水やり
瞼を閉じていた。何故、自分が眠っていたのかをすぐには思い出せなかった。
夕人はゆっくりと重い瞼を開けた。その瞳には、真っ白な壁が映った。すぐにそれが天井だということに気が付いた。
そして夕人は、ここが自分の部屋ではないことにも気が付いた。塗装は同じ白色だが、まず照明が誓った。この部屋の照明は蛍光灯だった。クリーム色の光が夕人を照らしている。
部屋の全体を見渡そうと、上半身を動かそうとした。だが、夕人の思い通りに体は反応しなかった。
仕方がないので、限界まで顎を引いた。すると視界に、自分の下半身と、もう一人の姿が映った。
母親だった。夕人の眠っているベッドに、顔を伏せてて眠っていた。
「母さん」
うまく言葉を発せていない気がした。しばらく声を出していないようだった。
発音のはっきりとしないその言葉は、母親に届くことはなかった。夕人の母親は、熟睡している様子だった。かすかに寝息が聞こえた。
「起こさないであげて」
前方の方から声が聞こえた。落ち着いている女性の声だ。夕人はその声に聞き覚えがあった。
「夜風?」
部屋の隅にまで、夕人の視野は届かなかった。夜風の姿を視認することはできなかったが、確かにいるのは気配で分かった。
「そうよ。あんたの母親、ずっと病室にいたのよ」
病室というキーワードで、微かに記憶がよみがえってきた。自分が入院していることは把握できた。
「怪我したのか、俺」
「何日も寝ていたのよ」
夕人は自分の体が、重症なことを知らされた。そして、地震の記憶も蘇ってきた。
「俺、もう起き上がれないのか?」
手足が全く動かなかった。正常に機能しているのは顔の部位だけな気がした。
「久しぶりに起きたから、体がマヒしてるだけないんじゃない? 目が覚めて、少し入院したら治るって医者も言ってたし」
「そうなのか」
夜風の言葉で、夕人が感じていた不安が和らいだ。気のせいか、指がかすかに動いた気がした。
「あんたはましな方よ」
冷ややかな声だった。いつも以上に夜風の声は冷めていた。
夕人は地震のことを思い出していた。それと同時に、恐怖も呼び起こされた。
記憶の中では、何度も家の照明がこちらに向かって、落下してきた。しかし、いくら思い出しても、直撃はしていなかった。落下してきたところで、夕人の記憶は終わっていた。
「もしかして、日向……」
今の自分の状況、夜風の言葉、記憶の断片。混乱の中、夕人は頭を回転させた。夕人は、一つの答えを導き出した。
「俺をかばったのか」
照明が落下すると同時に、自分の名前を叫ぶ日向の声を思い出した。
「そうみたいよ。実際その場にいたからわからないけど。夕人の上に、日向が覆いかぶさってたみたい」
情けなかった。軽い地震の中、夕人は油断していた。その時必要以上に怯えていた日向に、まさか助けられたとは思わなかった。
「……それで、日向は」
夕人は最悪の事態を想像してしまった。庇ったということは、照明をもろに食らったということだ。庇われた夕人も数日寝込んだほどの地震だ。無事ではすんでいないと思った。
「生きてるよ。別の病室にいる」
死という不吉な文字が、夕人の中から消えていった。最悪の状況は回避していたようだ。
「よかった」
「ただ、もう目を覚ませないかもって」
「……」
嘘をつくような人間ではないことを知っていた。しかし、夜風の言葉を信用するわけにはなかった。
「嘘だろ?」
「……」
無音の数秒が通り過ぎた。その静寂の中、先ほどの言葉が真実なことを悟った。
「そんな……」
日向の無邪気な言動が、走馬灯のように流れだした。
地震が起きる前、その鼻につく無邪気さも、悪くないと思った。
なのにもかかわらず、もうその姿を見ることはできない。夜風の言葉は理解しても、信じたくはなかった。
「植物状態らしいわ。今の医学じゃ、どうすることもできないってやつらしいわ」
「俺をかばったせいで」
「そうかもね」
夜風の淡々とした喋り方が、夕人の罪悪感を膨張させていった。
「もう、あいつは傍にいないのか」
夕人は頬に冷たいものを感じた。自分でも知らぬうちに、目から涙がこぼれていた。
今まで感じたことがない消失感に、夕人の胸は浸食されていた。
「夕ちゃん」と呼ぶ声が、夕人の脳内で反響していた。
「泣くのね、あんたでも。日向の事、嫌がってたくせに」
「……」
返す言葉がなかった。調子がいいのはわかっていた。常に傍にいる日向に嫌気がさしていたのは事実だ。日向の自分のへの気持ちを知っていながら、夜風とともに過ごした。
最低なことをしてきたのは、重々承知だった。夕人には悲しむ権利がないのかもしれない。けれど、涙が止まることはなかった。
「ありがちだな」
失って初めて、日向の大切さに気が付いた。昨日までペットのように、夕人の傍を歩いていた。それを嫌がることすら、もうできなかった。
「ありがちでも、気が付けたならよかったじゃない」
「気が付くのが遅いだろ」
実は夕人は、一度も日向から「好き」という言葉を聞いたことがなかった。今更だが、日向の気持ちをないがしろにしたことを、後悔した。
「後悔しても仕方ないでしょ。日向のためにも、あなたは精一杯生きなさい。あの子は、夕人が幸せなら、きっと笑顔になる」
夜風の言葉は、夕人には響くことはなかった。夕人は、自分が代わりに永遠に眠ればいいと思った。
「……少し、一人にさせてくれないか。ゆっくり考えたい」
「そう」
「せっかく見舞いに来てくれたのに悪いな」
「別に。気持ちを整理する時間も必要よ」
夜風の声がだんだんと遠のいていった。
「じゃあな」
「そうだ、最後にこれだけは言っとくわ」
冷静だった夜風の声色が、微かに丸みを帯びた気がした。
「まだなんかあんのか」
「水やりご苦労様。さようなら」
それ以上、夜風の言葉は聞こえなかった。
それから、空虚な時間が続いた。
夕人は感情を抑えつつあった。涙も止まった。
日向との思い出を呼び起こしていた。ひまわり畑をはじめ、様々な場所に一緒に出掛けた。学校生活もほとんど一緒だった。
そこで、夕人は夜風の最後の言葉を思い出していた。
夕人は日向の世話をしていた。世話をするだけで、夕人自身は何も貰っていないと思っていた。しかし、それは夕人の思い過ごしだった。
夕人は日向から、大切な思い出を沢山貰っていた。
花を育てるのと一緒なことに気が付いた。植物は水を与えると、花を咲かす。夕人はその花を見たくて育てていた。匂いも嗅ぐことができ、確かな報酬を貰っていた。
「やっぱり、気が付くのが遅いよな」
夕人は動くようになった手のひらを、強く握りしめた。
その数秒後、隣で寝ていた夕人の母親が目を覚ました。
母親は小さなあくびをついた。
「母さん」
夕人はそのあくびで母親が起きたことを確認した。
「夕人?」
夕人の声を聞き、母親は眠気が吹っ飛んだ。そして、慌てて夕人に顔を近づけた。
「心配かけてごめん」
「よかった。目が覚めて本当によかった」
夕人の母親は、すぐに涙を流した。
「泣かないでよ」
「ごめん」
母親は鞄からハンカチを取り出し、涙を拭いた。そして、夕人を再度見ると、夕人の頬が濡れていることに気が付いた。
「夕人、泣いてたの?」
母親は手に持ったハンカチで、夕人の涙も軽くふき取った。
「日向の話、聞いたんだ」
「……そうだったの」
母親は夕人と目を合わせず、下を向いた。
しばらく沈黙が流れた。母親は、夕人に日向のことを、どう話そうか悩んでいたのだろう。
「でもその話、誰からきいたの? 私が眠っている間に、誰か来たの?」
そうとう夕人の看病で疲れていたらしく、夜風と夕人の会話は、一切聞こえていなかったようだ。
「来たよ。夜風が」
「よかぜ? 誰?」
「え」
思わず声が漏れた。
母親は、夜風のことを覚えていると思っていた。何度か日向とともに家に遊びに来たこともあったし、お茶の間の話題に出たこともあったからだ。
「高校のお友達?」
その時、謎の違和感が夕人を襲った。
夕人の記憶から、夜風という人物が姿を消していったのだ。
高校に入って、夜風に声をかけた日の事。日向と三人でいた時の事。
当たり前のように記憶されていた思い出たちが、次々と夕人の頭から消えていく気がした。
その時、夕人は察した。
失った花は、一輪ではなかったということを。
水やり当番 ~幼馴染嫌いの植物男子~ 高見南純平 @fangfangfanh0608
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