孤独
古いアパートに来ていた。木造建築で、お世辞にも綺麗とは言えなかった。二階建てで、部屋は八つほどあった。築二、三十年は超えているように見えた。
夕人がここに来るのは初めてではない。今年になってから、何度か訪れたことがある。
階段を上っていき、真ん中に位置する部屋のドアの前に立った。ドアに貼ってある表札には、角山と書かれていた。
チャイムを鳴らした。あまり聞き取りやすい音ではなかった。
ドアの向こうから、人の足音がしてきた。夕人は待っている間、深く息を吸い込んだ。辺りから、少し悪臭がした。
足音が止まると、ドアが開いた。現れたのは夜風だった。制服姿のままだった。
「よう」
「いらっしゃい」
短い挨拶をかわし、夜風の部屋へと足を踏み入れた。さらに臭いは強くなったが、数回来たことで多少慣れてはいた。
この臭いの正体は酒だった。ドアを開けてすぐにあるキッチンに、中身のないビール缶が数個おいてあった。
靴を脱ぎ、リビングに入っていった。小さなテーブルが一つと、布団が一枚敷かれていた。ここにも、缶ビールが何個か捨てられていた。
「ごめん、散らかってて。今、片付けるから」
夜風は夕人を招き入れると、ビールのゴミを片付けようとした。
「いいよ。どうせ、今日も散らかされるんだろ?」
「そうだけど」
そう言われて、夜風はその手を止めた。
このビールのごみは、夜風が出したものではなかった。夜風の父親が飲んだものだった。
この部屋には、父親と二人きりで住んでいた。といっても、父親は夜遅くまで帰ってこなかった。帰ってきたとしても、大量に酒を飲むだけだった。
そのため、ビールを片付けてもキリがなく、ある程度たまったら、まとめて捨てるようにしていた。
「親父さん、今日も遅いんだよな?」
「そうよ。またどっかの女と遊んでるんじゃない」
夜風の父親はほぼ無職だった。昼はパチンコ、夜はキャバクラや風俗通い。
そのお金は、母親の保険金から支払われていた。夜風の母親は、夜風が中学生の頃に交通事故で無くなっていた。
夜風の父親は、その事故の前まではきちんと社会に出て働いていた。カマラマンの仕事をしていた。そこそこ有名で、それだけで家族を食わせていけるほどだった。
しかし、妻を失ったことにより、だんだんと落ちぶれていき、今に至るというわけでった。
カメラマンとして稼いだころにためてあった貯金もあったので、夜風とともになんとか暮らしはできていた。ただ、それも底をつく勢いのため、夜風がバイトをして補っていた。ただし、そのお金も、父親の遊びに使われていた。
部屋の片隅に、黒い一眼レフのカメラが置いてあった。置いてあったといっても入れ物に入っているわけではなく、ただそこにあるだけだった。
「働きそうか?」
「さあね」
夜風は隅のカメラを冷たい瞳で見つめた。
「そっか」
「適当に座って」
夕人は鞄を置き、ビールなどのごみをどかしながら、座った。やはり、少々臭いがきつかった。
「で、今日は何しに来たのよ」
夜風も布団の近くに座って、胡坐をかいていた。
「何って、わかってんだろ」
「けだもの」
「お前から誘ってきたんだろ」
「日向にはバレてない?」
「あいつは部活中だよ」
部活動を終えた後、下校は別々のため、夕人が日向に会うことは基本的になかった。
異例として、バレー部の活動が早く終わり、桜田家に訪問してくることがある。もしも今日、その異例だった場合は、適当に図書館にでも行っていたと言えばいいと考えていた。
「ならいいけど」
「じゃあ、遠慮なく」
夕人は夜風の体に近づいた。ゆっくりと夜風の細い腰へと手をまわした。
そして、二人は唇をまじりあわせた。
「あんた最低よね。幼馴染裏切って」
「別に裏切ってねえよ。あいつとは付き合ってねえし。まあ、お前とも付き合ってはねえけど」
夕人は続いて、制服の上から夜風の胸へと手を伸ばした。
夕人と夜風が体を交わす関係になったのは、二年生になってからだった。
一年ほど前に流れた、夜風のいかがわしい噂。そのほとんどは、真実だった。今は夕人のみだが、今まで何人ものの男性と体を交わしていた。
それを夕人に知られた夜風は、今度は夕人を誘った。そう言った体験は初めてだったが、夕人は断らなかった。
「制服脱いでいい?」
「ダメだ」
「熱いんだけど」
「こっちの方が興奮するだろ」
クーラーはついていた。それでも夏の中、制服を着たままは、熱いと言わざるおえなかった。
夜風は全身に汗をかいていった。その汗の匂いも、夕人にとってはたまらなかった。
「やっぱり、夜風はアサガオだな」
汗の独特の匂いの中から、夜風本来の匂いを夕人は嗅ぎ分けた。
「どんな匂いなのよ」
「なんていうか、ミントみたいに爽やかなんだよな」
「爽やかか。私とは真逆ね」
「かもな」
二人はそのまま最後まで体を交わした。
外からはセミの鳴き声が聞こえてきた。
二人は汗だくになっていた。幸い今は夏なので、親にはどうにか言い訳できそうだった。それと、あとでシャワーを借りようと思った。
「ねえ、夕人」
「なんだよ」
「私の事どう思ってるの?」
布団に二人で寝転がっていた。夜風は真横から、夕人を見つめた。
「友達。そういう約束だろ」
「そうね」
初めて体を交わした日、付き合うという選択肢もとれた。しかし、夕人はそれを拒んだ。勢いでやってしまったが、夜風を心から好きとは思えなかった。日向のこともあるので、夜風とは今まで通り友人で、たまに体の関係を持つ、という約束をした。
「ねぇ、夕人」
「今日はよく喋るな」
「私たちの記憶が真実だっていうことは、誰にも証明することができないらしいわよ」
「どういうことだ?」
突然の質問に夕人は困惑をした。夜風がそういった話を口にするのは意外だった。
「聞いたことない? この世界が五分前にできたことを誰も否定することはできない、っていう説」
「五分前? そんなわけないだろう。今日、一日俺らは学校にいた。ちゃんとしっかり覚えてる」
夜風の質問の意図はわからない。だが、その質問に少し興味を持った夕人は、五分前の記憶を正確に思い出した。
「でも、その記憶が誰かの手によって作られたものだとしたら?」
「そんなことあるわけないだろ」
「あるわけないわよね。でも、ときどき私は不安になるの。この体も、この記憶も、全て偽物なんじゃないかって」
夜風の瞳は光を失っているように見えた。
「家に帰ると、いつも一人ぼっち。誰かと接していないと、不安になるのよ。私は本当に存在するのかって」
「……夜風」
夕人には、夜風が涙をこらえているように見えた。母親を亡くし、父親もほとんど家に帰ってこない。夜風は、その境遇から一人でいるのが寂しいのだと、夕人は思った。
常に冷静沈着で、感情を表に出さない夜風。そんな彼女の弱い部分を垣間見て、夕人は少し安堵した。夜風も普通の女の子なのだと。
「でも、こうやって誰かと一緒にいれば、確かに私は存在する」
細長い腕を夕人の腰に回した。夜風から抱き着かれるのははじめてだった。
「ああ。確かにお前はいるよ」
夕人は、夜風の頭を優しく撫でた。
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