第5話
「もうこのまま冷凍庫に入ってみない?」
私はあのかたに尋ねました。あのかたは真っ青になってそれだけは嫌だと言いました。
「だって今も、冷蔵庫の中にいるじゃない。ここよりもうちょっと寒いくらいでしょ?」
私は言いましたが、それでもあのかたはかたくなにそれだけは嫌だと言いました。そして無理矢理わたしがいれようものなら、舌をかみ切って死ぬとまで言いました。あなたには舌がないじゃない、と心の中で思いましたが、口には出さず、代わりにため息をつきました。
あのかたと出会ってから、二週間がたとうとしていました。世間は新生活が始まり、慌ただしさと困惑が入り混じったような空気に覆われていました。私は毎朝の日課となりつつある、冷蔵庫のなかをあけてあのかたに挨拶をするという儀礼を執り行いました。
扉を開けると、新入りの野菜たちが恍惚とした表情であの方の周りにたかっています。あのかたのからだは、グロテスクな黒色に包まれていましたが、新人は何を勘違いしているのか、それを神からの授けものだと、のたまって日々あのかたに祈りを捧げているのです。
「わかってるよ」
あのかたが、私を見て言いました。思わず抑えていた感情が表に溢れてきそうになります。必死にそれを殺しました。
「なんのこと」
言いながらも、彼の前ではやはり、何もごまかせないんだと悟りました。
「お別れのときです」
あのかたに言いました。声が震えないよう、気を配ったつもりでしたが、それでも語尾の声は情けなく縮み上がっていました。
私はあのかたを連れて、公園に行きました。二人で初めて出かけたあの公園です。あのときと同じようにベンチに腰かけました。思えば二人で出かけたのは、あのときだけです。どうしてもっと色んなところに行かなかったのだろう。思えば、会社などいつでも行けるのです。しばらくの間休みをとって、もう少し二人の時間を過ごせばよかった。そんな後悔が次から次へと湧いてきます。
「このー木なんの木」
あのかたが突然言いました。あのかたは公園のすみの木を見つめていました。以前来たときは、どこにでもある平凡な木でしたが、今は違います。その木は枝葉の淡いピンク色の花びらをいっぱいに広げて懸命に自分の存在を周囲に証明していました。
「桜の木だったんだね」
私の応えを待たずしてあのかたが言いました。その声は少しの後悔もなく、満足しているように聞こえました。あのかたの生にしがみついているのは本当に私だけなのだと改めて気づきました。そしてそれに気づくと、不思議とすべてを受け入れられるような気がしてきました。
目の前を桜の花びらが、ひらりと舞っていきました。私は桜の花びらをつかもうと宙をつかみますが、なかなかうまくいきません。何度か繰り返してみましたが、花びらは不思議と私の手のひらを逃れ、どこかへと流れていってしまうのです。
私は諦めて、手もとの入れ物をあけ、あのかたを見つめました。あのかたはもはや黒い塊となり、異臭をはなっています。あのかたの寿命はとても短く、本当に愛おしいものはこんなにもはかないということを知りました。
あのかたによく見てもらうために桜の木にそっと近づいていきました。風に流され宙を舞っていく花びらを、あのかたは黙って見ていました。そして大きくため息をつきました。それは思わず出てしまった感嘆に聞こえました。桜の木の真下に来ると、空がピンク色に染まっているような錯覚に陥ります。最後にこの光景を見せられてよかった、心からそう思いました。そして桜の木の幹に背をあずけ、あのかたをじっと見つめました。
あのかたは深く大きな呼吸をしていましたが、少しずつゆっくりしたものになっていき、やがてとまりました。
あのかたの魂が白い蒸気のように浮き上がり、私の目の前でゆらりと漂っていました。ふいに強く風が吹き、花びらとともに宙にまいあがり、そのまま空高く飛んでいってしまいました。
しばらく私はぼんやりと空を見上げていました。桜の花びらがひらひらと舞い落ちてきます。それが祝福なのか悲哀なのか、私には判断できませんでしたが、とても綺麗な光景でした。
振り返って今まで背をあずけていた木の幹に腕をまわしました。大きくごつごつした木の幹を抱きしめると、私が木の幹を抱いているのか、木の幹が私を抱いているのか、わからなくなってしまいました。どちらにせよ、ふわふわと湧きあがる不思議なこの気持ちは変わらなければ、どちらだっていいんだ、そう思うことができました。
しばらくそうしてから、桜の木の下にあのかたを埋めました。あのかたの抜け殻は、それはたいそう醜いものでした。よくこんなものを触っていたなぁと真っ黒な米粒を見ながら思いました。早く埋めないと、カビが空中に舞って私の口や鼻から体内に入ってくるでしょう。私は腐った米の塊に土をかけて、それを埋めました。
それから私は、時折その公園を訪れるようになりました。特に何をするでもなく、ただ桜の木にもたれてただじっとそこにいるだけで、不思議と心が安心するのでした。
その日も公園に向かいました。しかしいつもと様子が違うようです。公園の前には大きなトラックが止まっていました。あたりには、耳をつんざくような嫌な音が鳴り響いています。それに呼応するように私の心臓もおかしな音を立て始めていました。公園を覗き込むと、ヘルメットを被った男たちが木の周りに集まっています。
一人の男が大きな音を立てて桜の前に踏み出しました。手にはチェーンソーが握られています。嫌な音の正体はこれでした。男はチェーンソーを桜の幹に当てました。私は、やかましい音とともにチェーンソーの刃が幹にゆっくりと沈んでいくのをただぼんやりと見ていました。やがて木がゆっくりと傾き、地面に倒れ込みました。
空を見上げると、どこかから花びらがひらりと舞ってきました。手を伸ばしてそれをつかもうとしましたが、私の指先をすり抜けどこかへ舞っていき、消えてしまいました。
花びら @YuiiHiiragi
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