第4話
「どうして」
なぜそんなことを言うのか、私には理解できませんでした。こうでもしない限り、あなたは生きることができないのに。それを伝えてもなお、あのかたは冷凍庫に入ることを拒みました。
「もういいんだ」
いっそ清々しい口調で、あのかたは言いました。その言葉には少しの後悔も残されていないことを知りました。あのかたはわかっていたのです。このまま私たちが一緒にいても幸せにはなれないことを。そしてあのかたは、このまま無様に生きてこの世にしがみつくことよりも、自然の摂理に従って自分がいなくなることを選んだのです。
あのかたらしい選択だな、今になるとそう思います。でもあのときの私は一緒にいたい思いでいっぱいだったので、その選択を受け入れることができませんでした。「もう知らない」と言ってあのかたを冷たい冷蔵庫に放り投げ、扉を閉じてしまいました。そうしてからひどく後悔が体中を駆け巡りました。その後悔から逃れるため私はベッドに飛び込みひたすら泣き沈みました。
目の裏にひどい朱色を押しつけられたような気がして目を覚ましました。時計を見るととっくに会社にでかける時間を過ぎています。清々しいまでの寝坊。これまで私は、社会では真面目な人間としてふるまってきたのでこんな失態をおかしたことはありません。それでもなぜか焦りという感情は沸きませんでした。ただぼんやりと自分の置かれた状況を眺めているかのような不思議な気分でした。あのかたはどうしているだろうか、怒っているのか笑って許してくれるのか、どちらだろう。緊張しながら冷蔵庫を開けると、そこには信じられない世界が広がっていました。
あのかたは冷蔵庫の中心でプラスチックケースの上に乗り全てを見下ろすかのように鎮座していました。そしてその周囲には野菜や肉があのかたに向かって跪き、崇拝するように見上げています。
あのかたは私がいないことをいいことに冷蔵庫のなかに自らの王国を作り上げていたのです。あのかたのからだは相変わらず病魔が蝕んでいるようでしたが、以前よりも進行は遅くなっているようです。冷蔵庫の明かりに背後から照らされた姿は、まさに救世主のそれでした。
あのかたは私のことを少しも見ようとしません。すまし顔のあのかたを見ていると、怒りがへその辺りからじわじわと沸きあがってくるのを感じました。乱暴に冷蔵庫のドアを閉めると冷蔵庫の中からがちゃん、とひどい音がしました。その音を無視して会社へとでかけました。
会社ではろくに業務に集中することができず、ミスばかり積み重ねていました。上司からは何度も叱責され、最後には「大丈夫なのか」とまで言われる始末です。大丈夫なはずありませんが、嘘をついてその場をしのぎました。
このまま一人で死んでしまおうか、一人で海に沈んでしまったらあのかたはどう思うだろう。あのかたは何が起きたのか知らずにずっとあの冷蔵庫に入ったまま少しずつ、じわじわと朽ちていくのでしょう。周りで喚き散らしている野菜のくずたちも同じです。ざまあみろ。私はひとりクスクスと笑いました。
家に帰り、冷蔵庫の前を通りすぎようとしました。自分のなかで決意を決めて夕飯も外で済ませたというのに、気づけば冷蔵庫の前で足を止めていました。自分の意志の弱さに嫌気がさします。冷蔵庫の取手に手をかけるとひんやりとした鉄の温度が手にじんわりと染み渡るのを感じていました。そしてゆっくりと冷蔵庫を開けました。けれど私は決して、あのかたを見ないようにしていました。あのかたも同じように私のほうを見ようともしません。
私は無意味に卵を取り出して扉を閉じました。私の手に包まれた卵は不服そうに私のことを眺めています。「どうせほしいのは、アタシじゃないんでしょ?」卵にそう言われているような気がして、慌てて茶碗に割り入れました。
「割ったからって何になるのよ」卵は言いました。慌てて箸でかき混ぜます。「かき混ぜて何になるのよ」そう言っているような気がして、いつまでもぐるぐると茶碗に箸をこすりつけました。
気づくときれいな黄色の液体が茶碗の上に広がっていて、私は安心して箸を置きました。それからまた冷蔵庫の扉を開けました。再びあのかたと目が合いましたが、お互いに何も言いません。
そうして数日、何も進展がないまま過ごしました。私たちは、それぞれその存在は認めているけれど、けっして相容れようとしない飼い犬と野良猫のような関係でした。しかし私はそのようにしながらも、あのかたの身体を素早く、そしてこっそりと観察していました。やはりあのかたの身体のぐあいが心配だったのです。日に日に、あのかたの身体の斑点が増えていくのを感じていました。やはり冷蔵庫にいれてもあの忌まわしい斑点の侵攻を止めることはできないのです。
「ねぇ」
根気負けしたのはやはり私でした。
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