突然の
辺りはもう薄暗くなっていた。日中に比べると、暑さも和らいでいた。
シャワーも浴びたため、帰りが遅くなってしまった。
親が心配すると面倒だと思い、夕人は少し歩くスピードを速くする。幸い、夜風の住むアパートは、夕人の自宅からそれほど遠くはなかった。
再び、軽く汗をかいていた。結局、小走りになってしまった。息は乱れていたが、そのおかげで、予定よりも早く家の前まで着くことができた。
親にどう説明しようかと、言い訳を考えていた。そこで、二階建ての一軒家の自宅をみると、違和感を覚えた。電気がついていなかったのだ。父親は飲み会で遅くなると言っていたが、母親はいるはずだ。
違和感を覚えた後、隣の海沼家に視線を移した。
そこで驚くべき光景を目にする。海沼家のドアの前に、日向が体育座りをしていたのだ。
「日向?」
その声に気付き、日向はこちらに顔を向けた。そして、立ち上がって夕人の前に歩いてきた。
「どうしたんだよ、お前。鍵でもなくしたのか?」
海沼家に目をやったが、電気はついていた。
「ううん。鍵は持ってるし、今はお姉ちゃんがいる。お母さんは夕ちゃんのお母さんとスーパーに買い物だって」
「なら、どうして家の前なんかに」
「部活早く終わったから、夕ちゃんのこと待ってた」
よく見たら、日向はかなりの汗をかいていた。今は汗をかくほどの熱さではない。おそらく、夕暮れから待っていたのだろう。
「連絡すればよかっただろ」
夕人はポケットからケータイを取り出した。みると、日向からのメッセージや着信履歴でいっぱいだった。夜風に集中していて、ケータイを見ていなかったようだ。
「悪いことしたな。でも、外で待ってなくたってよかっただろ」
「話したいことがあったから」
「話したいこと?」
根拠はないが、嫌な予感はした。
「今まで、どこにいたの?」
言い訳は考えていたはずだった。だが、いざ直面すると、頭が回らなかった。
「別にいいだろ。とりあえず、家入るか?お茶ぐらい出すよ」
我ながら苦し紛れだと思った。
夕人は黙って家のドアに鍵を差し込み、ドアを開けた。日向も黙って、桜田家にお邪魔してきた。
夕人は小さいタオルを渡して、ソファーに座らせた。夕人の意図通り、日向は汗を拭き始めた。
静かだった。母親がいないというものあったが、日向がほとんど言葉を発さなかった。
いつもなら、子供のようにはしゃぐはずだった。
「私見ちゃったんだ」
いつも以上に、真剣なまなざしを夕人に向けてきた。
「何を」
「夕ちゃん、夜風の家に行ってたでしょ」
夕人の嫌な予感が的中した。学校からアパートまでの道中を見られていたようだ。
「……」
苦し紛れの言い訳を考えた。しかし、いい案は浮かばなかった。
「夕ちゃん?」
「……そうだよ。行ったよ」
「やっぱり」
日向はうつむいた。そして、突然立ち上がった。
「どうして? どうして、夜風の家にいたの?」
目に涙をためていた。今日は女子の泣き顔をよく見る日だった。
「落ち着けって」
「でも……」
「じゃあ聞くけど、行っちゃ悪いのか?」
逆切れに近かった。喧嘩する覚悟は既にできていた。
「それは……」
「俺と夜風は友達なんだし。お前だって、俺の家に遊びにくるだろ?」
「……ただ遊びに行っただけ?」
強くは反論しない日向を見て、夕人の頭に徐々に言葉が浮かんできた。
「あいつ、親がいないも同然だろ? だから、心配になったから行ったんだよ。友達として」
日向も夜風の家の事情は当然知っていたし、家にも訪れたことはあった。
「夜風のこと、好きなんじゃないの?」
「好きじゃないさ」
堂々と宣言をした。その言葉に嘘はなかった。
夕人はただ癒されたかっただけだった。誰でも良かったとは言わないが、欲望を発散したかっただけだった。
「……そっか」
日向は今にもこぼれそうな涙を拭きとった。少しは落ち着いたようだ。
夕人も徐々に心拍数が下がっていった。
「悪かったよ、黙って行って」
「ううん、いちいち報告するのも面倒くさいもんね。私こそごめんね」
「とりあえず、お茶でも飲もうぜ」
夕人は冷蔵庫から冷やしておいた麦茶を取り出して、コップに移した。
「ほら」
氷も入れた麦茶を日向に差し出した。
「ありがとう」
勢いよく麦茶を口に運んでいった。相当喉が渇いていたようだ。
「母さんがいつ帰ってくるかは知らないけど、ゆっくりしてけよ」
「ありがと」
少しずつ、朝のようないつもの空気を取り戻していった。
部活の話をしたり、授業の話をしたり、ごく普通の会話だった。
けれど、夕人は妙に普段の会話に安心を感じていた。
日向が泣いたのを見たのは久しぶりだった。以前は中学の頃だと記憶していた。
二人が夫婦とまで言われ、同級生にからかわれていた時だ。夕人の何気ない「こんなやつ好きじゃねえ」という言葉に、日向は傷つき泣いてしまった。
周りの連中もさすがにやりすぎたと反省し、夕人も反省した。まさか、その一言で泣くとは思いもしなかった。
夕人は日向の泣く姿が好きではなかった。何故なら、対応に困るからだ。さっきもそうだ。
いつも笑顔を絶やさない日向。長く一緒にいる夕人でさえ、その時の対処法を知らなかった。
「夕ちゃん、麦茶もう一杯貰っていい?」
「何杯目だよ。飲みすぎだ」
「いいじゃん。減るものでもないんだから」
「減るよ、馬鹿」
改めて日向と会話をしてみて、夕人は一つ思ったことがあった。
日向のことは好きでもないが、嫌いでもないと。
会話の幼稚さや、子供のような元気具合に苛々することはあった。しかし、常に会話は途切れず、日向といることはつまらないことではなかった。
「ねえ、夕ちゃん。久しぶりに部屋行ってもいい?」
「俺のか?」
「うん」
夕人の部屋は二階にあった。最近はリビングまで日向を招き入れたことはあったが、部屋は入れさせなかった。思春期ということもあり、部屋を見せるのはなんだか恥ずかしかった。
「まぁ、いいけど。荒らすなよ」
そう言って、二人は夕人の部屋へと足を運ばせた。
服や勉強道具が散乱などはしてなかった。綺麗に整理整頓されており、男の子の部屋というは印象しなかった。
「夕ちゃんの部屋、昔から綺麗だよね」
「お前と違ってな」
日向は久しぶりに訪れる夕人の部屋を、じっくり散策し始めた。
「なんもねえよ」
本棚などはあったが、漫画やゲームなどの娯楽は少なかった。
「花とかないんだね。意外」
夕人の部屋は男子高校生の部屋とは思えないほど、簡素だった。唯一の趣味ともいえる花も育ててはいなかった。
「匂いが凄くて眠れなかったり、集中できなくなるんだよ」
「夕ちゃん、鼻良すぎ」
日向はにっこりと笑った。
「あ、懐かしい」
日向はあるものを発見した。それは、勉強机の上に飾ってあった、一枚の写真だった。子供の頃に旅行で行った、ひまわり畑の写真だった。
そこには辺り一面のひまわり、そして幼き頃の夕人と日向が映っていた。
日向は麦わら帽子を深く被っていて、せっかくの笑顔も半分しか映っていなかった。
夕人は半袖をさらにまくってタンクトップのように着ていた。
「覚えてるじゃん」
「まあな」
日向は写真を手に取り、隅々まで見渡した。夕人も一緒に写真を眺めだした。
「匂いフェチの始まりの日だね」
「そうだな」
夕人は日向の首元を嗅ぎだした。今日で二回目だ。
「やっぱり日向は、ひまわりの香りがするな」
「また嗅いだな」
「別にいいだろ。減るもんでもないし」
「そうだね」
二人は顔を見合わせて笑った。先ほどの不穏な空気が嘘のようだった。
「夕ちゃん」
突然、日向の表情が真剣になる。
「どうした?」
「夕ちゃん、私ね」
日向は何かを言いかけようとしていた。夕人も言葉を聞く前に、その言葉が何なのか察しがついた。
「私……」
その時だった。
日向の足が震えだした。
「日向?」
そんな緊張するか、と夕人は思った。しかし、揺れているのは日向だけではなかった。夕人も少しずつ揺れていた。
二人の頭に二文字の現象がよぎった。
「地震?」
「夕ちゃん」
日向は恐れのあまり、咄嗟に夕人にしがみついた。
「そんな揺れてないだろ。怯えすぎだ」
夕人の体感からすると、揺れの強さは震度3もないように思えた。それぐらいの地震ならば、日本なら珍しいことではない。
揺れはすぐに収まった。
「怖かった」
「もう大丈夫だろ。女子って地震と雷に弱いよな」
怯える日向を見て、少し呆れていた。また日向は泣きそうだった。
大げさすぎだと、日向のことを馬鹿にしていた。
周りの者も一切倒れなく、これ以上は揺れが来ないと予測していた。
その油断が命取りとなった。
「きゃぁ」
日向の叫び声とともに、再び夕人の家が揺れだした。しかも、先ほどの微弱な揺れではない。震度5はあるのではないかと疑うほどの、強い揺れだった。
実際、二人の体も激しく揺れていた。周りの本棚や机も、動き出していた。
下からガラスが割れる音がした。さっき日向が飲んでいたコップだろうか。
音も次第に強くなっていった。
夕人と日向はなすすべがなかった。
地震は時間とともに強さを増していった。
「何かにつかまれ!」
体の芯から押し寄せてくる恐怖のなか、夕人は声を絞り上げた。
日向は近くにあった机にしがみついた。夕人も同じく机を掴もうと思った。
しかし、夕人の指が机に触れる前に、夕人の体は逆方向に追いやられてしまった。
そのまま床に転んでしまい、体を強く打ってしまった。
すぐに立ち上がろうとしたが、体が言うことを聞いてくれなかった。
「夕ちゃん、上!」
日向の声は聞こえたが、この揺れの中転んだ状態で天井を見上げるのは困難だった。
上を見上げることはできなかったが、頭上から歪な音が聞こえてきた。
その音の正体は天井証明だった。夕人の家にある照明は、細長い棒でつるすタイプのものだった。
その照明が、激しく揺れた音だったのだ。
夕人が力を振り絞り、上を見上げた時には遅かった。
輝きを失った照明が、夕人に向かって容赦なく落下してきた。
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