伝わらないであろう言語で話しかけてくる。ただの雑音として無視を貫き、無表情を作る。ゲーム中に話すのは好きじゃない。もちろん話しかけられるのもだ。

 フロップが開かれ、クラブのクイーン、ダイヤのエース、スペードのフォーが並ぶ。エースのトップヒット。この時点での勝率は九〇パーセントを上回るはずだ。すべての表情を消し、また少し考えるフリをしてからポットの半分ほどのチップを積んだ。

「わかっちゃうなぁ……みーちゃんのことだもん」

 手遊びのようにチップを鳴らしながら、こちらを伺う黒髪の妖狐はずっと笑みを浮かべている。神楽や神事に使われる狐面が張り付いているかのようだと、今までに何度思ったかわからない。彼女の実家が稲荷神社だったことも手伝っているだろう。

「みーちゃんが嬉しそうだから私も嬉しいなぁ」

 蜂蜜を煮詰めたような糖度と粘度を感じさせる口調でこちらに話しかけてくるが、こちらからは目を合わせない。嬉しそうだなんて宣っているが、声も表情も隠しているのだからそんなことがわかるはずがない。お得意の口三味線だ。

「どーしようかなぁ……みーちゃんに勝たせたあげたいなぁ」

 そんな言葉で私の心内を探っているらしい。一切の反応を返さない。

 それでも彼女はこちらを見つめながら、ゆったりとした手つきでチップを置いた。ポットの倍額程度の大きなレイズだ。彼女のハンズがクイーンズかエースクイーンあたりだと勝率は逆転するが、そんな手が入っているだろうか。さて、どうする?

「ふふっ、今度はちゃんと考えてくれてるねぇ? さっきまでは考えるフリばかりしてたのに……やっと向き合ってくれる気になった?」

 その言葉を聞き終える前にコールを宣言するためにチップを置いた。彼女の話など聴いていない。聴いてあげない。ターンが開く。スペードのエース。勝ちを確信できるようなカード。ここは強気のレイズでいいはずだ。ここでポットが取れなければ明日には残れなくなるだろう。

 明日は最終日。最後のテーブルまで残れれば五万ドルを超える賞金が確定する。上手くすればその十倍の優勝賞金にまで手が届くかもしれない。

「欲しいよねぇ」

 どっちにしてもここを落としたらこのまま敗退だろう。行かねばならない。どうせならリバーまで付き合ってもらおうか。テーブルを人差し指で二回ノックしてチェックを宣言する。

「心配しなくても、最後まで付き合うよ?」

 そう言いながらも、彼女は未だチップを鳴らしている。積もうかどうか迷って、こちらの手を考えているのだろうか。だとしたら彼女もエースを抱えていて、もう一枚はキングかジャックあたり? エースクイーンだとしたらノータイムで載せてくるだろう。

「でもほんとに欲しいのは、別のモノでしょう?」

 彼女はテーブルをノックする。リバーが開いた。誰もがディーラーに集中する瞬間を、遮るようにテーブル越しに声が届いた。

「……ねえ、昔話でもしよ」

 先ほどまでのベタつく声が、ふと変化を見せる。

「随分遠くまで来ちゃったよねぇ」

 その声を聞いたのは、随分と久しぶりな気がした。小さな机を挟んで相手の心の中を読み合った日々。

「あんなこと言わなきゃ良かったなぁ」

 開いたカードはかすりもしないハートのエイト。状況は変わっていない。さてどうするか。古い記憶に浸っている場合ではない。勝負所だ。集中せねば。

 プリフロップ、フロップでも積んできたが、ターンでは私のチェックに合わせてきた。そこだけ読むとおそらくエースは入っていない。クイーンが入っているのだとしたら納得できる動きだ。クイーンが入っている形で彼女が勝てるのはクイーンズとエースクイーン。クイーンズだとしたら自然な振る舞いだろうか?

「ねえ、覚えてる?」

 逆かもしれない。キングクイーンあたりでフロップでこちらのチェックを見て降ろすためにレイズ、しかしこちらがコールしたからターンでは様子見のチェック。こちらの方が自然だろうか。

 どちらにしてもオールインしかないか? 次に勝負できるハンズになるかはわからない。

「『まあ、勝てたらね』」

 ……その台詞に、あの日の彼女が蘇る。

『元気だしなよ』

 急に彼女がそんなことを言った。放課後の教室、吹奏楽部の練習を聞きながらオレンジに染まる彼女の顔を観ながら、彼女の心の中を考えていた時のこと。

 オンラインホールデムに嵌って、ライブでもやってみたくなったときに彼女は初めてくれた。

 来る日も来る日も飽きもせず。雨でも雪でも。彼女の心に沿うように、彼女の心の中のことばかり考えた。お母さんと喧嘩した日も、世界史の授業であてられた日も、彼女のシャーペンを踏んでしまった日も。

『……私が付き合ってあげるからさ』

 あの日はそうだ、少し嫌なことがあったんだ。

 だから少し優しくしてくれるかもなんて思っていたのだけど、まさかそんな言葉で慰めてくれるなんて、思ってもみなかった。

 ……驚いた。

『まあ、勝てたらね』

 彼女は笑っていた。

 けど、私はなぜか泣いてしまった。

 あの日から、随分と時間が流れたけれど、未だに。

 ……とっくに忘れたと思ってたのに。嫌な奴。

「素直に言えなくなっちゃったよねぇ……」

 彼女の声色が戻る。べたべたとする甘ったるい声。勝負中に話しかけられるのは、嫌いだ。

「ほんとに欲しいのは栄誉でも賞金でもないんでしょう?」

 何を言っているのかわからないが、心は決まった。

「オールイン」

「コール」

 間髪入れずに彼女がコールを宣言し、ショウダウン。お互いに手を開いた。

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